涙の価値
短編集にしてまとめようと思ったので
床に落ちた涙を見た。
顔を上げれば数人の少女たちが笑っている、彼女達の顔はどうにも思い出せそうにない、その中で1人、手を差し伸べる少女。
小学生のころ私はいじめを受けていた。
――画面に映る「¥150,000」の数字を、アヤはしばらく見つめていた。それが、今、彼女の手元に現金として振り込まれようとしている。
アプリ“relive“は人の記憶の売買ができ、まるで追体験できるVR商品である。
記憶を売り、記憶を買う、ついに資本主義は人の記憶すら売買できるように科学の進歩を焚きつけたのだ、しかし欠点が1つある。
それは、記憶を売れば記憶はなくなってしまう、生きていたいと思えた喜びも足をすくうような後悔も。
「これで、まず1ヶ月は生き延びられる……」
スマホを握る右手がわずかに震える。決済ボタンを押せば、あの体験はもう彼女の一部ではなくなり、“relive”のどこかで誰かに見られる。レビューがつくたび、知らない誰かの涙を誘うのだろうか。
「お金のためだ、仕方ない」
アヤは小さく呟くと、意を決して画面をタップした。
――ガチャリ、と画面が切り替わり、取引完了の画面が表示される。
レビュー欄には既に、1件目のコメントが流れ込んでいた。
“…こんなに胸が締め付けられる体験は初めてでした。ありがとう。”
アヤはそれを見て、震える声で呟いた。
「ありがとう、じゃない。これは……」
――夜の帳が降りる頃、アヤは再びスマホを手にしていた。
前日売りに出した「いじめられていた小学生の記憶」は瞬く間に完売し、レビュー欄には称賛の声があふれている。
“まるで映画みたいな記憶で感動しました!”
“こんなにリアルだなんて…涙が止まりません。”
そのコメントを見るたびに思わず笑みがこぼれる。
「私の痛みが、誰かの心を動かしたんだ…」
彼女はまるで自分が誰かを救ったような錯覚にとらわれた、私の体験した痛みはきっと誰かの心の支えになったのだ、とそう思えた。
ふとアヤはreliveに並ぶ記憶のランキングを見る。
「“親からの虐待の記憶”、それとは逆に感動的な“親友との死別の記憶”、“家の取り決めで叶わなかった恋の記憶”なんてものもあるのね。まるでロミオとジュリエットみたい」
多種多様な記憶が売られている、しかしランキング上位に入る話は悲劇ばかりだ。
「あ、もうこんな時間か」
テレビ画面の右上に7:00という数字が並び、ニュースアナウンサーが今日のニュースを読み上げる。
“近年犯罪率が上昇して――――”
「そろそろ、準備しないと」
数日後、“relive”から特別イベントの案内が届いた。
《人気記憶クリエイター限定オフ会:あなたの記憶の“体験者”と直接会えるチャンス!》
そんな詐欺臭い題名に訝しそうな顔を浮かべる、たった一つしか記憶を売っていないのになぜ人気記憶クリエイターなのだろうか、という疑問はあるがアヤが脳裏で一番気になることが1つあった。
自分の記憶の評価だ、確かにレビューではいい評価ではあったが体験者たちが本当はどう思っているのかが気になっていた。
次の瞬間にはアヤは申し込んでいた。
集まった十数名の記憶クリエイターと、その記憶を購入し体験した「体験者」たち。
どこか奇妙な光景だった。
他人の苦しみを“買って味わった”者たちが、今、その本人と笑顔で談笑している。
アヤの前に、ひとりの男が立つ。
スーツ姿で、年齢は30代後半だろうか。優しげな笑みを浮かべていた。
「あなたの“小学生の記憶”を買ったカミヤです。どうしても直接お礼が言いたくて」
アヤは戸惑いながらも会釈する。
彼は、まるで懐かしい物語を語るように言った。
「壮絶ないじめの中、一人の女の子が手を差し伸べる、そして“僕”は泣きながら家に帰るあの道、夕焼けの匂いまで感じられました。あれを体験して…僕、少し変われた気がするのです」
「変われた…?」
「そう。人に優しくなろうと思えたのです、あの少女のように。あなたの記憶が、僕の中の何かを動かしたのです」
アヤは微笑んだ。
自分の痛みが、誰かの人生をよくした。それはとても嬉しかった。
「あの後の少女との記憶は売らないのですか?もちろん良い値で買いますよ?」
あの少女との記憶・・・
「アヤさん?」
名前は・・・確か・・・
「誰、だっけ」
冬の風が私の頭をクリアにする、先刻から一つの疑問がぐるぐると頭の中を駆け巡る。
あまりにもおかしな話だとアヤは思った、もはや記憶はないがカミヤが言うにはいじめられていた私に手を差し伸べてくれた存在がいたはずなのだ、そんな存在を忘れるはずがない。
記憶売買アプリreliveは記憶を切り取るだけだ、その人物のすべての記憶が無くなるという事はありえないはず、それに小学生の記憶ならば同じ小学校にはいたはずだ、帰って卒業アルバムなどを調べればその人物が出てくるだろうか。
「えっ」
ぼんやりと家路を歩く道中に少し大きな橋が架かっている、この町を象徴する川はこの地域の地名にもなっている県内でも最大級の川だ。
当然水深は深いし川幅も広いため橋も水面から高い位置に設計されている、そのためか毎年何人かが川へと飛び込む、その理由は言うまでもない。
そして目の前の人もそれが目的だろう、制服を着た若い女の子だというのに。
「ちょっと待って!」
そう叫ぶと生気のない顔がこちらを見る、すぐさま駆け寄って身を乗り出した上半身を無我夢中でつかむ。
「な、何しようとしてるの!」
アヤは彼女の体を掴む、抵抗力はなく二人は橋上に倒れた。
心臓の音が跳ねる、非日常的な出来事に緊張状態で重たい体を起こす。
少女の顔を覗き込む、ただただ無表情な顔に生気のない目はまるで人形のようだ。
どこかで見たことがある、とアヤはそう思った
「とりあえず、場所を変えましょうか」
橋を引き返してすぐのところの喫茶店に入る、実はアヤが密かに気にしていたのだが、まさかこのような形で訪れるとは思ってもいなかった。
入るとすぐにコーヒーの匂いが彼女達を包み込む、店内を見回すと客はいない。
一番奥の窓際のテーブルに腰を下ろす、終始少女は無言だった。
「エスプレッソとミルクティーをお願いします」
注文を取りに来た店主が来た、制服姿の少女が一貫して顔を上げないのを少し不思議そうに見ていたが注文を取り終えるとすぐに奥へと引っ込んでいく。
「もう、冬が来たのね」
アヤは窓の外を見ながら呟いた、返事は期待してはいなかった。
「去年も一昨年も雪が降ったわね、この辺りは本当に雪が降る」
それを最後に沈黙が訪れる、店内bgmのピアノとフルートの音がひどく鮮明に聞こえてくる。
気が付くとエスプレッソとミルクティーが運ばれてきた、コーヒーの独特の香りはどこか思考をクリアにする。
「なにかあったの?」
今まで聞こえなかった秒針の針が音を立て始める、いつしかフルートの音色は聞こえなくなっていた。
「話したくなかったらいいの、ただ、この時期の川の水温はとても低いから」
少女は初めて顔を上げる、少し血色が戻ったのか先ほどより顔色は良い。
「・・・死ぬにはあまりいい季節だとは思えないは」
無表情だった彼女の顔が少し歪むのをアヤは見た、数秒の間彼女たちは見つめあう。
少女はついに涙を流した。
「いじめられているの」
数分、声を殺して泣く少女をアヤは黙って見ていた、その合間に彼女が呟いた言葉だ。
”いじめられている”、それはとても辛いことのはずだ、私もいじめられていた、でも、分からない。
どれだけ辛かったのか、なんと声をかけてほしかったのか、当時何を思っていたのか。
大丈夫だよ、辛ければ逃げたっていい、そんな、そんな上っ面の安い言葉しか出てこない、ほんの一欠片でもあの頃の記憶を覚えていれば。
「大丈夫だよ、辛ければ逃げたっていいの、人生は、長いのだから」
少女は笑った、ひどく歪な笑顔だった。
橋を渡る、本当に長い橋だ。
あの後、少女を家まで送り届けた、表情は喫茶店に出る時と変わらなかった。
彼女の痛みが分からなかった、ほんの少しでも分かるはずの人間なのに。
あの時、私を助けてくれた女の子は何と言ったのだろうか、きっと私が欲した言葉だったのだろうか。
気づくともう家についていた、鍵をポケットから取り出し鍵を開ける。
「卒業アルバム、か」
Reliveで売った記憶は戻らない、つまりはどれだけ思い出深い物を見たところで思い出すことはないのだが、アヤは何かに取り憑かれたように探し始める。
「ない、なんでないの」
1人暮らしをする時に確かに実家から持ってきた記憶はある、だがこの狭い部屋のどこを探しても見つからない。
そして一人、彼女は夜の部屋に佇んだ。
それから、ひと月がたった。
寒波はますますこの地域を包み、先日はついに雪を降り積もらせた。
アヤは足場の悪い帰路についていた、あれ以来記憶に対する手がかりは何もない。
なぜ、記憶を売ったのだろうか。
記憶の手がかりを追い求めるうちにそのような疑問が生まれた。
私を助けてくれた少女の記憶が丸ごとない、というのはあまりにも不自然だ。
お金のためなら記憶の一部分だけを売ればいい、なのにある一人の人物だけの記憶を丸ごと売るというのはあまりにも度が過ぎている。
それほど関わりのある人物ではなかったのか?
考えられる可能性はそれだ、それなんだ、でも。
理性では分かっているのに何かすべてが引っかかる。
「あぁ・・・・」
アヤの目の前に花束を抱えた中年の男が川を見つめている。
遠く遠く、どこまでも遠く。
その場所は先日の少女が飛び降りようとしていた場所だった。
「・・・あなたは、お久しぶりです」
男はアヤに気づいて生気のない声で声をかける。
「あぁ、すみません、記憶を売ったのでしたね」
アヤはその言葉で目を丸くした。
今自分が持っている疑問をこの男は何か知っている、その反応にアヤは彼に問いを掛けようとしたが、彼が大切に抱える花束を見て口をつぐませた。
「場所を変えましょうか」
彼は花束を置き、手を合わせ、アヤの視線に答えるように彼は歩き出した。
何の皮肉か橋を引返したすぐの喫茶店に男は入っていく。
この前と同じくこの喫茶店には客はいない、コーヒーの匂いもそのままであの少女と来た日から時が止まっているようだ。
「もう、冬が来ましたね」
「そうですね、雪も降るほどに」
注文したエスプレッソを飲みながら男を観察する。
顔色は悪く、涙を流しつくしたのだろう、生気はない。
「本題に入りましょうか」
そう言って男は紅茶をすすり重い口を開く。
「あなたが記憶を売ったのは私の妻、”ユイ”と関係があるのです」
その名前を私は知らない、知らないはずなのに。
「あなたとユイはとても仲が良かった、小学生のころだと聞いています」
間違いない、とアヤの中で核心に変わる。
「それから、ずっと親交があったと聞いています、中学にあがっても高校にあがっても、何年たっても」
アヤはない記憶を手繰り寄せようと頭を回す、回して、回して、虚しく、何度でも。
「ですが、ユイは死にました」
その言葉でアヤの手が震える。どこかで分かっていたというのに。
「そこから、あなたは記憶を売ったのです」
男の話は淡々と要点をまとめるような機械的なものだった、それとは対照的に口を結び、表情に力がこもる。
「理由は、私の情けない話になるのですが、ユイが死に私は精神的に追い詰められ働ける状態ではなかった、娘もいたというのにです」
最後の言葉に男の力がこもる、機械的な口調とは思えない、そんな表情だった。
「そのような親子を見かねたあなたは、reliveにユイとの思い出を売って、そのお金で私たち親子に全額寄付していただいたのです、最初、私は反対したのですが、あなたの意志はとても固かった」
「・・・そうなのですね」
それを聞いたアヤは、同じ状況になっても同じことをしただろう、と思っていた。
あの橋上の花束を見なければ。
後悔した、記憶を売ったことを。
「ユイの墓の場所を教えてくれますか?」
そう問うと男は少し微笑み、場所を教えた。
エスプレッソを飲み切る、苦い味だ。
「冬の水の中は冷たいですよ」
男が立ち上がるときにアヤはそう呟く、すると男は止まり、呟いた。
「そうですね、でも、それに見合う価値はありそうです」
彼は振り返らず喫茶店から出ていく。
思い出の中に消えていくのだろう。
雨の中を傘もささずに歩いた、冷たさなど気にならなかった。
ただ、ひたすらに足を動かした。
記憶があって、あの少女を救えたら、こうなってはいなかった、そんな後悔が五感を埋め尽くす。
あたりは薄暗くなってきた時、アヤは目的地に到着した。
一輪の花と子供用の可愛らしいリボンが墓の前に備えられている。
ユイ
心の中でそう言っても何の実感も湧かなかった、ただ降りしきる雨だけが体温を奪っていく。
ユイ
何度も繰り返す、何度も、何度も、石墓の前で何度も。
だが、リボンを視界で認識した時、アヤの感情は決壊した。
ごめんなさい、あなたの娘を救えなくて、ごめんなさい、ユイ、あなたは私を助けてくれたというのに、私は、私は。
アヤは膝から崩れ落ちた、涙は止まらなかった。
記憶のどこにもいない、彼女の墓の前で。
蛇足編は元のやつにあるのでそちらで




