一・北白川弓弦の来訪
「さあ、次がいちばん肝心なところですよ」
三ッ谷市中心街にそびえ立つ七階建て雑居ビルの四階、そこにあるひとつのフロアでは料理教室が催されていた。
部屋の正面にあるホワイトボードの前に立つ大柄な男、浅羽邦弘はキッチンの周りに並んで立っている参加者たちに向かって彼独特の低い低音で呼び掛けた。
邦弘がこの料理教室を開いたのは先月のことだった。三年ほど前にそれまでいた職場から退き、かねてから趣味としていた料理の技能を活かすために調理師の免許を取得し、前の現場の上司たちからの支援を受けてこの料理教室を開いたのである。
「こねたハンバーグの生地を成形していきます。これ、ただ単にぎゅっと固めてはいけないんですよ。いまからお手本を見せるので、ちょっと手を止めてみていてくださいね」
邦弘は自分の目の前にある実演用のキッチンに置いてあるボウルから、そのなかにあるハンバーグの生地を手の中に収まるサイズだけ取ると、それを右手と左手でぽんぽんとお手玉をするように投げて形を整えていった。
「こうやって形を整えながら、生地のなかに入ってる空気を抜いていくんです。それと、形ができたら真ん中の部分を人差し指で軽く押さえてください。これらをきちんとやらないと、焼いた時にハンバーグが爆発して肉汁が逃げてしまいますからね。さあ、みなさんもどうぞ」
邦弘の実演をみた参加者たちは、各々自分たちで作ったハンバーグの生地を邦弘がやったのと同じやりかたでこねはじめた。
しかし参加者のひとりである若者の女性、大川千尋だけは何を思ったのか、邦弘の指示通りにやらず両手で「よいしょ、よいしょ」と力任せに生地を丸め始めた。
そんな千尋の隣には黒のカッターシャツの上にエプロンを羽織った少年が立っており、彼は講師の指示を完璧に無視している千尋に向かって白けた目線を向けた。
「何やってるの、大川さん」
「何って、ハンバーグを丸めてるんだよ、ニノ」
「そうじゃなくて、なんで先生のいう通りにやってないのか聞いてるんだよ」
千尋にニノと呼ばれた高校生、二宮は呆れたように返した。
「だっておかしいじゃん。ぽんぽんって丸めるより、こうやってぎゅうっと丸めたほうが空気が抜けるのに決まってるのに」
「あのさあ、それやっちゃだめって説明の時いってたでしょう。ちゃんと先生のいうことに従いなさいよ」
「だけど実際にやってみなきゃわかんないじゃん、何事も挑戦だよ」
そんなことを平気でいう千尋に、やれやれと二宮は返した。
数分後、千尋のこねたハンバーグはフライパンの中で見事に大爆発を起こした。
「な、なんでこうなるって誰も言ってくれなかったの!」
「だから最初からいってたんだって」
キッチンの前で立ち崩れる千尋に、二宮は呆れたようにいった。
大川千尋は警察署に勤める、捜査一課の殺人事件を担当する女性刑事である。
刑事である彼女が高校生である二宮と知り合ったのは、ある殺人事件の捜査中にその事件の犯人と二宮がばったり出くわしたことがきっかけだった。
その人物と出会って即座に事件の犯人と見抜いた二宮は、それ以来千尋の担当する事件の捜査に度々絡むようになったのである。
ちなみにこの日は殺人事件とはまったく関係なく、講習料割引のクーポンを手に入れた千尋のほうから二宮にこの開校したばかりの料理教室に誘ったのである。ふたりはときどき、こうやって友人のように一緒に出掛けることがある。
そんな彼らが無残な姿になったハンバーグを食べているとき、料理教室のある雑居ビルの前に一台の車が停まった。
停まった車の後部車席からは、サングラスをかけた黒いコート姿の女性が出てきた。強い冬風が、彼女の艶々とした長い黒髪を靡かせている。
女性は車の運転席の窓に顔を向けると、中で座る彼女とは対照的な風貌をしている金髪ショート姿の女性に向かって口を開いた。
「終わったらまた連絡するよ」
「判りました。それじゃ、あたしは近くで時間潰してきます」
運転席に座る女性は開けていた窓を閉めると、そのまま路肩に停めていた車を発進させた。
走り去る車を眺めると、女性は深呼吸をしてビルの玄関へと入っていった。
いっぽう、料理教室が終えた二宮と千尋は一緒に講師の邦弘と話をしていた。
「どうも大川さんがご迷惑をおかけしました」
二宮が邦弘に向かって申し訳なさそうな顔をすると、邦弘が軽く笑った。
「いいんです、何事も経験ですよ。こういうのって、実際にやってみないと実感が湧きませんから」
邦弘がそういうと、しばらくしょんぼりしていた千尋が急に元気を取り戻して二宮に向かって興奮したように口を開いた。
「ほら、あたしの言った通りじゃん! 実際にやってみないとわかんないってさあ!」
「調子に乗るんじゃないの」
そういって二宮は千尋の髪を両手でごしごしと弄った。するとそんな扱いを受けた千尋が楽しそうに照れ笑いを浮かべた。
そんなとき、料理教室の女性スタッフだという雨宮美琴が部屋の外から邦弘に声をかけた。
「お話し中ごめんなさい。北白川さんが下に来たみたいです」
「そうか。判った、すぐ行く」
美琴にそう返事をすると、邦弘は視線を再び目の前にいる奇妙な男女二人組に戻した。
「それじゃあ、今日はわざわざありがとうございました。また機会があったら来てみてください」
「いえいえ、こちらこそ。それでは、また機会があったら」
二宮がそういうと千尋が「どうもー」と邦弘に手を振って、彼らは部屋から出ていった。
二宮たちが帰ると邦弘は来客者が待っているという事務室に向かった。
部屋の扉を開けると、部屋にあるソファーにサングラスをかけた若い女性が座っており、邦弘が来るのを待っていたようだった。
そんな彼女に邦弘は懐かしい気持ちになりながら声をかけた。
「お久しぶりです、お嬢」
邦弘にそう呼ばれた女性、北白川弓弦はニヤリと笑うと、向かい側のソファーに座った彼に「よう」と返した。
邦弘はかつてこの地域で活動している指定暴力団、北白川組に所属していた男だった。
中学生時代、町工場を営んでいた邦弘の父親は趣味のギャンブルに失敗したことが原因で、北白川組に対して多額の借金を背負っており、そしてある日返せる金の当てがなくなった彼は外に作った愛人と一緒に逃げ出してしまった。
自分たち家族を残して父親が失踪してしまったあと、邦弘は債権者に逃げられた北白川組のもとで父親の置き土産である借金を返す代わりに、組員として働くこととなった。
当時十六歳の邦弘が最初に命じられた仕事は、本家で暮らす組員たちの食事の献立係だった。
組に入った時は反社会的な集団の一部になることを嫌悪していた邦弘だったが、彼の境遇を知る組員たちはみんな彼に同情的で優しく扱った。
なかでも先代の組長である北白川勇は邦弘に対して特別暖かく接した。妻を早くに亡くし、息子がいなかった勇には邦弘のことが自分の子どものように感じられたのである。
そして邦弘はそんな勇のことを、本当の父親よりも父親らしく感じられたものだった。
息子がいなかった勇だが、彼にはひとり娘がいた。それが現在の北白川組の組長である北白川弓弦である。
「どうだい、そっちの調子は」
弓弦がかけていたサングラスを目の前のテーブルの上に置いた。
「ええ、順調ですよ。これもぜんぶ、お嬢のおかげです」
「よせよ、おれはおまえに金出しただけなんだから」
そういって弓弦は照れ臭そうに笑った。
北白川組の組長の娘として生を授かった弓弦は幼い頃から多くの組員に囲まれ、彼らの影響を受けて成長した男勝りな女性だ。
もともと病弱だった母親を幼い頃に亡くしたせいか、彼女には血の繋がった兄弟がいなかった。暴力団のトップといえば、ふつう妻とは別に愛人を何人か持っているものだが、彼女の父親は生涯妻への愛を貫き通していた。だから弓弦には腹違いの兄弟もいなかった。
そんな弓弦だが、兄のように慕う人物がいた。それが邦弘である。
邦弘が北白川組に入ったのは弓弦が八歳のときだった。勇から弓弦と仲良くしてやって欲しいと頼まれたこともあり、邦弘はよく弓弦の遊び相手になったり、勉強を教えてやったりして、彼自身弓弦のことを妹のように思っていた。
そして弓弦のほうも邦弘の側で成長してゆくなかで、邦弘に対して兄貴分として以上の感情を抱くようになっていったのである。
四年前に組長の勇が肺癌で息をひきとったとき、既に組の若頭として多くの仕事を任され、組員たちからの信頼も厚かった邦弘は、次期当主になるかどうかの分岐点に立たされていた。
勇が死んで当主の候補に挙がったのは邦弘と、先代の娘である弓弦のふたりだったが、最初邦弘は自分が跡目を継ぐべきなのかと悩んだ。この裏社会という男性上位の世界で、弓弦に多くの責任と危険を負わせていいものなのだろうかと。
だがそんな邦弘に弓弦は、自分が跡を継ぐと宣言した。そして邦弘にはこの世界から足を洗って、自分自身の人生を生きて欲しいといったのだった。邦弘が調理師に憧れていることを、彼女は知っていたのだ。
それからしばらくして弓弦が正式に当主となったのを見届けた邦弘は組織から去り、そして現在に至るというわけである。
「俺が出ていってからみんな、元気にしてますかね」
「ああ、大丈夫だ。みんな元気でやってるよ」
「それは良かった。そうだ、巖鉄爺いは最近どうしてます? ずいぶん歳だけど、ボケたりとかしてませんかね」
「いんや、相変わらずピンピンしてるよ。隠居生活に入ってからは孫に剣道を教えてるらしいぜ。テレビゲームで貧弱になった根性を叩き直してやる、って息巻いててさ」
「ははは、そりゃあ巖鉄爺いらしいや」
邦弘がそういって笑うと、弓弦はすこし緊張しながら邦弘に尋ねた。
「なあ邦弘。おまえ、おれに話したいことがあるって呼んだんだよな。なんなんだよ、その話って」
「ええ。俺、どうしてもお嬢に伝えなきゃいけないことがあってここ来ててもらったんです」
それを聞いた弓弦はどきりと心臓が高なり、首もとに一筋の汗が流れた。
「へえ。じゃあいってごらんよ」
緊張を顔に出すまいと、弓弦は邦弘に向けて余裕を感じさせるような笑みを浮かべた。
「判りました……じゃあ入ってきてくれ、美琴」
邦弘が部屋の扉に向かってそう呼びかけると、外からひとりの女性が扉を空けて部屋に入ってきて、ソファーに座る邦弘の横に立った。
「……邦弘、この女性は?」
「お嬢、紹介します。俺の婚約者の雨宮美琴です」
それを弓弦は内心激しく動揺した。そして胸のあたりに大きな穴が開けられたような気分になった。
婚約者だって? 待ってくれ、いったいどういうことなんだ。
弓弦が困惑していることを知らないまま、邦弘に紹介された美琴は彼女に向かって深々とお辞儀をした。
「初めまして。雨宮美琴といいます。北白川さんのことは邦弘さんから聞いています。彼がお世話になりました」
「あ、いや、それは……世話になったのはこっちのほうだよ」
礼儀正しい挨拶をする美琴に対して、弓弦は動揺を隠すのが精一杯で冷静に返事をすることができなかった。
「またまた、謙遜しないでくださいよ」
美琴を自分の隣に座らせた邦弘が笑った。
彼らが微笑んでいる中、弓弦は気づかれない程度に深呼吸をして、必死に気分を落ち着かせようとした。
「そうか、ワイフか」
そう口にすることで、弓弦はようやくこの状況を落ち着いて理解できるようになった。
「いや、しかし驚いたな。邦弘が結婚するなんて……雨宮さんといったっけ?」
「はい」
美琴が返事をした。
「こいつとはどんなきっかけで、その、なんというか……どうやって知り合ったんだ?」
「俺から説明します」
邦弘は弓弦に次のように説明した。
組を出て調理師の免許を取得した邦弘は、その後経験を積むためにレストランで働いていたのだという。そしてそこで従業員として勤めていた琴音と出会ったのだった。彼女と話しているうちに、彼女も自分の料理教室を開くのが夢だと知った。
共通の夢を持つふたりが親密な仲になるまでそう時間はかからなかった。そして半年前に共にレストランを退職したふたりはこうして料理教室を開くに至ったのである。
「水臭いなあ。おれに教えてくれたって良かったじゃないか」
「いやあ、お嬢を驚かせたかったんですよ」
邦弘がそういうと、琴音が恥ずかしそうに顔を赤くしながら彼に続けた。
「邦弘さん、この話を聞いたら北白川さんがどんなに喜んでくれるかっていってたんです。だからどうしても私を会わせたかったみたいです」
「そうか」
弓弦がそう呟くと、邦弘は真面目な顔をして弓弦に目を向けた。
「お嬢。俺たちの結婚、歓迎してくれますか」
邦弘にそういわれた弓弦は、彼の隣に座る琴音の姿を見た。そして彼女は自分のように薄汚れた世界で生きてきた人間とは全く正反対の、何一つ汚れのない女性なのだと弓弦は思った。
「当たり前だろ。雨宮さんを泣かせんなよ」
足を洗った人間が結ばれるべきは、表の社会で善良に暮らす人間だ。こんな自分にはもう、出る幕はないのだ。
「雨宮さん、こいつのことをよろしく頼みます」
弓弦が琴音に向かって頭を下げると、彼女は嬉しそうに「はい」と返事をした。
「それじゃ、もう時間だ。おれはもう行くよ」
「もう行っちゃうんですか」
「なんせおれは北白川組の頭だからな。これからやらなきゃいけないことが山ほどあるんだよ」
ソファーから立ち上がりサングラスをかけ直すと、「お幸せにな」と弓弦はふたりに向かって声をかけた。
部屋から出て、エレベーターで一階に下りると、弓弦はエレベーターの正面にある玄関からこちらのほうにやって来る少年と若い成人女性ふたりとすれ違った。
「なんで時計なんか忘れちゃったのさ」
二人組のうち、少年のほうが女に向かっていった。彼の羽織っているコートの下から学生服の金色に光るボタンがちらちらと見え隠れする。
「だって、料理する時ジャマだったもん。それにひき肉に時計が混ざったら大変なことになるじゃん!」
弓弦はそんな彼らの会話を気にすることなく、さっさと目の前にある玄関に向かって歩いていった。
「どうしたの、大川さん」
いましがた弓弦とすれ違った少年、二宮はビルの玄関から出た弓弦の姿を見つめたまま固まっている千尋に向かって話しかけた。
「いや、いますれ違った女の人がさ……」
「知り合いなの?」
「そういうんじゃなくって……あの女の人、警察がマークしている危険人物なんだよ」
「危険人物?」
二宮は鸚鵡返しをした。
「なんて言ったっけ。確か暴力団の組長の……思い出した、北白川って人だ」
「暴力団の組長? あの人女性だよ」
「女組長なんだって」
「ふうん。だけどそんな人がどうしてここに?」
「知らないよ、トイレ借りてたんじゃない?」
デリカシーに欠ける千尋の発言に二宮は何も返さなかった。
「聞いた話だとあの北白川って人、けっこうなやり手らしくてさ。うちの署のなかでは鋼鉄の女なんて呼ばれてるんだよ」
「鋼鉄の女、ねえ」
二宮はそう呟くと、彼女の出ていった玄関のほうを一瞥した。
「あの人、サングラスで隠れてよく見えなかったけどさ……泣いてるみたいだったよ」
「さあ、トイレが間に合わなかったんじゃない?」
二宮と千尋がそんな話をしているなか、ビルの前では弓弦が呼んだ車が停まっていた。
「早かったですね、姐さん」
金髪ショートの若い女性、安土奏が運転席の窓から弓弦に向かってそういった。北白川組に所属する彼女は、弓弦の右腕として常に彼女と行動を共にしている。
弓弦が車に乗り込むと、奏はすぐに車を発進させた。
「どこか寄りますか」
「いや……真っ直ぐ帰ろう」
静かに涙を流しながら外を眺めている弓弦に、なにかを察した奏が話しかけた。
「浅羽さんから聞いたんですか、結婚の話」
「……知っていたのか」
「ええ、けっこう前に教えてくれたんです。姐さんには自分の口から伝えたいからって、口止めされていたんです」
「……邦弘のやつ」
そう呟いた弓弦に、奏はそれ以上深く追求しようとしなかった。
すると窓を眺めていた弓弦が「おい」と奏に声をかけた。
「どうしたんですか」
「いま、晃敏がいるのがみえなかったか」
「晃敏が?」
「道に突っ立ってたんだよ。フードを被ってたけど、あいつは間違いない。晃敏だ」
森田晃敏はかつて、北白川組に所属していた男だ。しかし先代が死亡して彼の遺産の整理をしているとき、晃敏はそのなかから金品を盗み出そうとしたのである。
だが当時まだ組織にいた邦弘がその事実を知り、晃敏を告発したことで彼は弓弦の怒りを買い、組から破門されたのである。
晃敏が受けたエンコ詰めの制裁は、弓弦がこれまでで唯一組員に対して下した制裁である。
「だけど姐さん。仮にそいつが晃敏だったとして、どうしてあいつがこんなところにいるんでしょうか」
「……判らない」
そう口にする弓弦だったが、なにか胸騒ぎのようなものを感じずにはいられなかった。