第1章:ポケットの中の空白
春、まだ肌寒さの残る朝。
駅のホームに吹き抜ける風が制服の裾を揺らす中、相原夢翔は人波に飲まれながら、いつも通りの電車を待っていた。
高校二年生になって初めての登校日。
新しいクラス、新しい担任、新しい座席……。
それらすべてを前にして、夢翔の胸はどこかぼんやりとしていた。
――特別なことなんて、今日もきっと何も起こらない。
それが彼の日常だった。
夢翔は「何かになりたい」と思ったことが一度もなかった。
サッカーが得意でもなければ、成績が特別優秀なわけでもない。人付き合いも悪くはないが、群れるのはどこか疲れる。
どこにでもいる、無色透明な高校生。
彼自身が、自分のことをそう捉えていた。
ポケットに手を入れる。小さく折りたたんだ紙切れが指に触れた。
それは、中学の卒業式の日、担任の先生が配った「将来の夢」アンケートのコピーだった。何も書けずに提出し、後でこっそり返してもらったものだ。
――あのときから、まだ真っ白のまま。
電車が到着するアナウンスが流れる。
夢翔は目を閉じた。今日も、きっと同じ毎日が始まるのだ。
午前八時三十五分。
新年度の始業式を前に、生徒たちは慣れない教室の空気に戸惑いながらも、新しいクラスメイトとの距離感を測っていた。
2年B組。
夢翔は窓際、後ろから二番目の席に座っていた。クラス替えで見知った顔は半分もいない。
「よっ、相原」
声をかけてきたのは、結城涼真。
スポーツ万能、頭脳明晰、爽やかな笑顔が似合うタイプの男子で、夢翔とは一年のときからのクラスメイトだった。
「相変わらず、元気なさそうな顔してんな」
「元気があるように見えたら、それは逆におかしいだろ」
「その皮肉っぽいとこ、変わんねえな」
涼真は笑って席につく。
夢翔は苦笑しながら、改めて周囲を見渡した。
そして、目が止まった。
教室の後方、黒板脇の席に座る、一人の女子生徒。
肩までの黒髪に、整った横顔。
静かに開かれた文庫本に指を添えて、まるでそこに存在していないかのような空気をまとっていた。
「……あの子、誰だっけ?」
「ああ、七瀬花音。中学は別だけど、たしか今年転校してきたんだって。前は都内の中高一貫校にいたとかなんとか」
「転校……?」
夢翔は、なぜかその横顔が気になった。
彼女が本のページをめくる指先は静かで、それでいて強く、どこか意思を感じさせた。
その瞬間、彼女がふと顔を上げ、夢翔と目が合った。
……いや、正確には、目が合った「気がした」だけかもしれない。
すぐに彼女は視線を戻し、本の続きを読み始めたからだ。
けれど、なぜかその一瞬が、夢翔の胸に深く刻まれた。
放課後。
教室を出ようとした夢翔は、ふと足を止めた。
窓の外を見ると、校庭の隅に人影があった。グラウンドの端、誰もいない場所で、一人座っている人がいた。
制服のシルエットから、七瀬花音だと分かった。
誰にも話しかけられず、一人でいるのが彼女の「普通」なのか、それとも――
「……気になるなら声、かけてこいよ?」
涼真が後ろから肩を叩いた。
「べつにそういうんじゃ……」
「じゃあ、なんで立ち止まってんだよ。ほら、チャンスだぞ? “転校生に話しかけて、距離を縮める王道パターン”ってやつ」
「そういうテンプレ、あんまり好きじゃないんだけど」
「けど嫌いでもないんだろ?」
涼真の一言に、夢翔は肩をすくめた。
自分から誰かに近づくことなんて、あまりなかった。
けれど、なぜだろう。
七瀬花音には、「話しかける理由」が欲しかったのかもしれない。
夕焼けが差し込む図書室。
静かなその空間で、本棚の陰に彼女の姿を見つけた。
本を読んでいる――と、思ったのは最初だけだった。
よく見ると、開かれたページの先をじっと見つめているだけで、視線は文字の上を動いていなかった。
「……何か、探しもの?」
思わず、声をかけていた。
七瀬花音は、ゆっくりと顔を上げた。
そして夢翔を見て、小さく首をかしげる。
「……あなたは、同じクラスの……?」
「あ、相原。相原夢翔。2年B組」
「……そう。何か用?」
声は静かで冷たくはないが、どこか距離があった。
夢翔は、それでも言葉をつなぐ。
「さっき、教室で本を読んでたよね。……何読んでたのか、ちょっと気になって」
「“夢を食べる動物の話”っていう短編集。あんまり有名じゃないけど、好きなの」
「夢を、食べる……?」
花音はふっと笑った。
はじめて見るその笑顔に、夢翔の心臓が一瞬、跳ねたような気がした。
「夢って、食べられたら終わっちゃうんだって。でも、その動物は“食べない”って決めたの。理由は、“人間が夢を持ってる顔を見るのが好きだから”って」
「……それ、ちょっといいな」
「でしょ?」
二人の間に、静かな空気が流れた。
それは、気まずさでも沈黙でもなく、「これから」を予感させるものだった。
翌日。教室に入ると、昨日より少しだけざわついている気がした。
「相原、昨日、七瀬さんと話してただろ?」
涼真がやってきて、肘でつつく。
「……見てたのか?」
「見たよ。あと、教室でそれ言ってる奴、もう結構いるから。ほら、あの手の“転校生×クラスの男子”みたいなの、目立つからなー」
夢翔は机に突っ伏しながら、小さくため息をついた。
ただ話しただけ。名前を交換しただけ。
でもそれだけで、誰かの中では何かの物語が始まってしまう。
そういうのが、少しだけ煩わしかった。
「別に、そういうんじゃない。俺はただ……」
自分でも、何が“ただ”なのか分からなかった。
彼女の話し方が静かだったから?
本の話が興味深かったから?
それとも、どこか寂しそうな背中が気になったから?
夢翔は机の中からノートを取り出した。
そこには、いつかの自分が白紙で提出できなかった「夢」アンケートが挟まれている。
――夢。
それは人に聞かれたとき、口ごもってしまうもの。
持っていないのは恥ずかしい気がするけど、持っていても口に出すのが怖い。
そんな曖昧で、脆くて、だけど確かに人を動かすもの。
昼休み、屋上。
風に髪をなびかせながら、七瀬花音はスケッチブックを広げていた。
筆圧の跡が微かに見える。声優志望と聞いていたが、絵も描くのだろうか?
「また会ったね」
夢翔がそう声をかけると、花音は軽く頷いた。
「ここ、落ち着くから好きなの。風の音だけが聞こえるでしょ?」
「たしかに。あんまり人いないし……」
二人で並んでベンチに座る。
特に言葉は交わさない。けれど、沈黙が心地よく感じられた。
「ねえ、夢翔くんは、夢ってある?」
その問いは、ふいに、まっすぐに投げられた。
「……ないよ。ずっと考えてるけど、分かんないまま」
花音は「そっか」とだけ言い、小さく笑った。
「私は、小さいころから“声”が好きだった。アニメやドラマのセリフ、声の抑揚。誰かの感情が音になるのって、不思議で素敵で。だから、声優になりたいって思ったの」
「すごいな……ずっと、決まってたんだ」
「ううん、怖かったよ。誰かに話すのも、“なれるわけない”って言われるのも。でも、おじいちゃんが背中を押してくれた。“お前の声は、人の心に残る”って」
花音の声が、少し震えていた。
夢翔は何も言わず、ただ聞いていた。
彼女の言葉は静かに、しかし確かに心に響いた。
「夢翔くんにも、何かあると思う。まだ気づいてないだけ」
「……そうかな」
「うん。そういう顔してるから」
“そういう顔”――
それがどんな表情なのか、自分では分からなかった。
けれど、誰かにそう言ってもらえたことが、少しだけ嬉しかった。
その夜。
夢翔は自室で机に向かっていた。
教科書や参考書の山の中から、ふと一枚の紙を取り出す。
――将来の夢。
空白のまま、何度も見て、何も書けなかったその欄。
だが、今日はペンを握る手がほんの少しだけ、進んだ気がした。
《“誰かの夢を、見つける手伝いができたら”》
書いた言葉はまだ曖昧だ。
けれど、ゼロではない。
ポケットの中に、何かが入ったような感覚がした。
小さな希望のかけら。それが、自分の中で初めて“芽吹いた”瞬間だった。
翌週、ホームルームの時間。
担任の三谷先生が、教壇に立っている。年配で温厚な雰囲気の男性教師。教え方は丁寧で、生徒たちからの信頼も厚い。
「みんな、ちょっとしたお知らせだ。来月、進路面談を行うことになった」
その言葉に教室がざわつく。進路。夢。将来。
まだ“今”が中心の高校生たちには、少し遠く感じるテーマだ。
「……とはいえ、あまり気負わずに、自分のペースで考えていけばいい。夢というのは、誰かに急かされて見つけるものじゃないからね」
夢翔は、思わず前のめりになった。
三谷先生の言葉は、どこか自分に向けて言われたように思えた。
ふと隣を見ると、花音も静かに耳を傾けていた。
「ちなみに、相原」
「えっ……僕ですか?」
三谷先生は穏やかに笑った。
「面談、楽しみにしてるぞ。君とじっくり話したいことがあるからね」
「……は、はい」
教室中から視線が集まる。
夢翔は少し顔を赤らめながら、それをやり過ごした。
放課後、図書室。
窓際の席で夢翔は花音と向かい合っていた。
いつものように彼女は本を読んでいたが、今日は何か話したそうな顔をしていた。
「今日、先生が言ってたよね。夢の話」
「うん……ちょっとびっくりした。まさか名前を呼ばれるなんて思わなくて」
「相原くんって、たぶん……見られてると思うよ。先生たちにも、周りにも」
「そんな目立つタイプじゃないけどな」
「うん。でも、“何かありそうな子”って、わたしは分かる気がする」
花音はそう言って、ふっと視線を落とした。
「わたし、前の学校ではクラスになじめなかったの。声優志望って言っただけで、“そんなのムリ”とか、“夢見すぎ”って言われて」
夢翔は黙って聞いていた。
花音の声は小さく、けれど切実だった。
「だから、本当に話せる人がいなかった。今も……夢の話をできる相手って、まだ、少ない。でもね、夢翔くんなら……って、思ったの」
彼女のまっすぐな眼差しを前に、夢翔は何も返せなかった。
心の奥が熱くなる。誰かに「話したい」と思ってもらえること。
それが、こんなにも嬉しいことだとは知らなかった。
その夜、夢翔は祖父の銀次郎に呼ばれて、縁側で茶を飲んでいた。
「夢翔、学校はどうだ?」
「まあ、ぼちぼち。……でも、最近、ちょっと変わってきたかも」
「ふむ」
祖父は湯呑をゆっくりと傾ける。
「夢ってのはな、ポケットに入るくらいでちょうどいいんだ。重すぎても、でかすぎても、動きづらい。だけど、持ってさえいれば、どこにだって行ける」
夢翔はその言葉を静かに噛みしめた。
ポケットに夢を詰める。
まだ形にはなっていない、けれど確かにそこにある“何か”。
それを、大切に持ち歩くことで、いつか自分の進む道になるかもしれない。
「ありがとう、じいちゃん」
「おう。焦るな。夢ってのは、育てるもんだからな」
春の夜風が縁側を通り抜ける。
その風の中に、小さな希望がそっと運ばれてきたような気がした。
数日後。
放課後の教室。夢翔は、手にしたノートを机に置いた。
それは「夢ノート」と、彼が勝手に名づけたもの。思いついた言葉、見た映画、感じたことをなんでも書き留めるための、小さな一冊。
隣に座った花音が、興味深そうに覗き込む。
「なにそれ?」
「ちょっとした……記録帳みたいなもん。夢って、すぐ逃げるから、忘れないうちに捕まえておこうと思って」
花音は笑った。
「それ、いいね。“夢を捕まえるノート”。まるで物語の始まりみたい」
夢翔は、自分の中で何かが変わり始めているのを感じていた。
昨日まで無色透明だった自分の中に、少しずつ、色がついていくような感覚。
それはきっと、七瀬花音という存在が、ポケットの中に光をくれたから。
その日、夢翔は帰り道にふと足を止めた。
空を見上げると、夕焼けの色がやけにまぶしく見えた。
――いつか、花音の夢を応援できる自分になりたい。
――そして、自分の夢も、少しずつ見つけていきたい。
ポケットの中。
あの日と同じ紙切れが、今はもう、白紙ではなかった。