九・ジャストミート
「いやあ、バッティングセンターなんて来たの、初めてです」
弓弦を車から降ろした後に奏が向かったのは、近くにあるバッティングセンターだった。
奏と同行することになった二宮と千尋は、金属バッドを構える彼女の姿を保護用ネットの裏にあるベンチから眺めていた。
「ここにはよく行かれるんですか」
二宮が奏に向かってそう尋ねると、奏は面倒臭そうに答えた。
「……趣味。姐さんに教えてもらった」
「姐さんですか。安土さんと姐さんはどれくらいの付き合いなんですか?」
二宮がさらに質問をしてきたが、奏は前方二十メートル先のピッチングマシンから飛んでくるボールに神経を集中させ、それを両手に握っている金属バットで打ち返そうと試みた。
しかし気持ちが乱れたせいか、バットはボールにかすりもせずに空振りし、ボールはそのまま奏の横を通り過ぎていってしまった。
「……五、六年くらい前だよ。姐さんに初めて会ったのは」
ボールを逃した奏はそういうと、ぽつりぽつりと弓弦との思い出話を語り始めた。
「ウチは水商売をやってた母親が、どっかの男とこしらえて出来た子供なんだ。だから本当の父親が誰なのか知らないし、興味もない。そんなんだから母親もろくな母親じゃなかった。家には全然いないし、いるときはたいてい酒飲んで酔い潰れてる。酔った勢いで殴られたことも一度や二度じゃなかった」
奏の話を聞いていると、ネットの裏でベンチに座っていた千尋が隣に座っている二宮に耳打ちをした。
「……けっこう重い話が来たね」
千尋がそういうと、二宮は千尋に冷たい目を向け、両手で彼女の髪をごしごしと掻き回して弄った。
「すいません、続きをお願いします」
「……まあ、それでだ。高校一年のときに、何もかもが嫌になってやけっぱちになって、家出をしたんだ。それで何も考えずにうろつき回ってたら、気がついたときには夜のネオン街にいた」
そこまで話したとき、ピッチャーマシンからボールが飛んできた。そのことに気がついた奏は慌ててバットを振りかぶるも、またもや空振りをしてしまった。
「……これからどうしようってふらついてたら、いきなり脂ぎった禿げ面のオヤジがウチに声をかけてきてさ。金をやるから一緒に遊ぼうなんていうけど、どうみてもロリコンの変態にしかみえなかったから、すぐ逃げ出そうと思った。だけどそいつ、ウチの腕を摑んできて、どんなに抵抗してもぜんぜん離そうとしてこなくてさ。それでもうおしまいだって思ったとき、ちょうど近くを通りかかってた姐さんがウチを助けてくれたんだ」
「ヒーロー登場、って感じだね」
千尋が茶々を入れた。
区切りのいいところまで話し終えた奏は、今度こそとバットを構え直して、マシンがボールをこちら側に投げてくるのを待った。
そしてマシンが放ってきた豪速球に奏は意識を集中させ、タイミングを見極めてバットを振るとボールは見事にジャストミートし、前方の空高くへと打ちあがっていった。
「お見事!」
一連の光景を眺めていた二宮が大きく声をあげると、奏が話の続きをした。
「……姐さんはあのオヤジを一発でぶちのめして、ウチを助けてくれた。そのうえ、悩んでることがあるなら、おれにいってみろって相談に乗ってくれたんだ。そん時に連れて行ってくれたのがこのバッティングセンターだった。嫌なこと全部、吹き飛ばしちまえってさ」
「つまりここは思い出の場所、というわけですか」
二宮のその言葉に、奏はこくりと静かに頷いた。
「それで心に決めたんだ。自分はこの人に一生ついていく、何があっても守るんだって」
そういうと奏は二宮のほうを向いて、彼をぎろりと睨んだ。
「おまえが姐さんを疑ってることなんてお見通しだ」
「そんな、僕は姐さんを疑ってなんかいませんよ」
「黙れ」
白々しい態度を取る二宮に、奏は荒っぽくいった。
「これ以上姐さんにちょっかいを出すな。姐さんは、こんなことでいなくなっちゃいけないひとなんだ」
「では仮に犯人だったとしても、見過ごせっていうんですか」
二宮が挑発的な口ぶりで行った。それに対して奏はふん、と鼻を鳴らした。
「あれとこれとは、話が別だ」
そういって奏が話をうやむやにしようとすると、二宮はにっこりと笑って、彼のほうから急に話題を変えてきた。
「いやあ、しかしこうやってみていると、ちょっと僕もバッティングマシーンやってみたくなりましたね。次僕やってもいいですか?」
「……勝手にしろよ」
奏はバットを放り投げると、二宮と入れ違いになるようにネットの外へ出た。
「ええっと、ワンプレイ三百円もするんですか。お金足りるかなあ」
二宮がコインの投入口の前に立って、自分の財布を開けた。ビニールテープで口を開け閉めするタイプの、子供が持つような財布だ。
「ううん、だめだ。小銭が五百円玉と十円玉と一円玉しかない。大川さん、百円玉持ってない? 両替させてよ」
「向こうに両替機あったじゃん」
「あそこまで行って戻ってくるの面倒くさいんだよ」
二宮がそういうと、千尋はしょうがないなあ、とネットのなかに入って財布を出した。
「ええと、百円玉が一、二、三……あっ」
硬貨の枚数を数えていたとき、千尋は持っていた財布を手から滑り落とし、中身の小銭がいっぺんに周囲に飛び散ってしまった。
「あ、あーあ……」
哀しそうな声を漏らして、千尋はしゃがんで地面に散らばってしまった硬貨を拾い始めた。
「ニノも拾うの手伝ってよ」
「なんで僕もやんないといけないのさ」
二宮は腰を落として、しぶしぶと千尋の小銭を拾うのを手伝った。
そんな滑稽な場面を奏は呆れながら眺めていると、彼女の携帯に弓弦から電話がかかり、すぐさま奏は電話に出た。
「……はい、奏です。はい、判りました。それじゃ、すぐ迎えに行きます」
電話を切ると、奏はまだ小銭を拾い集めているふたりに向かって「おい」と声をかけた。
「姐さんから、いま予定が済んだってさ。行くぞ」
後ろから「ちょっと待ってください」という二宮たちの声を受けながら、奏はさっさと歩き始めてその場から去ろうとした。