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騎士団が山脈の奥深くへと進むにつれ、一行は険しく曲がりくねった砂利道を慎重に進んでいた。騎士たちは伝説の危険な谷をくまなく捜索し、手がかりを探していた。斥候たちは各地へ派遣されたものの、なかなか戻らず、まるで山の闇に呑み込まれたかのようだった。彼らは必死に探したが、何の手がかりも得られなかった。
数週間後、物資が次第に不足し始めると、クレレアは果断にも一部の騎士を率いて城へ戻り、食料の補給を行うことを決めた。残りの者たちはドルセンと共にクルノの谷を守ることになった。彼女もこれが最善の策ではないことを理解していた。なにしろ、恐るべき魔竜はいつ現れてもおかしくない。数時間後かもしれないし、一瞬後かもしれない。しかし、全軍を率いて険しい山道を移動すれば、馬はすぐに消耗し、行軍の困難さも増す。彼女は隊を再編成し、急ぎ城へと戻った。
五日後、一行は無事に城へ到着し、城の民や貴族たちの熱烈な歓迎を受けた。城門前には大勢の人々が集まり、凱旋する騎士団を出迎えた。
王宮の玉座の間で、国王は玉座に座り、顎髭を撫でながら低く問いかけた。
「クレレア、他の者たちはまだ任務を続行中か?」
国王の目には深い憂慮の色が浮かんでいた。戻ってきたのが騎士団の一部のみであり、特にドルセンやトロンの姿がないことに気付いたのだ。
クレレアは片膝をつき、顔を上げて答えた。
「父上、我々は補給のために戻っただけであり、遠征はまだ終わっておりません。飛竜の姿は未だ確認できておりませんが、どうかご安心ください。発見次第、全力を尽くし討伐いたします。」
国王はクレレアの報告を聞き、頷いて理解を示すと、騎士団に十分な補給を与えるよう命じた。彼らが再び駐屯地へ戻り、任務を遂行できるようにするためであった。
しかし、補給を携えたクレレアが駐屯地へ戻ると、彼女を待ち受けていたのは、信じがたい光景だった。
そこには、見る影もない廃墟が広がっていた。地面には重傷を負った兵士たちが横たわり、岩肌は鮮血で染まっていた。鉄壁の鎧はまるで薄氷のように砕け散り、折れた矢が無数に突き刺さっている。まるで壊滅的な襲撃があったかのようだった。強靭だったはずの天幕も無残に破壊され、ほとんどが原型を留めていなかった。
クレレアの視線は、深手を負ったトロン・バイソールに注がれた。彼は地面に倒れ、かすかに息をしていた。全身が傷と血にまみれ、まるで瀕死の戦神のようだった。そして、ドルセンは血溜まりの中で苦しげに横たわっていた。応急処置は施されていたが、止めどなく血が滲む傷口は見るも無惨だった。
「一体、何があったの!?ドルセン、なぜこんなことに……!」
クレレアは恐怖に駆られながら彼のもとへ駆け寄った。額には冷や汗が滲み、焦燥の色が濃くなる。彼女はすぐさま鋭い声で命じた。
「治療班!バイソール卿とドルセン卿の治療を急げ!負傷者全員の手当てもすぐに行うんだ!早く!」
彼女の号令と共に、治療班の者たちが薬草や包帯、医療器具を手に、山谷を駆け巡った。まるで忙しく働く蟻の群れのように、負傷者の治療に奔走する。
ドルセンは苦しげに目を開け、クレレアの姿を認めると、かすかに微笑もうとした。
「クレレア……戻って……きたのか……」
しかし、その弱々しい表情を見たクレレアの胸には、怒りと焦燥が込み上げた。次の瞬間、彼女は思わず彼の顔に拳を叩き込んでいた。
「早く言え!何があったのか!」
「ぐっ……!」
ドルセンは痛みに呻きながらも、意識を失った。
翌日——
「……ここは、どこだ?」
ドルセンはゆっくりと目を開けた。視界に飛び込んできたのは、果てしなく広がる青空。そして、そびえ立つ険しい岩壁が周囲を取り囲んでいた。
強い山風が彼の体を襲い、全身が震えた。
寒さに身を縮めながら、彼はようやく気付いた。
自分は、まだこの凍える余韻の中にいるのだ、と——。
「お前は本当に大馬鹿者だな。ここは私たちの駐屯地じゃないか。」
クレレアは不満げな声をあげ、腕を組みながら立っていた。顔には怒りの色が浮かんでいたが、その奥には隠しきれない深い憂いが滲んでいた。彼女の視線がドルセンに向けられると、その瞳には長い間秘められていた微かな優しさが宿っていた。
「みんな無事でよかった……。」
ドルセンは安堵の息を吐いた。まるで心の中の重い石が落ちたかのようだった。
「無事……?」
クレレアの表情が翳り、目を伏せる。「私たちは……すでに多くの仲間を失ったのよ……。」
彼女はそっと頭を振ると、低い声で問い詰めた。「ここで、一体何が起きたの?」
「……竜の襲撃を受けた。」
ドルセンは険しい表情で言った。その目に一瞬影が走り、クレレアの心をもざわつかせた。
「竜……?」
彼女は息をのんで目を見開いた。
「ああ……。」
ドルセンは深く息を吸い、冷静さを取り戻そうとした。「あれは“棪竜”だ。『叙事詩魔獣図鑑』の幻獣編に記述があった。棪竜は太古の神獣とされ、天空を駆ける存在だ。全長は三十メートルを超え、重量は千トンにも達するという。その姿を現した瞬間、我々はまったく対応できなかった。あまりにも突然で、衝撃が強すぎた。騎士たちは皆、一撃で吹き飛ばされたんだ……。」
彼の手がかすかに震えた。
「そのとき、俺は必死に目を開けていた。空が闇に覆われ、まるで黒雲が垂れ込めたようだった。棪竜の全身は漆黒で、その巨大な翼が光をも飲み込んでいた。そして……山谷に降り立った瞬間、暴風が巻き起こった。その咆哮は、俺たちの防御魔法陣さえも粉々に砕くほどだった。抵抗する間もなく、俺たちは地に倒れ、意識を失った。目が覚めたときには……もう竜の姿はなかった。」
「……もしこの竜が、我が国の交易を阻む元凶だとすれば……。」
ドルセンの声がかすかに震えた。「我々騎士団が全力を尽くしても、勝てる見込みはほとんどない。撤退すら……ままならないかもしれない。」
そう言い終えると、彼は痛む体を引きずるようにして立ち上がった。ぼろぼろになった法衣の上には何重にも包帯が巻かれ、傷を覆い隠していた。疲れた足取りで杖を頼りに歩き、療養中のトロン・バイソールのもとへ向かった。
トロンはちょうど意識を取り戻したところだったが、その傷は最も深刻だった。彼は主将として前線で棪竜の猛威を真正面から受け止め、仲間たちを守ったのだ。しかし、今はただ地面に横たわり、青ざめた顔で口を固く結んでいた。
「……撤退しよう。」
彼は絞り出すように言った。その声には、悔しさと無念が滲んでいた。「俺たちでは、この竜には勝てない……もっと多くの戦力が必要だ。ここにいる者たちは……みんな同じ考えだろう……。」
彼は歯を食いしばり、最後の言葉を口にすると、耐えきれずに意識を失った。
クレレアは苦悩の表情を浮かべ、静かに呟いた。
「……今の私たちでは、あの竜を倒すには力が足りない。ここで無理をして命を落とせば、それこそ何もできなくなる。まずは撤退しよう。そして、父上に事の顛末を報告する。王国の存亡が懸かっている……きっと、他国の勇士を募ってくれるはず。」
こうして、ロカス騎士団は苦渋の決断を下し、撤退を開始した。彼らは王都ロカスへ戻ると、クレレアはすぐさま王と重臣たちに報告を行い、棪竜の脅威を詳細に伝えた。
国王は厳しい表情で、重々しく命じた。
「この事態を民に知らせることは許さん。恐怖を広めるだけだ。」
「はっ、陛下。」
重臣たちは深く頷き、それぞれの職務へと戻っていった。
ロレド山脈という重要な交易路を失ったことで、王国は未曾有の危機に陥った。国王は信頼できる三人の部下を各国へ派遣し、援軍を求めた。
そして数週間後——
ほぼ絶望しかけたそのとき、一人の使者が戻ってきた。
彼が連れてきたのは、南方の鋼鉄都市「アルシス」からの援軍だった。三人の戦将と、三百の精鋭歩兵が、王都ロカスへと到着したのだ。
しかし、国王の表情は晴れなかった。
彼は援軍の者たちを見つめながら、胸の奥に疑念を抱いた。
——たった三百の兵で、この魔竜を討つことができるのか……?
「国王陛下に拝謁いたします。我々は南方の鋼鉄都市より参りました。私はタカル、戦士でございます。」
三人は揃って片膝をつき、先に口を開いた男は頑丈な鎧を身にまとい、背には長剣を背負っていた。その剣は明らかにアルシスの鋼鉄技術の結晶であり、鎧もまた新しく磨かれたように輝いていた。
「こちらは錬金術師のオークス。」タカルは隣の男を指さした。オークスは深紫色の術士のローブを纏い、それは兎毛と貂皮を混ぜて仕立てられた温かく快適な衣であった。耳にはエメラルドが嵌め込まれた銀のイヤリングをつけ、胸元には銅製の十字架が揺れている。
「そして、左側にいる弓兵がオリクス。」タカルは続けた。「彼は狩人の装いをしている。熊皮の上着に狐皮のズボンを合わせ、頭には鳥の羽根飾りのついた帽子を被っている。その姿はまさに熟練の猟師そのものだ。」
国王はじっと彼らを観察し、ため息をつきながら窓辺へ歩み寄った。そしてカーテンを引き、しばしの沈黙の後に口を開いた。
「貴殿らが援軍として来てくれたこと、誠に感謝する。しかし、なぜアルシスはたった三人の戦士と三百の兵しか派遣しなかったのだ? もっと大勢を送り込めば、より確実な戦果が期待できたのではないか……?」
タカルはわずかに頭を下げ、自信に満ちた口調で答えた。
「親愛なる国王陛下、ご説明させていただきます。我々三人が選ばれたのは、我々の実力が認められたから。そして、この三百の兵もまた十分な精鋭でございます。どうかご安心ください。失礼を承知で申し上げますが、我々が貴国の騎士団とともに戦えば、必ずあの魔竜を討つことができましょう。我々の力を信じていただければと思います。」
タカルの瞳には迷いも恐れもなく、確かな自信が宿っていた。
隣に立つオークスも無表情のまま、静かにうなずいた。「その通りです。どうかご安心を。」
「信じてください、陛下。きっと驚くことになりますよ。」オリクスは微笑もうとしたが、その目には冷たい光が宿り、一切の感情を映していなかった。
彼らの言葉に国王は耳を傾けたものの、その表情はさほど和らぐことはなかった。
「今日はここまでにしよう。後ほど、大臣や貴族たちと共に夕食をとるといい。」
国王は静かに告げた。「準備が整い次第、遠征を開始する。その前に、城内でしばし休息し、万全の状態を整えるといい。」
「承知いたしました、陛下。」三人は声を揃えて答えた。
夕食の際、彼らは伯爵や貴族たちとは席を共にせず、国王にこう告げた。
「我々はただの平民、身分を弁えております。この席で十分です。」
そして三人は、厨房の料理人や厩舎の管理人、平民の廷臣たちと同じ卓につくことを選んだ。
タカルは陽気な性格で、人当たりもよく、すぐに周囲の者たちと打ち解けて酒を酌み交わし、笑い声を上げて談笑していた。
しかし、オリクスとオークスは対照的だった。二人は低い声でひそひそと会話を交わし、周囲の喧騒にはほとんど関心を示さなかった。
食事を終えると、三人は自室へ戻った。
タカルは椅子に腰掛け、粗布で丁寧に剣の刃を拭い、その後、砥石を取り出して刃をより鋭く研いだ。
オークスは硝子瓶を手に取り、慎重に薬液を調合し始めた。かすかに薬草の香りが部屋に漂いはじめる。
オリクスはただ黙ってベッドに横たわり、ぼんやりと天井を見つめていた。
「明日は遠征だ。早めに休もう。」タカルは静かに言いながら剣の手入れを続けた。しかし、部屋は静まり返り、振り返るとすでに二人は目を閉じ、何の迷いもなく眠りについていた。
「……結局、明日を気にしているのは俺だけか。」
タカルは小さくため息をつくと、寝台に横たわり、天井を見上げた。そして、ほどなくして彼もまた深い眠りへと落ちていった。
夜が更け、星々が夜空に輝いていた。
道爾森は窓辺に立ち、流星群を見つめる。夜空を彩る星々の光は、まるで壮麗な絵画のように映し出されていた。
このひとときの静寂に包まれながら、彼は束の間、明日の重圧を忘れていた。
しかし、彼は知っていた。夜が明ければ、慌ただしい日々が再び始まるのだと――。
翌朝、霧が立ちこめる中、ロカス騎士団は定刻通りに城門前へと集結した。
まだ夜の気配が色濃く残り、遠くの山々にかすかに橙色の朝焼けが差し始めたばかりだった。新たな旅の幕開けを告げるかのような光だった。
しかし――そこにいるはずの三人の援軍の姿が、どこにも見当たらなかった。
出発の時刻が迫る中、騎士たちは戸惑いの色を隠せずにいた。
「彼らはどこだ?」
「まさか……逃げたのか?」
三百の兵士たちは沈黙のまま立ち尽くし、騎士たちの胸中には、失望と不安が広がっていった。