ウラオモテのオモテ
自分の性格から考えて、僕は幸せになどなれないとは思っていました。
しかし、まさかここまで酷いものになるとは考えてもみませんでした。
これから、僕にとって生活というものはありません。牢獄のようなものとなるでしょう。
いや、すぐに殺されることもあるかもしれません。
なぜなら。とある事情で、僕はある女「モミジ」に捕まってしまったのですから。
僕は、恐ろしい女に見えない鎖でつながれてしまったのです。
―――オモテウラのオモテ―――
「あなた、朝ご飯の用意ができましたよ。もう、起きないと」
「え?朝ご飯?」
―――ご飯は食べられるのか?―――
モミジは僕を見るなり、頭を触ろうとします。
―――こ、殺される?―――
「どうしたの?顔色が悪いわよ。今日はお仕事休む?」
「い、いや。ごめんなさい。大丈夫、すぐに支度するよ」
―――そうだ。さすがに仕事には行けるはずだ。こんなところで休めるわけがない―――
昨晩、モミジは人を殺して来たのです。僕そっくりの男を。
「本当に大丈夫なの?」
いつのまにか、モミジが僕の肩をさすっていました。抵抗すらできない僕は、緊張で身体が強ばります。
「寒気がするの?あら、熱があるみたいね」
彼女の左目の下には、ほくろがあります。僕をしつこく追い掛け回していた“あの女”のほくろは右・・・。
人の心とはなんと弱いものなのでしょう?元はと言えば、自分の弱さがこの状況を招いたのです。
僕のもとへ、“あの女”は突然来なくなり、僕は孤独になりました。
僕そっくりの“右利きの僕”に女を押しつけたのです。しかし、二人だけで仲良く暮らしているのかと思うと、どうしようもない気分になりました。
“あの女”を取り戻したくなってしまったのです。
そして、“右利きの僕”を殺しに行くところで、モミジに捕まりました。
モミジは、僕のために“右利きの僕”を殺しておいたと言ったのです。
僕も殺されるのではないか?どうしても、そんな考えが頭をよぎってしまうのです。
―――モミジは僕のためだとは言っていたけど、単に気に入らなかっただけなんじゃないか?―――
何しろ、ほくろの位置が左なだけで“あの女”にそっくりなのです。簡単に信用できるわけがありません。
「ねえ、あなた。やっぱり仕事は休んだ方がいいわ」
いや、本当に大丈夫だからと、僕が立ち上がろうとすると少し足元がふらつきました。
先にキッチンへ戻ろうとしていたモミジが、慌てて僕を支えようとします。
「どうしてもって言うのなら止めないけど、私は休んでもらいたいわね。一日中、家で心配してるのは辛いでしょうから」
「そうだな。駅まで歩いて行けそうもないし、休むことにするよ」
僕が心配していたのは何だったのでしょう?モミジは本当に僕の身体を気遣ってくれていました。
しかし、彼女は人を殺めているのです。
たとえ、僕のことを慕っているとしても愛情と憎悪は表裏一体。いつ、彼女が別の姿を見せるかわからないのです。
「あなた、お粥を作ってきました。残してもいいから、良かったら食べてね。私が食べさせてあげましょうか?」
「なんだか嬉しそうだね」皮肉ではなく、彼女は本当に嬉しそうにしていたのです。
「あなたが私の言うことを聞いてくれたからよ。看病もできるしね。あ、熱いからふぅふぅしてあげよか?」
僕の緊張はすでに解けているどころか、もう穿けないパンツのように緩みきっていました。
おそらく、鼻の下も自己最高記録をマークするほどに伸びていたかと思われます。
安心するとすぐに眠りについたのですが、起きるとモミジはベット脇で眠っていました。
そんな彼女を見てからです。僕は少しずつ変わっていきました。
僕は誰かに覚えていて欲しかった。気にかけてもらいたかった。
ただ、それだけだったのかもしれません。
昔は、怪奇映画の如き面構えでアイスクリームを一時間かけて選んだこともありました。
充血するほど目を見開いて、ショーケースを鼻息で曇らせるのです。
鮮やかなオレンジ色の制服を着たスタッフは、声もかけられないほどに怯えていたことでしょう。
今思えば、そのような悪戯ばかりしていたのは、自分の孤独から目を背けていたからなのです。
僕は独りだという事実を受け入れず、誰かと関わりたいという欲求だけを解消していただけでした。
しかし、もう孤独ではありません。つながりさえあれば、人は強くなれるのだと思い知りました。
「こうして毎日、平和に生きていけるのも、あなたのおかげよ。ありがとう」
そう言って妻は毎日、僕に抱きついてくれます。その小さな身体を抱き締めると、また明日も頑張ろう、そんな気持ちになれるのです。
一つの気掛かりを除けば、本当に幸せでした。囚われの身の気分だったのが嘘のようです。
「なあ、少しだけ待っていてくれないか?」
「いいわよ。どれぐらい持てばいいの?」
僕には、もう耐えられませんでした。
「何年ぐらいだろう?でも、自首するんだから罪は軽くなるはずだよ」
僕がそう言うと、彼女はしばらく動けずに思い詰めた表情になってしまいました。
「ごめんなさい。私どうしても言えなかったの」
僕が代わりに自首するから、と言ってもモミジは首を振るばかりです。
「そうじゃないの。誰も自首する必要なんてないの。今まで言えなくてごめんなさい」
子供のように泣く彼女が、僕の裾を強く握っています。
―――モミジが事実を言えば、僕はどこかへ逃げていたかもしれない―――
彼女の嘘が僕を縛っていたのは事実です。それがモミジにはわかっていたのです。
本当に監獄行きを覚悟していた僕は、不思議な浮遊感に包まれていました。
「君に罪がなくて良かった。大丈夫、僕はどこへも行かないから」
浮かんで飛ばされぬように、どこかへ行ってしまわぬように、僕達はお互いをしっかりと掴んで離しませんでした。
「こっちに来るのは久しぶりだわね」
彼女は、いつのまにか泣くのを止めてはいましたが、涙のようなほくろが右目の下に残っていました。
続く