四・発砲の瞬間
北白川邸を出て数十分。奏の運転する車は待ち合わせ場所の近くにある路肩に止まった。
「姐さん、やっぱりご一緒させてください」
車からひとりで外に出ようとした弓弦に、奏がいった。
「姐さんをひとりであいつに会わせるわけにはいきません。もし姐さんに万が一のことがあったら……」
「心配するなって」
弓弦が後ろのシートから運転席に手を伸ばし、そこに座る奏の頭を撫でた。
「これはおれがやると決めたことなんだ。だからおれが決着をつける。判ってくれるか」
「……はい」
「ありがとう、気持ちは受け取っておくよ。じゃ、あとは打ち合わせ通りに頼むぜ。気をつけてな」
「判りました。姐さんもお気をつけて」
弓弦が車から出ると、奏は路地裏に消えていく彼女の姿を見届けてそのまま車を発進させた。
その後、奏は車で隣町にあるコンビニに向かった。
コンビニの駐車場に車を停めて店内に入ると、レジで暇を持て余していた男の店員が奏の姿をみて「あっ」と声を漏らした。
「奏じゃねえか」
「久しぶりだな、秀治」
奏は自分に気がついた店員に声をかけた。
秀治は半年前まで北白川組にいた元組員だった。
いまは小説家になりたいという相談を彼から受けた弓弦の勧めで組を辞め、コンビニでのアルバイトで生計を立てながら、出版社に持ち込むための原稿を日々書き進めているのだという。
「どうだ、最近の調子は」
奏がそう訊くと、秀治はえへへと笑いながら持ち前の伸びきった髪を撫でた。
「それが最近出版社に持ち込んだんだけどよ、ぜんぜん駄目だっていわれちまってさ。ちょっとブルーになってんだよ」
「世の中そんなうまくいかないってことだ」
「それよりそっちはどうなんだよ。姐さんは元気にしてるか」
「まあな。いまは車で休んでるよ」
そういって奏は駐車場に停まっている、誰もいない車を指さした。
「へえ。そんなら、ちょっとあいさつしてきてもいいかな」
「やめとけよ。寝ている姐さんを無理やり起こしたらおっかないってこと、おまえも知ってるだろ」
奏は用意しておいた台詞を淀みなくいった。
「へへへ、そうだったな。それで、何か買うものはあるか」
「七番のバイオレットリーフを一カートン頼む」
「姐さんの煙草だな。ちょっと待ってろよ」
そういって秀治はレジにある煙草の入った商品棚を探し始めた。
晃敏が殺されれば、警察が弓弦たちに疑いの目を向けるのは明白だ。そこで弓弦たちはこのコンビニでアリバイを作ることにしたのである。
別に無理にアリバイを作る必要はなかったのだが、弓弦がひとりで殺害現場に向かっているあいだ、彼女を車で送った奏の存在が問題だったのだ。
車を近くに停めたままにして待っていれば周囲から不審に思われる。それならせめてその間に何かしらのアリバイ工作をしておこうということで、自分たちのことをよく知っている店員のいるこのコンビニへ来たのである。
「なあ奏、次の週末空いてるか? もし空いてたら一緒に飯でも食いに行こうぜ。いい店見つけたんだよ」
自分を口説いてきた秀治を、奏はばっさりと切り捨てた。
「口動かしてる暇があるなら手を動かせよ。それにウチと遊びに行くくらいなら、ちょっとはましなもん書いて姐さん喜ばせろ」
「ちぇっ、相変わらず手強いなあ」
秀治がそんなことをうそぶきながら棚を漁っていると、彼はふと手を止めた。
「まずいな」
「どうした」
「すまん、バイオレットリーフが切れちまってる。パープルリーフならまだ残ってんだがな」
「じゃあそれでいい」
ぶっきらぼうな口調でそういいながら、奏はいまごろ姐さんは大丈夫なのだろうかと不安に思った。
そしてそんあ弓弦は路地裏でひとり、晃敏が来るのを静かに待っていた。
暴力団の組長をしている以上、これまで悪どいことをしたことがないとはいえない。しかしこうやって、これから自分は殺人を犯すのだということを改めて強く意識すると、さすがに緊張せずにはいられなかった。
緊張を抑えるために煙草を吸いながら気分を落ち着かせていると表のほうから大きな人影が出てきて、それが弓弦のいるほうに近づいてきているのがみえた。
晃敏だ。それに気がついた弓弦は煙草を地面に捨てると、足で踏んで火をもみ消そうとした。
だがそのとき、弓弦はもしこの吸い殻を警察が調べたら、とふと気がついた。
唾液からDNAとかいうやつを調べられたら厄介だぞ、と思うと弓弦は吸い殻をそのままコートのポケットに突っ込んだ。
「どうも」
弓弦の近くに寄ってきた人影が彼女に声をかけた。弓弦が顔をあげてその人物の顔をみると、そこには晃敏の姿があった。目の前に立っている晃敏は、半日前で街で見かけた人物とまったく同じ容姿をしていた。
「久しぶりだな」
いろいろな思いが喉から飛び出そうになるのを堪えながら、弓弦は晃敏にいった。
「ええ、お久しぶりです。それで何ですか、俺に頼みたいことって」
晃敏は何の前置きもせずに、いきなり本題を投げかけてきた。
ここから先に進んだら、もう後戻りすることはできない。
そう思いながら弓弦は覚悟を決めて晃敏に向かって口を開いた。
「それじゃあ単刀直入にいおう。なあ晃敏。今夜、邦弘が通り魔に刺されたことは知ってるか」
その問いに対して、晃敏は何も答えようとしなかった。
「それとな、今日の昼間、あいつが最近開いた料理教室の近くにおまえが突っ立ってるのを見たんだよ。おまえ、あんなところで何してたんだ」
弓弦は話を続けたが、それでも晃敏はなにも返そうとしなかった。
「正直にいえ。邦弘を殺したの、おまえじゃないだろうな。答えるんだっ」
弓弦が怒鳴ると、晃敏はようやく言葉を発した。
「さすがは北白川邸の組長、何でもお見通しってわけですか」
「お前が殺したんだな」
「ええ、そうですよ」
そういう晃敏は、少しも顔色を変えずに弓弦の方を見ていた。
「いやに落ち着いているな」
「もう諦めてるんですよ。どうせもうじき俺ん所に警察か、借金貸しが来るんだって」
「そうか」
晃敏の話を聞きながら、弓弦はコートの内ポケットにある拳銃に手を伸ばそうとした。
だがその時、晃敏の目がぎらりと光った。
「だからな、最後に俺の指をちょんぎったあんたにたっぷりと礼をしてやるっ」
そう叫ぶと、晃敏は弓弦に向かって襲いかかってきた。
やられる! 弓弦は命の危険と、それ以上に女としての尊厳を目の前の男に汚されてしまうという恐怖を感じた。
弓弦は咄嗟にポケットから拳銃を取り出すと安全装置を急いで外し、銃口を無我夢中でこちらに向かってくる男に向けて引き金を引いた。
次の瞬間、ひとつの銃声が夜の空に轟いた。
数分経って、路地裏から銃を持ったまま逃げ出した弓弦は、奏と落ち合うことになっている近くの空き地までぜえぜえと肩を上下に揺らしながら駆け込んだ。
少し待つと、奏の運転する車が空き地の前に停まった。
弓弦は飛び込むようにして車の中に入ると、後部座席にあるシートの上でぐったりと横になった。
「やったんですね」
額に汗をだらだらと流している弓弦をみて、運転席の奏がいった。
「ドジったよ。脳みそにブチ込んで確実に殺してやるつもりだったのに、パニクって胸のところを撃っちまった。心臓に当たってくれりゃあ良いんだけどな」
多少のトラブルはあったものの、とりあえず目的は無事に達成されたようだった。
車のハンドルを回しながら、奏は後部座席から煙のような香りが漂ってくるのを感じた。
「火薬の匂いがしますね、銃を撃った時のやつでしょう。帰ったら急いでシャワーを浴びて、着てるものも全部洗濯しないと」
「ああ」
どうやら、まだまだ休まる暇はないみたいだ。
弓弦がそんなことを思いながら、彼女を乗せた車は屋敷へと向かって一直線に走っていった。