■■ 「おまえは、悪魔にも神にもなれる」
「……腹減ったな」
空腹で自動的に目が覚めるのは実に本能的だと思う。若い身体故にしかたないことだろう。
公太郎は四時間目終了のチャイムが鳴ると同時に、むっくりと起き上がって一応周りの様子を見る。猫のように寝続ける彼は級友にとって珍しくないので皆の注目を浴びることも無かった。
前の席の平蔵は「焼きそばパン争奪戦」に向かったためもう居なかった。
さて、自分は何を食べようかと考えていると、彼の机の右端にゴトンとアルミの固まりが置かれた。
とぼけた表情でその物体を見ていると、
「どうせ菓子パンか何かで済ませるつもりだったんでしょ」
そのアルミの固まりを置いた華子が、呆れた目を向けていた。銀色に鈍く輝くその物体は公太郎用の大型弁当箱である。
「いいのか、また貰って?」
「ついでよついで。あたしのお弁当を作る時に、余ったおかずを詰めただけだから」
中身は華子特製だ。作った本人も容積が少ない、中身がほぼ同じ弁当箱を持ってきており、それを抱えて友だちと昼食に出かけていくのだろう。
公太郎は弁当箱を取り上げてフタを開ける。栄養のバランスがとても良く考えられて、なおかつ彩りの良いおかずが並んでいるのだが、品定めが終わると目を細めた。
「うーむ、タンパク質が足りない」
「何を贅沢言ってるのよ」
華子が眉を潜めて抗議の声を上げると、教室に残っていた男子がみな「全くだ」とばかりに強くうなずく。
「だって事実だし。先週の水曜日と同じおかずの組み合わせだろ?」
「全くもう、そう言う細かいのは良く覚えているのね」
「ハナのおかずはパターンが単純だからな」
文句を言いながらも弁当の中身を口に放り込んでいく。足りない分はあんパンで補うかと思っているが、それがタンパク質の補充につながらないことなど気がついていなかった。
彼が弁当を食べる様子を見ながら、華子はちらりと窓の外を見た。
「おじさんたち、まだ帰って凝られないの?」
「そうだなあ……まだ父さんも身動きとれないみたいだし」
「そうなの……大変だね」
彼女は少し悲しそうな表情を浮かべていた。
「せめて母さんだけでも帰国してくれると楽だけどね」
「しかたないわよ、外国で一人きりなんておじさんも寂しいでしょうし」
「最近は看護ロボットもあるんだぜ、父さんもそう言うの好きだからそっちに任せればいいのに」
「それでもロボットでしょ、オバサンにしてみれば心配だし看護ロボットっていくらするか知っているの?」
「知ってるさ。今なら都心にマンション買うより安いはずだよ」
公太郎の得意顔に華子がため息ついたのは当然だった。
「やっぱりおばさん、渡航したのは正解だったわ。あんたがそんな考えだとおじさんも本気で何を買うか判らないわよ」
「その代わり俺がこんな生活してるんだぞ」
幼なじみと言え、華子が公太郎の世話をしているのには理由がある。彼は現在、訳あって一人暮らしなのだ。
公太郎の父親である祐太郎[ゆうたろう]は年の初めから海外に単身赴任していたのだが、三ヶ月ほど前に赴任先で大きな事故に巻き込まれてしまった。
幸い、命に関わるほどでは無かったが、リハビリを含めると今年いっぱい身動きができないらしい。
元々一人暮らしができるほど器用で無い父親である。公太郎の母親のかな子は祐太郎の身を案じ一人息子を家に残すと渡航したのだ。
もちろん息子を見捨てたわけでは無い。何より近所に桜庭家があり華子が居る。
萌葱家と桜庭家は親戚同士のような付き合いがあり、家族同士で旅行したこともあった。
当然のことながら家は半径五〇メートル以内にある。ただお互いの家を視認することはできない。
それぞれの家庭で「たろうちゃん」「はなこちゃん」と言えば公太郎と華子を示すほどの仲である。かな子が「うちの馬鹿息子をよろしくお願いします」と華子の両親に頼むと一つ返事で了承したそうだ。
そんなワケで公太郎の両親からの仕送りは彼の小遣いも含め、華子の口座に振り込まれている。
華子にしてもさすがにそこまで頼られると嫌と言えず、また根が真面目なのでいろいろと気を使っているのである。
ただ彼女にも利点があった。
「あんたと一緒に電車に乗ると、痴漢が来ないだけましなんだけどね」
今朝は「場違いのコクハク」だったが、本物の痴漢の被害もそれなりに遭遇しているのである。
「んー、そんなものかな。俺は何もしてないけど」
「普通は大男が居るだけでみんな避けるものよ」
そう言いながら華子の表情はどこか暗かった。
〈まだあの時のことが気になるのかな〉
公太郎が弁当を食べながら見ていると、華子が特大のため息をついてみせた。
「でも一緒に来ると公太郎と噂になるし……うまくいかないわ」
そんな悩めるお年頃の華子のことは、依頼主である萌葱家も気にしていた。
「それでさ、ハナにあんまり世話になるのも悪いし、父さんも考えているみたいなんだ」
「考えるって?」
「じいちゃんに頼んで家政婦さんをお願いしてもらったんだけど、その準備ができたみたいなんだよ」
「あら、お手伝いさん雇うのね」
「昨日、じいちゃんからメールが来ていた」
彼は箸を止め、携帯電話を取り出すと画面に触れ、華子の前に差し出した。
彼女がそれを覗き込むときらびやかなクリスマス仕様の画像の中に、『用意ができたぞ、すぐに来い』と点滅する文字があった。
「へえ。あのおじいちゃん、派手なメール使うんだ」
「結構な歳なんだけどこう言うの好きみたいだし……それで今日、学校の帰りにでも寄ってみようと思っている。うまくすれば来週くらいからハナの世話にならなくて済みそうだよ」
「……そ、それは良かったわ」
「中間試験もあるしハナも忙しいだろ?」
「そうよそうよ。でも良かったわね公太郎」
そのあと華子は自分の弁当箱を抱え、すっと席を立った。
「キレイなお手伝いさんが来るといいわね」
「俺としてはキレイな女の人が来ても何を話していいか判らないし、どちらかと言えばロボットの方がいいかな」
「ロボットメイドね……あたしもテレビで見たことあるけど、見た目ホントロボットだよね」
二人の話しているロボットは、つい最近試験運用が始まった看護用ロボットの一般家庭転用製品のことだった。
華子が言うとおり見た目は太さの異なる円筒形が積み重なったものだ。遠目に人型に見えるが外見はロボットそのものだった。
「怖いおばさんが来るより、ロボットの方がおもしろそうだよ」
「ふうん、まあ、あたしは誰が来ても歓迎するわ」
華子はほほえんでそう言い残すと教室を出ていった。
公太郎は「あの祖父」がどんな人を紹介してくれるのだろうと想像しながら弁当を食べ続けた。
§
公太郎の祖父、萌葱丈太郎[じょうたろう]の家は公太郎の家から少し離れたところにある。
通学に使用している私鉄の駅数で一〇駅ほど下ったところだ。公太郎の家の最寄り駅が滝田川、祖父の屋敷がある最寄り駅が東大野と言う。
東大野は閑静な住宅地と駅周辺を離れると田園風景がまだ残っている都会のエアポケットのようなところである。駅前にそれなりの商店街があるが、そこを一歩抜け出ると空き地や畑が点在し、土地が安いこともあって運送会社のコンテナ置き場や中小企業の工場などがあった。
丈太郎は祐太郎の父親にあたる。元々は物理学と機械工学の博士で、今では遺伝子工学で有名な普天[ふてん]大学に教授として研究室を持っていた。
それが祐太郎が結婚し家族を持つと独立、町の外れの高台にある洋館を買い取ってそこに研究施設を作った。その名も「萌葱超科学万能研究所【有】」。
誰が呼んだか知らないが、付いたあだ名が『高い城の変人』である。
何を研究しているか定かで無いが、公太郎が何度か遊びにいった時などいろいろな発明品を自慢げに説明していた。
近所のお子様から「キ○ガイじじい」と呼ばれているが、この老人は子供に優しかった。おもちゃが壊れた時など持っていくとタダで直してくれる。それがテレビゲームやかなり複雑な機械でも何でも直せる上に、誤って消去したセーブデータも復活できるので、子供も丈太郎を嫌がって「キチガ○じじい」と呼んでいるのでは無かった。
公太郎も多分に漏れずこの奇妙で常識から外れた祖父は好きだった。ただ四年前の一二月に愛妻の珠代[たまよ]を亡くしてから、研究にのめり込みになりどこか子供心に近づいてはいけないような気がしていたのだ。
そんなわけで公太郎が研究所を訪れるのは四年ぶりである。
最後に丈太郎とまともに会話したのは、中学生になった報告に訪れた時だ。
その時の丈太郎はとても上機嫌で饒舌だった。
『あともう少しで新しいエネルギーが完成するぞ』
いつもの発明自慢と思った公太郎は覚えている限りの新エネルギーを口にしてみた。
『それって燃料電池とか太陽電池とか地熱発電とか?』
『公太郎も勉強しているようだがまだまだだな、まあ見て俺!』
結局詳細を聞くこと無くそのまま年月が流れてしまった。
このように彼にとって丈太郎の印象は『チョット変わった発明家』である。遊びにいった時など普段から身につけているのは白衣だ。工学関係の博士なら白衣もオイルと金属粉で汚れていそうだが、そこは祖母の珠代がきちんと洗濯をかかさないおかげか、いつもノリが効いた光り輝く白だった。
しかも丈太郎の身長は一八〇センチを超えている。たぶん今の公太郎より高いだろう。髪は全て白髪だが薄くなっておらず、年齢も七〇を超えているがとてもしゃんとしていた。
そんな祖父はどんなお手伝いさんを紹介してくれるのだろう。そもそも父親はどうして祖父に頼んだのだろう、どうしても発明家とお手伝いさんが結びつかなかった。
〈ばあちゃんが亡くなってからお手伝いさんに身の回りの世話を頼んでいたのかな〉
考えられるのはそれくらいだ。ただ、公太郎は丈太郎と珠代がとても仲が良かったことを覚えている。自分の両親のように周りの目を気にすること無く、いつでもべたべたしていないが、とても自然に二人がお互いの名前を呼ぶ様子を見ていた。
だから珠代が亡くなってから、あまりの気落ちした様子に誰もが丈太郎の容態を心配した。一気に老けてぼけてしまうのではないか? そもそも発明だけの男に普通の生活ができるのか?
その後丈太郎との連絡は全く取れなくなった。生きていると思うのだが研究所からほとんど出て来ない。
〈父さんは、じいちゃんに連絡が取りたかっただけかもしれないな〉
だとしたら……公太郎も久しぶりに祖父の顔を見るだけでも良いかと考えた。小さい頃祖父の研究所に遊びにいくと丈太郎は必ず歓迎してくれた、一緒に遊んでくれた。見た目少し怖そうだが根っから子供が好きなのだろう決して怒らなかった。
お手伝いさんと言っても彼にしてみれば定期的に家を掃除してくれ、両親が帰ってくるまで食事の支度をしてくれれば良いのだ。華子が言っていた綺麗な女の人である必要など無い。
だからそんなのは再会する口実で良いのだ。
怖そうなオバサンでも平気だ、ロボットなら大歓迎だ。
彼は東大野の駅を降りてから、研究所のある高台まで歩きながらそんなことを考えていた。
かなり距離があるため、気がつくと辺りは暗くなっている。一二月なので日が短いこともあるのだが、屋敷の周辺はまともな外灯が少なく少し不気味なのだ。
それでも今日は珍しく空に黒雲が無く、屋敷の真上に綺麗な満月が浮かんでいた。それはそれで吸血鬼の館のように見え別の意味で不気味である。
「ふう、やっと着いた」
公太郎は表門の表札と看板の間、低い位置にあるインターホンを押してみた。
「じいちゃん、公太郎が来たよ」
そのまま待ってみたが返事が無い。別に孫なので勝手に入ってもかまわないと思うのだが、久しぶりだし了解をとっておきたい。
〈確か訪問時間は指定されて無かったはずだけど〉
念のため、携帯電話を取り出してメールの内容を見てみたが何日何時と言う指定は無かった。今の時刻は午後六時、買い物に出かけているのだろうか。
あらかじめ連絡を入れておくべきだったかな……公太郎は携帯電話をポケットに突っ込んで、目の前のインターホンに指を伸ばした。
とりあえず、もう一度ボタンを押してみよう。
「ポチっとな」
次の瞬間耳をつんざく轟音が聞こえ、目の前の洋館が真っ赤な爆発に巻き込まれていた。
間近で打ち上げ花火を見たようなものだ。爆風と振動が身体を叩く、素肌が露出している顔と手に熱波が襲いかかり眼球が痛みに震えた。
「うわっ!」
少々のことでは驚きもしない公太郎だがあまりの出来事に一歩引いて、腕で顔を覆うとその場に伏していた。
それでも爆発は収まらない。火柱が数本空に向かって上がり、足下に細かい振動が伝わる。火の粉のシャワーが雨のように降り注ぎ満月すら赤く染めてしまいそうだった。
ガラスの割れる音があらゆるところから聞こえる。また窓枠を吹き飛ばしそこからも火柱が躍り出ていた。
〈何これ、ひょっとしてインターフォンは自爆スイッチ? 二回押したらいけないのか?〉
いくつもの疑問が思い浮かぶ中、再度大きな爆発が起き建物が次々と崩壊していく。飛び散った破片が足下に降り注ぐのを見て、この場に居ては危ないと思ったのだが……その時!
燃え上がる洋館の中から何かが飛び出てきた。かなりの高さまで跳ね上がったそれは、満月を背に確実に彼の元に近づいてくる。そこから逃げようとしたが腰が引けてしまって思うように立ち上がれない。
その飛翔物は彼の目の前にひらりと着地し、そして立ち上がった。
公太郎は目を疑った。そこに居たのはメイドさんだったのだ。
やや小柄、濃い緑色のフレアスカートにエプロンドレス、細くて長い足に白のガーターベルトの付いたストッキングを穿いていた。それとパリエを蓄えたスカートの裾との間に素足がわずかに見えている。服装とおそろいの深緑のパンプスを履いて、バルーン状の袖から伸びた白い腕は手首にカフスが着いていた。さらに背中で爆風にはためいているのはエプロンを止めるリボンの端だろう。
その子が一人の老人を抱えている。その男性こそ、
「じいちゃん!」
公太郎は彼女に近づいてその腕の中の老人を見た。白衣姿に丸メガネをかけた彼こそ、公太郎の祖父・萌葱丈太郎であった。
メイド服の少女はそっと丈太郎の身体を地面に横たえた。白衣のあちこちが焦げて傷ついている。髪も乱れ顔色も悪く見えた。
どうしてよいか判らずうろたえていると、老人はまぶたを開き目の前に居る孫の顔を見て笑みを浮かべた。
「おお、公太郎……すっかり大きくなったのう」
「どうしたんだよ、こんなに傷だらけになって!」
「これは……『学会』の連中が儂の研究に手を出しおって」
そこまで言うと咳き込んで白衣の上に血を吐き出していた。
「じいちゃん、急いで病院にいこう!」
「もう手遅れだ――いや、おまえには間に合った」
丈太郎は全身を振るわせながら傍らに立っている少女を指さした。
「見よ、これが祐太郎に頼まれたおまえのメイドだ!」
「何言ってるんだよ、そんなことより……」
「聞け! 儂の言葉を」
まさしく鬼気迫る顔である。公太郎は思わず唾を飲み込んで祖父を見た。
「これはただのメイドなどでは無い。儂を追放した『学会』に対抗するために作り上げた究極のアンドロイドだ!」
「なんだって?」
「その名を『メイドレス』……汎用完全人造人間なのだよ!」
さすがにこの状況だ、祖父はどこか頭を打ったのかと思ったが、確かにこの小柄な少女が人間だとしたら、自分より大きな丈太郎を抱えてあんなに高く飛ぶことなどできないだろう。
改めて彼女の顔を見ると可愛い感じの美少女である。細面と大きな瞳に少したれた目、祖父と同じまん丸メガネをかけていた。鏡のように艶のある髪はストレート、肩より少し長く、毛先を一つにまとめているのでふんわりとしていた。やや広めな額に髪がかからないように、フリルの付いたカチューシャで止めているのが何ともメイドらしい。
ただ、燃えさかる洋館の火をその瞳とメガネに映しながら、無表情にどこも見ていなかった。
「もちろんメイドとしても完璧に機能する、お掃除洗濯料理、おまえが望めばなんだってしちゃうぞ」
唄うようにそれを告げたあと、丈太郎は後生大事に持っていたA四サイズのバインダーを公太郎に差し出した。
「これにメイドレスの全てが書かれておる。これを読んでこの子たちの全能力を引き出せれば……」
丈太郎はそこで言葉を切った。そしてぎりぎりまで公太郎の顔に近づけると、
「おまえは、悪魔にも神にもなれる」
あからさまに怪しい笑顔を浮かべたあと、またむせて白衣を血に染めていた。
「じいちゃん、もうしゃべるなよ!」
「いかん、追っ手が来る……Futaba,next order!(フタバ、次の命令だ!)」
すると今まで身動き一つしていなかったメイドがくるりと丈太郎を向いた。
「Sir,yes sir!(ご命令を!)」
「Take this child, and run away to the house(この子の家まで逃げるのだ)」
「Yes,My master(かしこまりました、ご主人様)」
「……もう儂はおまえの主人では無い、新しいご主人に仕えるのだ」
丈太郎は彼女の額に右手をそえてそっと呟いた。
「Seek out your next Master,when this order command ends(この命令が済んだらお別れだ)」
すると少女は目を見開いてわずかに身体を震わせた。
「……Yes」
彼女は公太郎に近づくと、その細腕と思えない力で何の苦もなく抱き上げていた。
「じいちゃん……」
「幸せにな、公太郎。娘たちをよろしく頼む」
丈太郎が傷だらけの顔に満面の笑顔を浮かべると、メイドは双眸に涙を浮かべ小さくお辞儀をした。
「See you again,my father(お父さん、またお逢いしましょう)」
「うむ、いけ……Let's go,My daughter!」
その声と共に彼女は公太郎を抱きかかえたまま、夜の町に高く飛翔して消えた。
§
その場に残された丈太郎だが、燃えさかる洋館の中から黒ずくめの男たちが現れ、身動きできない彼を取り囲んだ。
「あれはどこにいった?」
その問いかけにも丈太郎は笑っているだけである。もはや答えることができなかったのだろう。
男は舌打ちしたあと、仲間に目を向けた。
「探せ! まだ遠くに逃げていないはずだ」
そのとき、炎の館となった屋敷から別の影が現れると、そのまま公太郎とメイド少女が立ち去ったのとは違う方向に向かって飛んだ。
「追え、この敷地から逃がすな!」
「待て……」
かすれた声を発してから丈太郎はゆっくりと身体を起こした。彼の姿は自らが吐きだした血液と、炎に照らされて真っ赤であった。
「教えてやる……本当の、科学者気質と言うものを」
「なんだと?」
「科学者は、自分の作り上げた作品の、行く末に、責任を、負い続けるのだよ」
丈太郎は白衣の中から黄色と黒の斜め縞模様で縁取られたスイッチボックスを取りだす。それを天に掲げると大きな声で叫んでいた。
「わが、萌葱超科学万能研究所【有】に、栄光あれぇ!」
そして最後の力を振り絞るとアクリルカバーを砕きスイッチを入れた。
「いかん、逃げろ!」
しかしその判断は遅かった。
背後の洋館がその敷地ごと大きく盛り上がると、真っ白な光になって爆発したのだ。
〈珠代……待たせてすまなかった……〉
近隣一帯に響き渡る轟音と太陽が落ちてきたような光が消えたあと、そこには何も残っていなかった。
奇跡的に消滅を免れたあの立て看板が、ふらふらと舞い落ちて地面にはね乾いた音をたてる。
そのすぐそばにあった丈太郎の割れた丸メガネと共に、そこから立ち去る小さな影を見送っていた。