閑話 ルナの想い - 1
──今日は、とてもいい日だった。副団長とずっと一緒で、ご飯も食べられて。
一日でこんなに長く一緒にいられたのは、それこそ彼と出会ってからの一年以来だろうか。
あれは、私の人生においてもっとも幸福だったと断言できる日々。
暗闇の中から掬い上げられ、この世に生まれてきて良かったと、彼のおかげでそう思えた。
──そんな私の人生を変えた出会いは、今から八年前。
街の巡視を行っていたセージ小隊に、幸運にも見つけてもらえたことが始まりだった。
当時十八歳だった私は、病気の母と幼い兄弟たちを養うため、様々な職場を転々としていた。
専門的な技術こそなかったが、幸い母譲りで見た目は多少良かったから、街の宿屋や酒場で給仕の職にありつくことはできた。それでも、あまり器用でなく失敗をしてしまうことが多かったり、愛想がないと客から文句がはいったり――そもそも獣人という差別を受けやすい種族だったこともあって、どの職場も長続きはしなかった。
それでも、大事な家族を守るため、毎日必死に職を探し、なんとか見つけた場所で懸命に働き、そしてまた追い出されて次の職場を探す毎日。
当時はいまより子どもで、なんで自分だけこんなに苦しまなければならないのかと、誰にも見られないよう泣いたこともあった。
昔は父も母も元気で、年下の兄弟が生まれてにぎやかで、そんな毎日がとても楽しかったのに。父は流行り病で亡くなり、母も命こそ助かったものの、自由に動くことはできなくなり。
私が働くしかなかったけれど、それでも。誰かに助けてほしいと、何度もそう願った。
その日も朝早くから宿屋の給仕と雑務をこなして、へとへとになっていた時間帯のこと。
夜の食事の提供が終わり、店主がその日の勘定を数えている間、私はこれで終わりだと疲れた体に喝を入れ、食堂の掃除をしていた。
そしてその時、事件は起きた。
「帳簿と金額が合わない」と、積まれた硬貨を見ながら店主が叫んだのだ。これまでも同じようなことは何度かあったが、しかし今回はそれらとは明らかに違う額の差異が出ていると。
店主はその場にいた従業員を集め、誰か何か気づいたことはないか、またどこかにまとめたお金を置いていないかと騒ぎ始めた。
いつもならばそのうち差額の原因が分かったり、別の場所にまとめていたお金が見つかったりと、大きな問題にならずにことは済んでいた。
しかし、その日は運悪くすぐには原因が分からず、差分のお金も見つからない。
己の財産のこととあって、店主はそれこそお金が見つかるまでは誰も帰さないといったくらいの勢いで、私たちを激しく詰め出した。
当然従業員はみんな早く帰りたい。私だってそうだし、他のみんなも全員そう思っていたはず。そして、そんな同じ方向の思いが、今回は私にとって不都合なことに、この場でもっとも弱者である存在を矛先にした。
――そう、つまり彼らは、社会的な弱者である獣人にすべての罪を押しつけることにしたのだ。
彼らは結託して私がお金を盗んだところを見たと店主に告げる。一縷の望みを持ってそんなことはしていないと否定するも、しかし店主は信じてくれなかった。
獣人種はたいていの国で大なり小なり差別されており、比較的マシなシリウス王国でもそれは同じ。獣人のたいていが貧しい暮らしをしていることもあり、獣人による盗みが多いのも事実なのだ。
なんど否定しても信じてくれず、お金を返さなければ衛兵を呼ぶとまで言われ、どうしよもなく私は逃げた。獣人としての恵まれた身体能力は、簡単に人に追いつかれはしない。
それでも、多勢に無勢である。騒ぎはどんどん大きくなり、それこそ本当に衛兵までやってきて、私は大勢の人に追われる。
速度では決して負けない。それでも、物理的に逃げ道をふさがれ、次第に進む先が無くなっていき、そして最後には……。
それでも、やはり獣人の身体能力があれば、取り押さえられたところから無理やり逃げることだってできた。直接誰かを殴ったりなどしなくても、抑えられる手をほどき、囲いに突っ込んで体で押し込めば、逃げられたのだ。
けれど、私はもう、限界だったのだろう。
自分を囲んで、四方八方から罵声を浴びせてくる大人たち。
逃げて家に帰っても、こんな騒ぎになればもう雇ってくれる店があるはずもなく、生活の先行きは真っ暗。
私はもう、すべてを放り出してしまいたかった。
衛兵に何やら問い詰められるも、頭は働かず、音も水の中で聞くように遠い。何も言わずにいると、襟をつかんで持ち上げられ、頬をひどく打擲される。
こんなに苦しいのなら。もう、このまま終わってしまおうか。
そう、思った時だった。
――現れたのだ。私の光が。
「何をやっている?」と、そう声を上げ、囲いを割って入ってきた立派な騎士。当時はまだ上級騎士で、小隊長を務めていたセイリオス・セージ。
きれいな鎧に身を包み、見るからに鍛えられた黒髪の彼は、その場にいる全員から畏敬の念を持たれる騎士だった。街の治安維持にも大きく貢献してくれている彼ら青狼騎士団を、住民たちは深く信頼していた。
それでも、その時の私にはまだ、私をいじめる大人が増えたのかくらいにしか、感じることはできなかった。
そして、それは大きな間違いだった。
彼は手早くその場の衛兵から事情を聞くと、詳しく聞きたいと宿屋の店主や従業員を呼びつけ、事の発端を聞き出す。
そして、少し考え、衛兵に離されて地面にへたり込む私のもとへきて、問うたのだ。
「ほんとうに、君が盗んだのか?」と。
どうせ、何を言っても信じてはくれまい。そう思った。そう思ったのだけれど……。
それでも、私は彼の綺麗な深い深い、ほとんど黒に近い紫の瞳を見て気が付いた。
彼の目は、他と違う。私のことを見下していない。蔑んでいない。
どころか、彼が軽く周囲を見回すその視線にこそ、唾棄すべきものを見たかのような、黒い色が浮かんでいた。
それで、私は思わず言ったのだ。「私じゃありません。誓って」と。
そこからは早かった。彼――リオ隊長は私をやわらかく抱き起すと、周囲に向かって宣言した。
ここからは法に則って判断すると。この場においては、私がお金を盗んだ証拠はなく、一部証言があるのみで実際に盗んだお金は見つかっていない。だから、この場で私を罰することは許さない。正式な調査をもって、判断を下すべきだと。
その日、私は解放され、家に帰ることができた。翌日からすぐに詳細な調査が始まったようで、監視として隊長が来ていたこともあって、あっさりと事件の真相が明らかになる。
結果として、私は無罪であることが証明された。店主の帳簿のほうに誤りがあると分かったのだ。店主は隊長に促され、しぶしぶ私に謝罪し、いくばくかの詫び料まで渡された。
私はそれでも、もうこれ以上その宿で働く気にはどうしてもなれず、そのまま職を辞することにした。そうして、調査を終えた隊長やその他の衛兵たちと一緒に外へ出て、そのまま別れようとした時だった。
隊長から、気づかわし気な視線とともに声を掛けられた。「大変だったね。けど、君はなにも悪くないんだから、胸を張るんだ。もしこの騒ぎのせいで次の職に困ることがあれば、私を頼ってくれていい」と。
そんな言葉を聞いて、そして少しして。
――私は、胸にあふれる熱い思いが、そのまま瞳から零れ落ちるのを止めることができなかった。
私の初恋が始まったのは、きっと、この時からだった。