聖女エリーゼの場合 - 13
――翌朝。
太陽はまだ昇りきっておらず、周囲は薄暗い。昼間は様々な動物で賑やかなこの森も、まだ静穏に包まれている。
そして、そんな静かな深緑の中、俺は朝露に濡れる草木をかき分けるように進む。
――エリーゼのやつ、声かけてもぜんぜん起きないし。結局今朝も俺ひとりかよ。
昨夜、魚を捕まえるために早起きし、ふたりで川へ行こうと話した記憶はまだ新しい。昨日の時点では乗り気だったというのに。
エリーゼがいなくても、べつに食料調達に支障はない。ただいい機会なので、彼女も自活の術を覚えた方がいいとは思うのだ。今後も教会という魔境で生きていくなら、どんなスキルもあって損にはならない。
エリーゼに対してはつい甘くなってしまう自分を反省し、小川への道を進む。
そうして、やがて穏やかな清流のもとまで辿りついた俺は、食べられそうな魚がいるかざっと川を見渡してみる。
ゆらゆらと水草が揺れ、落ち葉や折れ枝がゆったり流れるこの川は、肉眼でも底が見えるほど透き通っている。しっかり魚も泳いでおり、それほど大きくはないが腹を満たすには十分そうだった。
この時間だとまだ魚も眠っているが、確実に捕まえるためには……。
俺は小川のほとりでしゃがみ込み、地面に手を向ける。
「《土壁》」
簡単な魔法で大地を動かし、川の一部に即席の囲いを作ってやる。その中にきちんと魚が入っていることを確認したら、今度はそのまま囲いを拡張して俺ごとドーム状に覆ってしまう。
そして、囲いの中の水面に向かって手を掲げた。
「――《雷火》」
天井の小さな穴から光が微かに漏れるだけの中で、バチっという音と、強い光。手のひらから一瞬だけ放たれた電流が水面にあたると、破裂音とともに水しぶきが上がった。
そして、舞い上がった飛沫が水面に戻ってくると同時、ぷかぷかと腹から浮かび上がる何匹もの魚たち。
雷魔法が攻撃以外で役に立つ貴重な場面だ。それでも、音と光で目立たないようにすることは必須だが。
俺は手早く回収した魚を、持ってきていた鉄鍋に入れると、土壁を元の地面へ還す。
――よし。今日のメイン食材はこれで十分だな。
朝晩にふたりで食べるには十分な量の魚を見て、俺は次の食材を探しに踵を返す。
そうして、森に自生する食べられる野草やキノコ、それに木の実なんかを物色することしばらく。気づけば俺は、鉄鍋のほかに持ってきていた小籠もいっぱいにしていた。
――一緒に食事してくれる人がいると、どうもこだわっちゃうな……。
俺ひとりであったなら、もっと作業は早く終わっていた。せっかくなら美味しく食べてほしいからと、できる限り質の良さそうなもの、昨日は食べていない珍しい種類のもの、そんな風にえり好みしていた結果、昨日までと比べてもずいぶん時間をかけてしまった。
すでに陽はすっかり昇り、森の多くの生き物たちが活動を始めている。さすがに、エリーゼももう起きているだろう。
お腹が空いたとぼやかれないうちに戻らなくてはと、俺はエリーゼの待つ小屋への帰路につく。きっと無邪気に喜ぶだろう彼女の顔を想像し、心持ち歩調を早めて。
――しかし。そうして、そろそろ小屋も近づいてきた辺りで。
……!
違和感を覚えた俺は、立ち止まって足元に目を向ける。そして、気づく。
地面がずいぶん、踏み荒らされている――。
視線の先には、俺がふつうに歩いたときより深くついた足跡。それが、この辺り一帯をさまよい、そして森の奥へと続いている。
……まさか、俺たちの追手がここまで――?
そう、一瞬思ったが。しかし、どうもそんな感じでもないと否定する。
もし教会から追手が付くとしたら、相手は必ず手練れを含む小隊以上の単位で動くだろう。以前四人の神殿騎士を俺ひとりで退けているのだから当然だ。
だがしかし、いま俺が見ている足跡はどう見てもそんな大人数が付けたものではない。足跡はひとつで……それも、大きさから見て女性か子どものもの。
いや、これは……エリーゼの足跡か……?
しかし、そうだとしても疑問が残る。なぜ彼女はこんなに荒々しく足跡を残し、そしてどこに行ったのか。
とにかく、彼女のもとへ急がなくては。
いったん考えることを後回しにし、俺はエリーゼの残したであろう痕跡を辿り始めた。小屋の周囲では法則性もなくふらふらと続くそれは、まるで何かを探して回っているようだ。
しかし、足跡はある時を境に、ひとつの目的地を目指してまっすぐ進み始める。
そう。それは今朝、俺がエリーゼの要望を叶えようと、早起きして辿った道筋。
俺は足早に今日二度目の道を辿り、そして着いたその場所は――
「――エリーゼ……?」
俺の視線の先――今朝、一番初めに訪れた小川のほとりで、俺は目的の人物を見つける。
美しい金糸の髪は乱れ、手足は泥で汚れ、そして人形のように整った顔をどこか呆然とさせ立ち尽くすエリーゼ。
「おい、エリーゼ……!」
俺はもう一度、エリーゼの名を呼ぶ。
彼女のその姿に、どうも嫌な予感を覚えた。
この逃避行の最中、ときおり彼女は不安定になって感情を大きく乱していた。それは何かを恐れる子どものようで、そしていまもそれと同じ――いや、それ以上。
視線の先では、まるで俺たちふたりがまだ教会で過ごしていた頃――俺が教会を去る前に、別れを告げた時の彼女がいるかにようで――。
エリーゼのもとへ駆け寄る俺に、彼女の視線が向けられる。
俺の姿を認識したエリーゼが、逸れた親を見つけた迷子のように目を見開く。安堵からか、端正な顔をくしゃっと歪めた。
もがくようにこちらへ手を伸ばす。
――そして。
あっという間もなく、あふれ出す玉のような涙。
「――り、リオ! リオぉ……!」
気づけば、彼女は泣きながら、俺に飛びついてきていた。
転ばないよう受け止めると、背中に回された腕が全力で、逃がすまいと俺を締め付ける。彼女のやわらかい身体は、しかし今はどこか恐怖で硬直しているようにも思えた。
エリーゼは、困惑する俺の胸に顔をうずめながら言った。
「ま、またわたしを置いて、いっちゃったのかと思った……! ぜんぜん戻ってこないんだもん……!」
その言葉を聞いた瞬間。
俺の胸に、罪悪感のとげが刺さった。
――また、いなくなる。
それが指しているのは、やはり俺たちの別れの一幕。あの時も、エリーゼは涙を流していた。
そして、今もまた――
「ダメだよ、ダメだからね……! わたしには、リオしかいないんだから!」
悲痛な叫びが、俺たちしかいない森にこだまする。
俺は彼女の懇願に頷き、そして安心させようとその頭を撫でることしかできなかった。
……もともと、精神的に弱いところがあったエリーゼだが。
互いの立場が崩れ去って、ずっと一緒だった頃へ戻ったように時間が流れ始めてから。
俺たちは……エリーゼはまるで、あの頃のままのように――




