たったひとつの。
義妹が自分の名を叫んで駆け寄って来るのが見えた。倒れた彼女の傍らに膝をついた義妹が彼女の傷口を見て、鋭く息を呑む。もはや助からないと察したのだろう、それでも義妹は彼女の名を呼び、更に大声を上げて助けを呼んだ。
ヒロは朦朧とした意識のままその姿を見て、ゴメンね、と思い、そう思いながら、30年以上も昔のことを思い出していた。
ヒロがクロウと共に、リムとディオンを含めた4人でカナルリアのクロウの実家を訪れたのは、クロウとディオンが風士補に、ヒロが神官補になることが決まった一ヶ月ほど後のことである。リムが神官見習を辞めることになった事の顛末を報告することと、クロウとヒロの結婚について相談することが目的だった。
及び腰のディオンをなだめすかしてクロウの実家の扉を潜ると、意外にもクロウの両親と姉は、満面の笑顔で彼らを出迎えてくれた。
特に父親は、ディオンの肩を叩きながら、彼を息子とまで呼ぶ始末である。
「大姉さん。小父様、怒っていらっしゃらないんですか?」
驚きを隠してこっそり訊ねたヒロに、クロウの姉は唸りながら答えた。
「もちろん激怒してるわよ。アレ」
クロウはそれを察しているのだろう、表情が暗い。リムも多分判っているのだ。父親の顔色を窺いながらディオンにくっついて決して離れようとしない。
「ま、あたしもなんだけどね。ディオン君はいいわ。どうせリムの方から迫ったに決まってるから。でも、クロウはダメ。リムの将来を台無しにした責任は、リムをきちんと管理できなかったあの子にあるわ。
だからクロウは、後で鉄拳制裁よ」
「……お手柔らかにお願いします……」
ぎゅっと拳を握りしめた大姉に、ヒロは、まるで自分が怒られているかのように小さくなりながらそう頭を下げた。
到着した夜に、家族だけの内々の宴会となった。既に家族の一員ということでヒロもクロウと並んで座についていた。父親と姉に鉄拳制裁されたからであろう、クロウは仏頂面を下げて不機嫌そうに杯を傾けていた。
宴が進み、緊張していたディオンの表情も緩み出した頃、ふと席を立ったリムを追うように、クロウも黙って席を立った。
「いいか、リム。もう少ししたら、ディオンを連れ出せ。いいな?」
「うん」
「父上が暴れ出すのはもう時間の問題だ。ディオンも気が短いし、父上に付き合わされてかなり酔っちまってる。あの野郎、父上に殴られたら間違いなく殴り返すだろうよ。
だからそうなる前に、いいな」
「チィ兄は大丈夫?」
「お前らが席を外すことは大姉には話してある。だから何とかなるさ。心配するな」
「ゴメンね、チィ兄」
「気にすんな、リム。これも兄貴の務めさ」
「うん。ありがとう、チィ兄」
二人が空き部屋でそう話しているのを、ヒロは偶然聞いた。酒が残り少なくなった事に気付いて、炊事場へと取りに出たのだ。
ヒロの心に黒い感情が湧いた。そしてヒロは、自分のその感情に気付いて愕然とした。なぜならそれは、あろうことかリムに対する嫉妬心だったからである。
ヒロはその場から逃げた。
逃げるしかなかった。
何事もなかったかのように炊事場まで行き、取ってきた酒を大姉に渡して、彼女は自分の席に戻った。酔ってぐでんぐでんになったディオンをリムがこっそりと連れ出すのを見送り、クロウとクロウの父親が取っ組み合いの喧嘩を始め、大姉が桶の水を頭から二人にぶっかけてその場を収めるのも、笑いながら手伝った。
「ヒロ、何かあったか?」
騒ぎの後にずぶ濡れになったクロウからそう訊かれて、「何でもないわ。ちょっと疲れたかな」と答えたが、まだ心配なのか、クロウが自分に気を配ってくれているのは明らかだった。
クロウの示してくれた優しさはとても嬉しかったものの、その時のヒロにとっては、逆に少し心に重かった。
リムに対して嫉妬を覚えたのはその時だけだ。しかし、その記憶は小さな棘となってヒロの心に残った。
クロウとの結婚式の折、顔をくしゃくしゃにして泣いてくれたリムを、ヒロは間違いなく心から愛していた。しかし、クロウとリムの間には、ヒロですら立ち入ることのできない深い心の結び付きがあって、ちょっとした事でそうした姿を見る度に、ヒロの心はチクリチクリと痛んだ。
丁重に清められたクロウとディオンの死体がブラムスによって送り届けられ、クロウの物言わぬ冷たい唇に口づけして以来、ヒロの世界から色が消えた。
ブラムスへの礼を使者に託し、クロウとディオンを埋葬し、全てを終えてもヒロは泣かなかった。泣く必要はどこにもなかった。何故なら彼女は、クロウの死を別れとは思っていなかったからだ。
一人自室でナイフを手に取り、己が胸に突き刺してようやく、彼女の世界に色が戻り、止まっていた時間が動き始めた。
リムが彼女に縋って泣いている。まるで、クロウと彼女の結婚式の時の様に、顔をくしゃくしゃにして。
リムちゃん。
わたしたち、いつもリムちゃんを泣かせてるね。
ヒロはそう思い、何故か笑いがこみ上げて来て、自分のために泣いてくれているリムに申し訳なくなって、ゴメンね、と小さく呟いた。
続けて一言、二言、震える唇を動かしたが、自分の声がリムに届いているかどうか、ヒロには判らなかった。
あれ?
ヒロはふと、泣き続けるリムの傍に誰か膝をついていることに気付いた。震える彼女の肩に両手を添えて、リムに寄り添っている。
目を凝らすとそれは、ディオンだった。
確か、クロウと一緒に埋葬したはずなのに、あれはわたしの思い違いだったのかしら。
不思議に思いながら首を回すと、ディオンの向こうに誰かが立っていて、視線を上げると、クロウが苦笑を浮かべて彼女を見つめていた。
あら。
こんなところにいたのね。
馬鹿。
……。
ねえ。
クロウ。
わたしが後を追うとは、思わなかった?
もしそうなら、わたしのこと、何も判ってなかったんだね。
わたしはついていくよ。
クロウの行くところなら、どこへでも。
もしあなたが、来るなと言ってもね。
ちょっと死んじゃったぐらいで、
わたしから離れられるなんて思ったら大間違いよ。
だって、わたしはあなたのもので、
あなたはわたしの、
たった、ひとつの……。
……。
ヒロの唇に微かな笑みが浮かぶ。
リムの泣き声は既に遠く、まるで子守唄のように心地良く聞こえた。
彼女に対して覚えた嫉妬心や、嫉妬心を覚えた自分自身に対する嫌悪感は、溶ける様に消えた。
そうして、ただただ満ち足りた想いに包まれて、ヒロは駆けて行った。
クロウの許へ。
大きく広げた彼の腕の中へ。