BLOOD STAIN CHILD~RANDOSERU adventure~
がらん、とした部屋に帰る時、ミリアは決まって小さな胸の痛みを覚える。
リョウがいない、という事実は少なからずミリアを毎回落胆させた。
それが今日はことさらであったのは、今日は大好きなクラスメイトの美桜が風邪で学校を休んでいたがために、いつものようにおしゃべりをしながら楽しく過ごせなかったことに加え、当番で配膳したスープの入った椀をひっくり返してしまったこと(先生や友人たちは一緒に片付けを手伝い労ってくれたが)、掛け算の九九を暗唱する算数の授業で、昨日まではたしかに覚えていたはずだのにうっかり忘れてしまい、三の段を言い終えることができなかったことが挙げられる。そういう、いわゆる「ついていない」日であった。そんな日は時折、だけれど必ず、誰かが計らってでもしたように確実に訪れる。
ミリアは思わずため息を吐いた。
ミリアは誰もいない部屋のテーブルに、一枚の紙きれが置かれているのに気づいた。そこにはリョウのいつもの筆跡で、
――今日はA駅のスタジオでレッスンがあるから、帰りは7時すぎになります。先に飯食ってること。レンジの中にグラタンがあるから、赤いボタンを一回だけ押してあっためて、食うこと。――
ミリアはランドセルを背負ったまま、電子レンジを覗いた。そこにはリョウお手製のマカロニグラタンが、星形の人参をいくつも表面に輝かせながら鎮座している。ミリアはごくり、と生唾を飲み込んだ。大好きなグラタン。世界一美味しいグラタン。お腹も心も幸せにしてくれる、グラタン。
ミリアの中で空腹感と孤独感とが戦う。どちらが痛烈に心を苛もうとしているか。ーー答えは明白に、出た。
ミリアはランドセルを背負ったまま勢いよく身を翻すと、有無を言わさず玄関に置いてあった水色のヘルメットを抱きかかえ、家を出た。がちゃり、と鍵をかけた瞬間、ミリアの冒険はほとんど衝動的に始まった。
目的地は無論A駅のスタジオである。ミリアは一度だけ、そこを通りかかったことがある。リョウと出かけた際に、「ここがいつもレッスンに使っているスタジオ」と教えてくれたのだ。一階にはコンビニがあって、その脇の階段を上がったところの二階にある。リョウは自分が学校に通っている時に、こんな所にいるのだ。そこは自分が学校にいる時ぐらい楽しいのかな? そんなことをふと思った。
まだ明るい街中を、ミリアはわき目もふらずむしむし歩く。
「走ると危ないからな」、そう以前リョウに言われたから、走るちょうど寸前の速さで必死に歩く。
するとすぐにこめかみから汗が伝った。ランドセルを背負った背中もじんわりと暑くなってくる。次第にヘルメットを抱える手も汗ばんで、つるりと落としてしまいそうになる。だからミリアは幾度となく立ち止まって、ポケットの中からハンカチを取り出し、汗をぬぐい、ぬぐい、歩いた。リョウに会えることだけを考えた。自分のこの、突拍子もないアイディアと実行力とを讃嘆してくれるに違いない、と、それだけがこのたった一人の冒険の心の支えとなる。
ミリアは一人きりで出歩くことは、ほとんどない。保護者もなく学区外に出てはいけないと、常々担任教師からは言われているので、普段遊びにいくのは旧友の美桜の家と、それから近所の公園、せいぜいそんなところである。それより遠くには、リョウのバイクの後ろに乗って気持ちよく出かける。
だから、ミリアが一人では決して見たことのない風景がふと周りに広がっているのに気づいた時、ミリアは一瞬ぶるりと震えた。
でも、よく考えればリョウのバイクからは見たことのある風景だ。ミリアはぎゅっと目をつぶってその時の楽しかった気持ちを思い返し、何とか自身を鼓舞して一瞬でも早くリョウのいるスタジオへと辿り着こうと、足を踏み出した。
しかし今まで歩いたことのない距離を歩いていると、なんだかヘルメットを持っている手がだるくなって来る。どんどん重たくなってくるような気さえするのである。でも、これさえあればリョウと一緒に帰ってこられるのだ。気持ちのいい風とリョウの背の温かさを感じながら、いつものようにこの風景を眺めながら家に帰ってくることができるのだ。ミリアはそう自身に言い聞かせながら再び汗をぬぐい、そして、いつもよりはるかに長く感じる道のりをひたすら歩いた。
空の端が赤く染まっている。ミリアは一瞬立ち止まると、ほう、とその様を見て深い溜息をついた。赤はリョウの髪の色。そしてその隣を染めている水色は、このランドセルの色。水色が好きだといったから、リョウは服も、筆箱も、下敷きも、全部水色のものを買ってくれた。どれもこれも最高のお気に入りだ。リョウはいつだって優しくて一番だ。だからリョウのもとへ行くのだ。一人で待っているなんて、できない。
ミリアは腕のだるさも脚の重さも、すべて振り払うようにわざと元気よく歩いた。
もうすぐ。もうすぐ、着くはず。すると、嗚呼、ついにスタジオが見えてきた。
「横断歩道を渡る時は、しっかり止まって、右見て左見て、それからな。」リョウはいつか言った。だからミリアはスタジオを目の前にして逸る気持ちをぐっと抑え、真剣なまなざしで左右を確認すると、もう耐えられないとばかりに脱兎のごとく駆け出した。
そこまで来て、はたとミリアの脚は止まった。
スタジオに入った時、なんと言えばよいのだろうか? そこには誰がいるのだろうか? きっとリョウではない人もあるはずだ。リョウの姿がすぐに見えなかったら?
恐れと不安とが入り混じった、大きな塊がミリアの胸を押さえつける。そんなミリアの目の前を、無関心に車が幾台も過ぎていく。
――やっぱり来なければ良かったのかもしれない。家でグラタンを食べていれば、それの方がなんの心配もなかったに違いない。リョウもそう手紙を書いていたのだ。リョウは、なんで言いつけを守らなかったのかと怒るかもしれない。ちょっと寂しいだけなのに、自分はどうして我慢できなかっただろう。
ああ、と声が出そうになる。泣き出したくてたまらない。
しきりにその怒涛のような感情と戦うべく、ミリアは立ち止まって目を盛んに瞬かせた。喉から泣き声が出てしまわないように、何度も生唾を飲み込んだ。
そうしているうちに、今日美桜に会えなかった寂しさが蘇ってきた。美桜がいたら、きっと給食のことも、三の段のことも、全て受け止めて慰めてくれたに違いないのだ。そうしたら別に家に帰っても寂しいことなく、リョウを待って留守番できていたかもしれない。そんなことを思い始めると、ミリアの双眸は無理な輝きを帯びてきた。
――やっぱりリョウに会わなくてはならない。こんな気持ちで一人で家にいるなんて、そんなことはとてもできない。だから、……ミリアは目の前のスタジオをにらむようにして見上げた。
スタジオに入ったら「こんにちは」と言おう。学校でもお客さんが来たら「こんにちは」と言うように、教えられている。そして、リョウがそこにもしいなかったら……、「リョウいますか?」と聞こう。それがいい。
ミリアはしかし、それはあまり言ったことのない言葉だったので、そっと小声で練習をしてみた。「リョウいますか?」
リョウ、という単語を口にすると、なぜだかほっとする。胸がぽっと暖かくなるような気がする。
ミリアは何度か同じセリフを練習してみた。いつの間にか、じんわりと熱くなってきた目も、ごつごつと痛んでいた咽の奥も、何ともなくなっている。ミリアは「リョウいますか?」と小さく唱えながら、再びスタジオへ向かって歩き出した。
騒がしいコンビニの脇に辿り着くと、そこには紛れもない、リョウの黒いバイクが置いてあった。ミリアは小躍りするような心持を抑えながら、最後の踏ん張りを見せ、一歩一歩階段を上がっていく。それは学校のそれよりも随分急で、一段一段が高かった。ミリアは大股になって一生懸命上がっていく。
ここはリョウがいつも上っているのだ。ちょうどミリアが小学校の階段を上がるように。ジャングルジムの梯子を上がるように。そう考えると再び勇気が湧いてくる。ーーここに、リョウはいるのだ。
スタジオ入り口の鉄製の扉は大きく、最初ミリアの力では開かなかった。再び目頭が熱くなってきたが、ミリアはヘルメットを地べたに置き、唸りながら全身を押し当てると、扉は一気に開いた。
メタリカのthrow the neverのライブが流れる中、カウンターの奥から鬚を蓄えた男が目を見開いてミリアを見下ろした。
ミリアは再び泣きたくなる。そしてうっかり、「こんにちは」を忘れ、口をついて出たのは、何度も練習した「リョウいますか?」。
しかし乾いた喉から発したそれは。どう考えても不明瞭であった。ミリアはもう一度「リョウいますか?」とほとんど荒々しく叫ぶように繰り返した。さすがに今度は聞こえただろう? ミリアは疑い深い眼で男を見上げる。
男がこのスタジオを先代から受け継いで、早五年半。その間様々な利用者を見てはきたが、まさかこんなお客が来ようとは思ってもいなかった。そうだ。こんな、ランドセルを背負った小さな女の子がやって来るとは。
ミリアは男がなかなか返答をしてくれないので、ほとんど泣き声でもう一度言った。「リョウいますか?」
男ははっと我に返る。
「え、……っと、リョウさん? リョウさんって、ギタリストの、あの、ラストレビリオンの、リョウさん?」
ミリアは必死に何度も頷く。バイクは下にあるのだ。いることはわかっているのだ。
「い、いますよ。……今は、レッスン中なんだけれど、……お嬢ちゃんは、リョウさんの、……」まさか、そんなことはあるまいが、という思いを込めて、「リョウさんの、娘さん?」と震える声で問うた。
どうして人はいつも自分をリョウの娘だと考えたがるのだろう。それはすでに何度も聞かれた質問であった。だからミリアはいつものように不機嫌そうに、
「……ううん、妹。」と答えた。
「あ! そっかあ! 妹か!」どこか安堵した風に男は両手を打つ。「こーんな小ちゃな、妹さんがいたのか。それは知らなかったなあ。そっか、リョウさんは兄貴なんだな。確かに言われてみればそんな感じだ。兄貴っぽい。」男は勝手に一人合点し、「それで、……お嬢ちゃんは、リョウさんに急用なの?」
ミリアはどきり、と心臓が鼓動を打つのを感じた。
用? というものはない。ただ会いたいから、寂しいから、それだけでやってきたのだ。ヘルメットまで持って。あれ、ヘルメットは? ミリアは慌てて周囲を見回した。そうだ! ドアを開ける時に置いてきてしまったのだ。ミリアは慌てて身を翻す。
「あ、あれ、どうしたの?」男は慌ててカウンターの奥から駆け出る。
それには答えず、ミリアは再度満身の力を込めてドアを開けると、そこにはヘルメットがあった。それをしっかと抱きかかえて再び男に向き合う。
「これで、……リョウと一緒に帰るの。」
「……。」一緒に帰るためにやって来る、というのが急用とは思われなかったので、男はとりあえず、「じゃあ、こっちへおいで。それ持って。」と奥のスタジオへと招いた。そこには小さな窓があり、その奥には椅子に腰掛けた赤い髪の男の後ろ姿がたしかに見えたのである。「リョウだ!」
「そう。いつもここでね、……お兄ちゃんは生徒さんにギター教えてるんだよ。それで……。」男は壁時計を見遣る。「実はね、あと一時間ぐらいはここでレッスンをしてるの。それまで、待ってられるかな?」
ミリアは神妙に頷いた。
「いい子だね。」
男は再びミリアを連れて入口のフロアに来ると、ランドセルを降ろさせ、煙草でところどころ穴の開いたソファに座らせた。
ミリアは今更ながら物珍し気に、テレビを見上げ、壁に掛けられたギターだのベースだのを一つ一つ眺めた。うちと一緒だ、と思った。
男はフロアに設置してある自動販売機にお金を入れると、「お嬢ちゃん、何飲みたい? 汗かいて、咽乾いたでしょう?」とミリアを振り返る。前髪がぺったりと額に張り付いていたのである。
ミリアは委縮したが、「何がいいかな? リンゴジュース? オレンジジュース? ミルクティーもあるよ。あったかいのも冷たいのも。」と言われ、「……リンゴジュース」と遠慮がちに答えた。男はガコン、と落ちてきたジュースを開けてやり、ミリアの前に置いてやる。
「何して待ってようか。ごめんね、お……」兄さんか、じさんか一瞬迷ったものの、既に三十代半ばに入ってお兄さんも図々しかろうと、「じさんちには、小さな子が遊べるようなものが何もないんだよね。」ミリアは小さく頷く。おじさんがあっけなく受け入れられたことに、男は小さく苦笑した。しかしそれにしても話題がない。いくら接客業とはいえ、スタジオ経営である。こんな小さな子と接した経験はかつてない。
「いつも、一人でおうちで何やってるの?」
「……あのね。ギター弾くの。」ミリアは恥ずかしげに答えた。
「そうか。リョウさんの妹だもんな。ギターやってるんだ、早いなー。将来有望だ。」
ショウライユウボウ、とは何のことかミリアにはわからなかったが、リョウの妹として認められたらしいことが嬉しく、やや多弁になってくる。
「でもね、宿題ちゃんとやってからなの。宿題が先。リョウ、そう言ってる。」
あの赤髪のリョウが家ではそんなことを宣っているのかと思うと、思わず吹き出したくなるが、「へえ、偉いね。宿題ちゃんとやるんだ。」と何とか男はごまかした。
ミリアは当たり前でしょう、とばかりに胸をそらす。
「じゃあ、今日は何やる? ギターだったら、好きなの選んでいいよ。」男は壁に並べられたギターを促す。
「ううん。宿題やるの。だって宿題が、先だから。」ミリアは思い立ったように、ランドセルを開けた。
男も興味深げに覗く。「どんな宿題が出てるの?」
「あのね、今日は算数ドリル。」
「へえ、今、学校で何教わってるの?」
「掛け算。」
「そっか、掛け算か。覚えるの、大変だよねえ。」
ミリアの脳裏に今日の算数の授業が蘇ってきた。悔しさに小さく唇をかみしめる。
「おじさんも、」もうおじさんにすっかり慣れて、「子どもの頃は算数苦手だったけどねえ、今はお店やってるから、そうすると計算も得意になってきたよ。」
「……掛け算得意?」ミリアは一縷の希望を込めて尋ねる・
「ああ、得意得意。うちのお客さんはだいたいバンドで来るからね、お代を払ってもらう時に、一人当たりいくらいくらって言ってあげるの。まあね、そういう仕事だから。」
ミリアは息を呑んだ。それは「ホンモノ」である。学校の先生ぐらいに得意なのではないか、とさえ思われた。
「ミリア、……今日三の段最後まで言えなかった。おうちでは言えたの。本当に。リョウの前で言ったから、リョウも知ってる。だけど、先生の前に来たらわかんなくなっちゃったの。」
「そういうこと、あるよ。あるある。」
ミリアは縋るように男を見上げた。
「あのね、おじさんも元バンドマンだから。このライブは絶対成功させたい、とか、このライブでは絶対ミスできない、とか、そう固くなるとね、不思議なモンで必ず失敗するって経験がね、山程あったよ。因果なもんだよね。逆に楽な気持ちで、このライブ終わったら何食おう、何飲もうって思ってやる方が全然いいライブだったりね。そういうモンだよ。」
ミリアは頷いた。心がふっと軽くなるのを感じる。
「でもね、絶対失敗しない方法が一つだけ、ある。」
ミリアは不思議そうに男を見つめた。「……なあに?」
「それはね、簡単。めちゃくちゃ練習すること。」
「……練習?」
「そう。もう、これ以上は無理だっていうぐらいにね。ギターやベースだったら、指から血が出て、絆創膏貼っつけてても、もう血が滲んで絶対無理っていうぐらい練習するの。寝る時間も削ってね。」
ミリアはこっくりと頷いた。
「ミリアちゃん、もしかして三の段言えたの、そんなにいっぱいはなかったんじゃないの?」
ミリアは考え込む。「……うん。そう。あのね、はじめ10回は教科書見ながら言って、教科書見ないで言えたのはその後3回だけだったの。その次、4回目やったら、間違えた。」
「ほら、それだ。」
ミリアはじっと男を見つめる。
「……俺はベースだったけどね、やっぱり新曲とかで体に馴染んでない曲っていうのかな、まあ、簡単に言うと、そこまで弾き込んでない曲っていうのはね、やっぱりだめだったよ。ミス、とまではいかなくても自分のものになってない感じで弾くから、なんか、固い。魂じゃなくて、音符で弾いてる感じだ。そういうのってお客さんには伝わっちゃうよね。だとそれはもう、ライブとしては失敗。」
「うん。リョウも言ってる。お客さんは一回しか来れないかもしれないから、次頑張ったらいいっていうのはダメなんだって。いつも頑張ってないと、ダメなの。」
「そうそう。ミリアちゃんにとってのライブは先生の前で、三の段を全部言うってことだ。でもライブと違うのは、先生は明日も待っててくれるんじゃあないの?」
「うん。あのね、も一回三の段ゆって、ゆえたら次に進めるの。先生に明日も頑張りましょうって、言われたの。」
「じゃあ、今から練習だ。ちょっと待ってて。」
男はカウンターに引っ込むと、パソコンを何やらぱちぱちと叩きだした。
「あ、ちょっとだけ時間かかるから、リンゴジュース飲んでて。」
「ミリア、ここでメタリカ観てる。」
男は思わず噴き出した。さすが、リョウの妹である。徹底した早期教育である。きっといいギターを弾くのだろうと思われる。もしかしたら将来リョウのようにプロとして活躍するかもしれないと思えば、今日のこの妙なやりとりもなんだか嬉しくてたまらない。
ミリアはじっとその大きな双眸で、テレビ画面に大写しになっているメタリカを見上げている。時折思い出したように、ちゅうとリンゴジュースをすすりながら。
しばらくすると、男はプリンターから一枚の紙を持ってきた。
それを見て、「あ!」ミリアは口元に手を添えて小さく叫んだ。
それは掛け算の一覧表だった。一部の塾に通っている生徒が誇らしげに持っている、あれ、……よりも更に素晴らしい。なぜなら、掛け算九九の表の横にはリョウ率いるLast Ribelionの面々が並び、頼もし気にこちらを見ているのである。さらに掛け算のロゴも素晴らしい。メタリカのバンドロゴを模倣したそれは、リョウの言葉を使えば「クール」この上ないものであった。
「素敵!」
「だろう? 練習を重ねるには、好きな方法を採るのが一番だよ。ギターだって、ミリアちゃん、好きなギター使って練習してるんじゃない?」
「うん。はじめにね、リョウが選んでって言った。だから選んだの。」
「ほう、ちなみに何使ってるの?」
「フライングV。」幼女の口からフライングVが出てきたことに、男は隠しようもなく噴き出した。
「じゃあ、これを見てさ、計算ドリルやってみよう。」
ミリアは生真面目そうに肯くと、テーブルの上にドリルを開いて、九九の紙を横に置いた。これを見れば、答えが安易に出せるだけではなく、リョウたちにも見守られている気がする。ミリアは口元を喜びにぎゅっとすぼめ、次々に問題を解いていく。
「おお、おお。この調子じゃあ、宿題もすぐだ。」
「ミリア、リョウと一緒に帰るから。」
「そうだそうだ。」と男はうなずきながらも、なんだか寂しい気もする。この突然の小さなお客が、また来てくれたらよいのに、と思った。
「ミリアちゃんは、大きくなったら何になるの?」だから思わず陳腐な質問が出た。ミリアはふと顔を上げて、「……内緒なの。」と小声で答えた。
「内緒、か。……そっか。てっきりリョウさんみたいなギタリストになるのかと思ったよ。」
「ミリア、ギターは好き。」
「だよなあ。だってあのリョウさんに習ってるんだからなあ。うちでレッスン受けてる生徒さんもね、リョウさんのおかげでめきめき上達してるよ。」
「うん。だから、ギターもいいんだけど、……。ね、内緒にしてね?」真剣なまなざしに男は応えるよう、力強く頷いた。
「ああ、俺は口は堅いほうだ。うち使ってくれてたそこそこ名の知れたバンドがね、メンバーチェンジするって時も、俺は誰にも言わなかったからな。ほら、ちょうどここでバンドのメンバーが話し合ってたのをずっと聞いてたんだけどね。発表までは一切黙ってた。結構有名な人が入ることになってたんだけどね。」
ミリアは頷き返し、男に顔を寄せると、「じゃ、教えてあげる。あのね、ミリアね、ぷりんせすが、いいと思ってんの。」と耳打ちするように答えた。
「ぷ! ……」プリンセス、と言おうとしたその時、入口のドアが開いた。するとバンドマンたちががやがやと入ってくる。「どうもー。」
男は「どうも。」と大切な話題を打ち切られ、思わず半ば不機嫌そうに振り返った。
バンドマンたちは足を止め、眼を見開きながらこぞってミリアに視線を止めた。
「て、店長の、む、娘さん?」長髪の男がミリアを無遠慮に指さしながら言う。
「何を失礼な。この子はな、……あ、言って大丈夫?」腰を屈めて尋ねる。
「うん。」
「あのラスト・リベリオンのリョウさんの妹君だぞ!」
バンドマンたちは頓狂な声を上げた。「マジマジマジ?」などと大騒ぎをしている。「こんなちっちゃいの?」「嘘でしょ!」「似てないじゃん! 可愛いじゃん!」
「……ねえ、いもうとぎみってなあに?」
「妹でプリンセスってことだよ。」
ミリアの頬が一気に紅潮する。
「ま、マジで? 本当に? な、なな、なんでここにいるの?」
「掛け算の勉強をしてるんだよ。宿題だからな。」男はそう言って、「だから君たちは今日はこっちね。」と奥のテーブルを指さした。
バンドマンたちは恐る恐るミリアを眺めつつ、それぞれ無言の内にソファに座った。ギターを持った男が、灰皿を手元に寄せ、煙草を吸おうとした瞬間、
「うちは禁煙だ!」と店長に怒声を浴びせかけられる。
「へ?」ギタリストは頓狂な声を上げた。「店長だって、先週まで普通に吸ってたじゃねえか!」
バンドマンの面々はミリアを見つめ、「お前な、時代は変わるんだよ。子どもにフクリュウエン吸わせんのか。酷いやつだな。」
ギタリストははっとして煙草を収める。
「さんいちがさん、さんにがろく、さざんがきゅっ、さんしじゅーに、……」ミリアは表を見ながらドリルを見直す。どうやら完璧に仕上がったのを見て、微笑んだ。
その時である。奥のスタジオの扉が開いて、学生風情の男と、リョウとが出てきた。
「リョウ!」ミリアは諸手を挙げて飛び上がる。
「な、」リョウは目を見開き、それからミリアの元に駆け込んでくる。「お前、どうやってここまで来たんだ?」
「歩いて来た。」
「歩いて、……って、お前どんだけ時間かけて歩いてきたんだよ!」
「よくわかんない。」
「んー、ミリアちゃんが到着したのがちょうど4時過ぎだったかな。」
「学校終わって、……2時間ぐらいかけて歩いて、来たんか……。」
ミリアは上体をねじって恥ずかしげに微笑む。
「っていうか、道知ってたのかよ!」
「前にリョウとバイク乗ってて教えてくれた。」
「そ、そーだっけ。……で、なんでここにいんだよ!」
ミリアはそれには答えず、俯いてもじもじと体を揺らした。
「そんな言い草はないだろう。リョウさんよ、ミリアちゃんはな、……」店長の男はフォローしようとして、さて、ミリアはなぜやってきたのだ?と思い成す。
「掛け算九九がわからなくなっちゃって、大変な思いをしたんだぞ。」
「はあ?」
ミリアはそうだとばかりにうんうん、とうなずく。
「だからおじちゃんに掛け算の表作ってもらって、宿題してたの。だから宿題、もう終わっちゃった。」
「はあああ?」
リョウはテーブルの上に置かれた掛け算の表を見て、「何だこれ!」と叫んだ。そこには自身のCDジャケットに使った写真が添付されているのだ。
「ミリアちゃんが寂しくならないように、作ってやったんだよ。」
「だからってなんで俺らが掛け算九九なんだよ!」
「公式マーチャンダイズにでもするか? いいぜ、協力するぞ。」
「それが一体、俺らのファンのどこに需要があんだよ!」
「小学生。」
「そんなファンはいねえよ!」
「いるもん。」ミリアは恥ずかし気に手を挙げる。「ねえ。ミリア、リョウと一緒に帰るために来たの。だから、ヘルメットも持ってきたの。ちゃんと。」
リョウはしばらく考え込んでいたが、いくら考え込んだところでこの現状がなぜ起こったのかなぞわかるはずもない。
観念したように、「じゃ、帰るか。」と呟いた。
「じゃあ、葵君、また来週。店長もまた来週のこの時間で予約よろしく。Aスタで。……お前等も頑張れよ。」ギタリストの肩に手を置き、「さ、片付け。」ミリアを促す。
ミリアは笑顔でドリルと筆箱、掛け算九九の用紙をランドセルにしまう。「おじちゃん、これ、ありがと。」
「ああ、ああ。またいつでも遊びにおいで。」
リョウは顔を顰める。そんなしょっちゅう来られたら困る。
「うん。また掛け算わかんなくなったら、来る。」
ランドセルを背負い直し、ヘルメットを被ると、「またね。」と店長に向かって手を振った。
「明日、三の段のテスト、頑張るんだよ。」
「うん。おうちでもっと言えるように練習する。」
「じゃあ、大丈夫だ。」
「じゃあ、世話んなったな。また来週。」リョウはミリアの手を引いて、ドアを開ける。既に外は薄暗く、白い月が輝いていた。
「……お前、よくここまで来れたな。」
「うん。」
「途中迷わなかったか?」
「うん。」
「掛け算できるようになったのか?」
「うん。」
「三の段。」
「うん。」
「腹減ったろ?」
「うん。」
「グラタン作っといたんだぞ。」
「うん。」
「お前が喜ぶと思って人参星形に切って。」
「うん。」
ミリアの目端に頭上に輝いた金星が飛び込んできた。これからリョウとどれぐらいの多くの星々を眺められるだろう。ふと、そんなことを考えた。もっとたくさんの星が見たい。東京の星も、それ以外の星も。外国の星も。
「さっさと家帰って食おうな。」
「うん。」
繋いだミリアの手にぎゅっと力がこもるのをリョウは感じた。そして自分の知らない所で勝手に成長していく妹の姿は、どこか頼もしく、そしてどこか物寂しいものだと実感させられ、苦笑を洩らすのだった。