77話 感謝
「樹! 樹!」
逃げるように家から離れていたところ、美波の声で我に返る。
「ごめん。美波……巻き込んじゃって……」
それに結局美波の存在を認めてもらうことにも失敗した。
ただ自分の感情を爆発させただけで何の解決にもなっていない。
一時の感情にすら負けてしまう。つくづくまだ自分は子どもなんだと思い知らされる。
「私は大丈夫。それよりも樹は大丈夫? 今の樹、酷い顔してるよ」
「えっ。ほんとに?」
「嘘」
「おい」
まさかこの状況で冗談を言われるとは思ってもみなかった。
「でも心配してるのは本当」
それはどうやら本当のようだ。
少しだが、美波の顔から心配の表情が垣間見える。
「ごめん……認めさせることできなかった」
「別にいいよ。ハナから期待してなかったし」
「え?」
「期待してないというか期待する必要がない、の方が正しいかな。だって私からしたらお父さんの了承とか興味ないんだもん。私は樹のお父さんじゃなくて樹自身から認めてもらいたい。他の評価なんてどうでもいい。ただそれだけの話」
なるほど。美波はあくまで他人の評価は興味ないと。
「それともなに? 樹はお父さんの『関わるな』の一言で本当に私との関係を絶つつもりなの? 確かに私が勝手に人の家庭事情に首を突っ込むのは良くないだろうけど、私はそれだけで樹と別れるなんて絶対しないから」
その美波の言葉でようやく気がつく。
どうして今まで気づかなかったのだろう。父さんに言われたからといって、どうして俺はいとも簡単に大切な人を手放そうと考えていたのか。
父さんの言葉で自暴自棄になっていて完全に視野が狭くなっていた。
お互いが別れたくなければ別れない。至極当然のことなのにどうして今まで気づかなかったのだろう。
それなのに俺は一度美波と別れようとした。いや、一瞬だけだが別れてしまった。
「ごめん、美波……」
「謝るなら約束して。これから一生『別れる』なんて言わないで」
「うん。分かった……って」
それってつまり……死ぬまで一緒にいる、ということなんじゃ……?
「まぁ、私が別れたくなったら別れるけどね」
そういうわけではなかった。ただ、俺の選択権がなくなっただけらしい。
「ってか、付き合ってる彼氏に別れる時の話なんてするなよ……」
「ごめんって。冗談冗談」
言いながら笑う美波の隣で俺は安堵を覚える。
「それよりもどうするの? お父さんとのこと」
「……どうしよう」
何も考えずに感情だけで突っ走ってしまったから、後のことは一切考えていなかった。
きっと今頃、父さんは怒っているのだろう。もしかすると怒って海外に戻っているかもしれない。
そう考えると、怖くて家に帰ることはできそうになかった。
「ごめん、美波。もう少しだけ――」
「分かってるよ。一緒にいればいいんでしょ」
「ごめん……ありがと」
俺がそう感謝すると美波はふふっと微笑を浮かべる。
「なんだよ」
「いや。ようやく感謝されたから。今日の樹、謝ってばっかだったからなんだか面白くって」
今日の美波との会話を思い返す。
確かに俺は今日ずっと謝ってばっかりだった気がする。それを美波は気づいたのだろう。
「……ごめ――」
無意識にまた謝ろうとしたところで、人差し指で口を塞がれる。
「もう『ごめん』は禁止ね」
「う、うん……分かった」
「後、ありがとうも言わなくていいから。ただ一緒にいるだけでいいんでしょ?」
「うん。そうだけど……でも、ありがとう。本当に」
「ふふっ。どういたしまして」
美波のおかげで冷静さと落ち着きを取り戻した心臓は、彼女の温かい手により、一瞬にして落ち着きを失う。
体が熱く火照っていき、繋がれた手に変な汗か滲む。
覚悟を決めた俺は繋がれた手を離して、ようやく自分から、
「…………」
美波の唇に自分の唇を重ね合わせた。
少しの間、唇を重ね合わせていたが、恥ずかしさでどうにかなってしまいそうだったので、美波の唇から顔を離す。
仄かに染めた美波の顔を見ていると、目が合う。
「三秒」
「え?」
「だから。三秒。キスしてた時間」
「三秒……そんなの数えてたのかよ……」
「短い。私の時は五秒は経ってたのに」
「いやだって……」
「でも、ありがと」
「うん。どういたしまして」
またしてもふふっと微笑む美波と共にその後の時間を潰した。




