三・裏切り者への誘い
その日の夜、森田晃敏は自分の住むアパートの一室のなかでひとり縮こまりながら、自分の傍に置いてある血に塗れた包丁を見つめた。その血の主は、彼が刺し殺した浅羽邦弘のものだった。
四年前、晃敏はそれまで属していた北白川組を追い出された。
死んだ先代の遺品整理をしている際、晃敏はふとした出来心で故人が資産として保有していた数ある金の延棒のなかから一本、自分の懐に忍ばせようとしたのである。
しかしちょうどその場面を邦弘に目撃されてしまい、彼がそのことを新しい当主となった弓弦に告発したことから晃敏は彼女から厳しい制裁を受け、組から破門させられたのである。
その証拠に、彼の右手の指は本来五本あるうちの一本が欠けている。
その後、破門された晃敏はパチンコや競馬などのギャンブルで日銭を稼ぐ生活を送っていた。
だがそんなことで安定した収入など得られるはずもなく、闇金融にまで手を出してしまった彼は、ひとつのところで借りた金をまた別のところで借りた金で返すという、まさしく泥沼のような状況に陥っていた。
最近は金を借してくれる所のあても無くなり、借金貸しからは次の返済日までに金を返せなければ、おまえの身体をバラして売ると脅されていた。そしてその日は目前に迫っていた。
後がなくなった晃敏は一発逆転を狙い、競馬で全財産を賭けたのだが、その企みはものの見事に失敗し、文字通り無一文となってしまった。
目の前が真っ暗になった晃敏だったが、そんなある日街を彷徨い歩いているとき彼はそこで邦弘の姿を目撃した。数年ぶりにみた彼の傍には、裏社会とは無縁に思える美しい女が一緒に歩いていた。
それをみた晃敏のなかに憎悪の炎が燃えた。そして自分をこんな立場に追いやっておきながら、表世界に出て女と一緒に堂々と歩いているあの男を殺してやると思い至ったのである。ぎりぎりまで追い詰められた末の逆恨みだった。
そしてここ数日間、邦弘を殺害するタイミングを見計らって彼のあとをつけていた晃敏だったが、ついに数時間前、繁華街で邦弘が女と一緒にいるところを晃敏は持っていた包丁で彼の胸をひと刺ししたのだった。
自分を刺した刃が引き抜かれた瞬間、邦弘は晃敏に反撃することなく隣にいた女を庇うように覆いかぶさってそのまま倒れた。
周囲の人々の悲鳴を浴びながら、晃敏は高笑いをあげて邦弘の血液が滴る包丁を持ったままこのアパートに走って戻ってきた。
部屋に戻った彼は床に凶器を放り投げて、この先俺はどうなるのだろうかと思った。警察がこの部屋に踏み込んでくるのか、それとも話を聞きつけた金貸しが警察より先に俺を捕らえに来るのか。
そんなことを思っていると、近くに置いてあった晃敏の携帯電話が鳴った。いまどきのタッチスクリーン式ではなく折りたたみ式のものだ。
いったい誰からだ、と晃敏は震える手で携帯を開いた。
そこに表示されている名前をみて晃敏は激しく動揺した。
携帯の画面に表示されている発信者の名前は四年前に自分を組から追放した張本人、北白川弓弦だったからだ。
どうしてあの女がこんな時に俺に電話を。
混乱する晃敏だったが、出るかどうか散々迷った末、彼は携帯の通話ボタンを押した。
「もしもし」
どこか震える声で晃敏がそういうと、携帯のスピーカーからは男勝りな口調で話す弓弦の声が流れてきた。
『よう晃敏、元気にしてたか』
「お、お嬢っ。お久しぶりですっ」
数年ぶりに弓弦の声を聞いた晃敏は、彼女に媚びるような返事をした。
『悪いな、こんな夜遅くに』
「いえっ、とんでもないっ。だけど、どうして急に俺が電話を……」
まさか、邦弘が死んだ話を聞きつけて、それで奴に恨みを持っているであろう俺に電話をしてきたのか。
そう思っていると弓弦は晃敏の予想に反し、まったく別の話題を出してきた。
『うん、ちょっとお前に頼みたいことがあってな』
「俺に頼みたいこと?」
弓弦のいうことに、晃敏はさらに困惑した。
自分を裏切り者として追放したあの女が、俺に何を頼むというんだ?
「すいません、その頼みたいってことは……?」
『うん、詳しいことは直接会って話そう。今夜は空いてるか?』
「あ、空いてますけど。だけど、どうして俺に?」
『それが話すと長くなるんだが、少しヤバイ案件でな。だからうちの連中じゃなくて、代わりにお前に任せようと思ったんだ』
「ヤバイって、そんな」
『安心しろ、報酬ははずむよ、いま結構ピンチなんだろ?』
「……どうしてそれを」
『忘れたのか? この世界じゃどんな内緒話でもすぐに広まっちまうんだよ。ということでどうだ、いっちょこの話に乗ってみるか?』
試すような口調で、弓弦は問いかけた。
弓弦のいる北白川邸の書斎では、机に座って晃敏と携帯で通話をしている彼女の隣で、奏が佇んでふたりの通話の内容を聞いていた。
話に乗るかどうか。この問いに対して晃敏がどう答えるかで、弓弦の殺人計画の進退が決まる。
いま晃敏に急に電話をかければ、彼に警戒されることは目にみえていた。
だが今夜中にすべてを終わらせなければいけない。悠長に機会を伺っていたら、警察に先を越されてしまう。彼らが晃敏を逮捕する前に、自分が奴をこの手で殺さなければ。
さあ、イエスと答えるんだ。
弓弦がそう念じると、しばらくの沈黙ののちに晃敏が返事をした。
『判りました。その話、乗らせていただきます』
それを聞いて弓弦はほっと息をついた。
「助かるよ、ありがとう」
そして弓弦は晃敏に待ち合わせの時間と場所を指定した。午前一時に二葉町七丁目の裏路地で。夜遅くには誰も寄り付かないような場所だ。
「それじゃ、また会おう」
そういって弓弦は電話を切ると、壁に掛かっているアナログ時計を一瞥した。
針は午後十一時五十八分を指していた。約束の時刻まであと一時間と少しだ。
「奏、行こうか」
「はい」
弓弦は机から立ち上がると、近くにいる奏にそういって身支度を始めた。
ダークのネクタイをつけたシャツとスーツの上にコートを羽織り、コートの内ポケットのなかに拳銃を詰め込むと、弓弦は奏と一緒に家を出た。
「お嬢、こんな時間にお出かけですか」
北白川邸を出るとき、まだ起きていた組員の村田という男が弓弦に声をかけてきた。この屋敷では弓弦のほかに、何人かの組員が一緒に暮らしている。村田や、弓弦の右腕である奏もそのひとりだ。
「ああ、ちょっと外に出たくなってな……邦弘のことがあったからさ」
「判ります、その気持ち」
村田が沈痛な表情を浮かべた。彼も邦弘のことは昔からよく知っていた。
「ではお気をつけて。俺は先に休んでます」
「ありがとう、それじゃおやすみ」
「おやすみなさい。奏、お嬢を頼んだぞ」
「判ってるよ」
奏が村田に向かってぶっきらぼうにそう答えると、弓弦を自分の運転する車にのせて電話で伝えた待ち合わせ場所へ向かっていった。
弓弦は激しい動悸を感じながら、車の窓から眩い街灯に照らされている夜空を見つめた。