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最果ての国  作者: 篝 嗣巳
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プロローグ

 三日間に渡って降り続いている雨は街道の道をぬかるませ、池とも言うべき水たまりがあちこちに出来上がっている。馬上の男は深緑色のマントですっぽりと身を覆って、シャツ一枚を身に付けただけの身体をぎゅっとちぢこませていた。もうどれほどの距離を歩いてきただろうか。灰毛の愛馬の足は泥で茶色に染め上げられているし、手袋を失くした彼の両手は凍傷寸前だった。今日こそ宿屋を見つけなければ、彼の馬が限界を迎えてしまうだろう。新しい馬を探す金も、男にはなかった。



 馬の足を常歩から速歩へと上げ、街道をタンタンと進んでいく。アリアロス王国の雨季は長く、寒い。温季に見せていた街道の賑わいはどこへやら、商人たちですら家に籠って暖炉の火の恩恵に与っているらしい。前の宿屋の主人に聞いた村へは、夜明け前には着いているはずだった。人がいなくては道を訊けるはずもなく、ここがどこかもわからない。いつ死ぬともしれないとは思っていながらも、男はここで諦めることを是としなかった。馬の歩調に合わせて、身体が上下に揺すられる。空腹をとうに超えた胃には辛かったが、男は歯を食いしばって道の先に目を向けた。



 すると、向こうから一台の馬車がゆっくりと進んでくるのが見えた。ガタゴトと大きく横揺れしており、今にも転倒しそうだ。御者台に座る商人風の男は、馬の手綱を握るので精一杯なようで、男には気付いていない。



「おおーい、おい」



 雨音に消されぬように、彼は力の限り声を張った。馬車の商人はびくりと身体を震わせてからきょろきょろと視線を動かし、大手を振る男を見つけた。



「あんた、ここらの人か?」



 男は近づいて訊くと、商人がすっと肩を竦めた。



「詳しくはないが、知っている」 たっぷりと生やした口髭の奥で、商人がモゴモゴと言う。「あんた、旅の人か?」



「まあ、そうなるな」男はそう言って、腰に括りつけた巾着から銅貨を一枚取り出した。「この街道沿いに小さな村があると聞いた。どこにある?」



「銅貨一枚っぱしかなら、俺ぁいらんね」



 不機嫌さを隠そうともせず商人はそういうと、馬車の手綱を握り直した。



「まってくれ、二枚でどうだ」



 商人の団栗のような瞳が、ぎらりと抜け目なく光ったのを男は見逃さなかった。



「銀貨一枚だ」



「俺が金持ちに見えてるのか? それともバカにしてるのか?」



 男が脅すように声を低くしたが、商人は気にも留めずに涼しい顔で首を横に振った。



「じゃあ、一生道に迷ってるんだな、ボンクラ」



 馬に鞭うとうとしていた商人の手を身を乗り出して咄嗟に掴み、男は小さく舌打ちをした。



「わかった、銀貨一枚だ。それで、村はどこだ」



 商人は男が差し出した銀貨に思いきり噛みつくと、満足げに頷いた。



「このまま街道を少し進むと、ここいらの人間しか知らない森の抜け道がある。ながっぽそい石が目印だ。そこを進むと、村にでる。馬は引いていかにゃならんが、夕刻前には着くだろうよ」



 商人は上機嫌につば広帽の縁を軽く持ち上げてみせると、また馬車をガタゴト揺らしながらゆっくりと去って行った。



「よう、相棒。俺は騙されたんじゃないか?」



 愛馬の首をポンポンと叩くと、馬が小さく嘶いた。男はがっくりと肩を落とし、馬の脇腹を軽く蹴る。偽の情報と三日分の食糧を交換したとするならば、彼は自分をとんだ間抜けだと思うことにした。



 しかし喜ばしいことに、あの商人の言葉は本当だったようだ。しばらく進むと、街道の右に広がっている森の入り口辺りに、何かの動物を象ったような石がぽつんとたてられているのが目に入った。男はひらりと馬から降りると、バシャバシャと泥水を撥ね上げながらそれに駆け寄る。ちらりと見ただけでは絶対に気付かないような細い道が、鬱蒼と茂る森の奥へと続いている。



「やったぞ、相棒。今日は屋根の下で眠れる」



 ガサガサガサ。



 男が喜びに声を上げた瞬間、彼の視界の左端で、草が不自然に動いた。右手を腰の剣に添え、身を低くして辺りを警戒する。しかし、音の正体は一向に姿を現さない。そろりそろりと音のした方へと近づき、スラリと剣を抜く。そして茂みに差し込もうとした、その時――。



 バサバサバサバサ!



 一匹のカラスが男の頭すれすれから飛び立ち、彼は驚いた拍子にドシンと尻餅をついた。愛馬は主人の様子を滑稽だと言わんばかりに、フンと鼻を鳴らした。



「バカにするなよ。誰が俺を狙ってるかわからないだろ」



 男は口をへの字に曲げて、ぶつくさと文句を言った。既にびしょ濡れだったマントの裾は泥に塗れ、ブーツの中にも泥水が侵入してしまっている。



「人参はなしだ。干し草で我慢しろよ」



 八つ当たりの言葉を吐くと、男は馬の手綱を引きながら森の中へと足を踏み入れた。木の根があちこちに露出し、芽吹いてこの方手入れされたことのない針葉樹の葉が男の全身を突き刺した。悪路に舌打ちをしつつも、頭で宿屋のベッドと温かいスープを想像しながら、疲労で棒のようになった足を一歩歩動かしていく。




 そうして村が見えた頃には、日はとっぷりと暮れていた。

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