■■ 「コーヒー、頼んだでしょう」
それは桜庭家の一室での出来事である。
「うわ、遅刻よっ!」
朝、華子が目覚めた次の瞬間に発した言葉だ。
弁当の献立を考えている間に机に伏したまま眠りについたらしく、目が覚めると腹筋が何やらしびれていた。
幸いよだれは垂れておらず、大切な本やノートを汚すことは無かった。だが額に枕代わりになっていたカンペンケースのあとがくっきりと付いており、数時間消えることが無いだろう。
それよりアナログ時計に目を向けると、短針と長針が作り出す角度が思いもよらないものになっていた。
〈目覚ましはどうしたの? あたしが自然に止めたのかしら〉
などと思いつつ思考と行動がバラバラになり、イスを引かずに立ち上がると太ももの付け根を机に強打した。
うめき声を上げてそのまま床に転がり落ちる。身体を支えようとしたのだが枕代わりの腕が痺れて感覚が無くどうにも受け身が取れ無い。
思いの外勢いがありそのままゴロゴロ転がって、ベットの支柱に後頭部をぶつけ、小さな悲鳴を上げてようやく止まった。
しばらくのたうち回って仰向けになると、いろいろな痛みに震える全身に活を入れ何とか起き上がって見せた。
〈ともかく、公太郎だけは起こさないと……〉
根が真面目なため直接彼の家にいくのが本筋だと思っているのだが、ここは緊急手段と携帯電話を取りだした。
電話帳にアクセスした時、日付表示の「土」の文字を見て我に帰った。
「……土曜日だったんだ」
華子は息を吐くともう一度床に転がった。
改めて圧迫されていたりぶつけたところが少し痛み出している。おまけに目尻にほんのりと涙さえ浮かんでいた。
〈何か何か、ろくでも無い週末になりそう〉
そのままでは床を寝床に本気で眠りそうだったので、意識があるうちにベットの上に転がり込む、そして、
「覚えてなさいよ、公太郎」
それだけを呟くと夢の世界に突入していたのだ。
§
さて、土曜日早朝の萌葱家ではどうなっているかと言うと。
今までの休日なら昼頃まで寝ている公太郎だが、フタバとミカに、
「ご主人様、日頃の正しい習慣は大切です」
「おにいちゃま、朝ご飯は一日の基本ですぅ」
と言われ平日と同じ時間に起きて同じ時間に朝食を取った。
今日の献立はごはんにシジミのみそ汁とあじの開きにほうれん草のおひたし・納豆と焼き海苔と言うとても和風な組み合わせである。
朝からしっかりとご飯を食べそのまま寝ようと思ったら、ミカに部屋の掃除を始められ結局リビングに待避していた。
することも無いのでテレビの電源を入れたが、土曜日の午前中などどんな番組があるか判らない。しばらくチャンネルをコマーシャルのたびに切り替えていたのだが、だんだん眠たくなってきた。
〈コーヒーでも飲もうかな〉
そう思って台所に向かうと洗濯物を抱えたミカに止められた。
赤がベースのメイド服に腰から下に大きなエプロンを着け、頭には三角ずきんをかぶっている。
「おにいちゃま、どうしましたですか?」
「うん、コーヒーでも入れようと思って」
そのまま台所に足を踏み入れようとすると、
「いけませんです、おにいちゃま!」
そんな大声に彼は足を止めていた。
「男の子は台所と女風呂に入ってはいけないんですぅ」
「そうなの? 女風呂もダメなの?」
「女風呂は入るものでなく覗くものだとパパが言ってましたぁ!」
ろくでも無いことを娘に刷り込む祖父だと改めて思う。
「洗濯が一段落ついたらぁ、ミカがコーヒーを入れるのでリビングで待っててクダサイですぅ」
「うん、じゃあ砂糖を二つだけでお願いね」
「判りましたぁ!」
しかたないので彼はそのままリビングに戻った。
良く考えるとミカが洗濯していると言うことは自分の部屋の掃除が終わっていることになる。そのまま部屋に帰れば良いかと思いつつも、コーヒーを頼んでいるのでまたテレビでも見ようとリモコンを取り上げた。
その時ことんと小さな音がし彼の前にコーヒーカップが差し出された。
「おや、早かったね……」
そしてカップを持って来た手を遡っていくと、そこに居たのはミカでは無くヒトミだった。
思わず声に出しそうになるのをぐっとこらえて彼女の顔を見ていると、
「コーヒー、頼んだでしょう」
〈まて、これはミカちゃんが入れたものをヒトミが持って来ただけではないのか?〉
「あの子が忙しそうだからあたしが入れたのよ」
彼は笑顔を浮かべつつ鼓動が激しくなるのを感じて居た。当然恥ずかしいとか嬉しいとかプラスの感情が起爆になったのでは無い。
恐怖! この一言に限る。それでも無意識のうちにヒトミの顔を凝視していると、彼女の頬がやや赤くなりぷいっと横を向いた。
「し、しかたないでしょう、フタバも掃除で忙しそうだったのよ!」
「あ、そうなんだ」
「ほーら、せっかく入れたんだからさっさと飲みなさいよ」
〈飲む? それはつまりこのカップの中に入っているコーヒーかもしれない液体を俺の口の中に入れろと?〉
思い出されるのは三日前、インスタントラーメンと言う名の毒を口にし、カップ麺と言う名の洗剤を飲み込もうとした心の傷が公太郎の顔面を蒼白にした。アドレナリンが全身にいき渡り交感神経が刺激される。
はたして今回はどのような味覚になっているのか? もともと色が黒なのでバリエーションはいくらでも考えられる。
例えばそばつゆでしたとか、例えば墨汁でしたとか、例えば朝出たのりをどろどろになるまで煮詰めたとか、例えばこのカップにインスタントコーヒー一瓶分まるまる溶かされているとか……最後を除くといやがらせ以外の何物でもないが、ラストは十分考えられるオチと言うものだ。
カップを見つめたまま長考に入るとヒトミが腰をひねって少し悲しそうな表情を浮かべた。
「……別にいやだったらいいわよ。失敗作でも食べてやるってあんなに言っていたのに」
それを言われるとつらい。一応男の約束である。
彼はカップを右手で掴むとぐいっと顔の高さまで上げてみた。器に異常は無い。匂いはコーヒーだった。残るはテイストだけだ。
今日は朝から平和だと思っていたが、人生の分岐点はいつ現れるか判らない。
だからこそ人生はおもしろいと言うがそれは比較的楽しかった人生を送った人が、過去を懐かしんで言うことだ。公太郎はまだ一七年しか生きていない。
彼の緊張はヒトミにも伝わったのかコーヒーカップを乗せていたお盆を持つ手にも力が入り、破壊限界に近いひねりを加えられ悲鳴を上げている。
こんなのは勢いだ! 公太郎はうんとうなるとカップに口をつけ、ぐいっと飲み込んだ。
その黒い液体が喉を通る大きな音がする。カップを水平に戻した彼はきょとんとした表情になっていた。
「……飲めた」
その言葉が出るとヒトミはお盆を胸の前に抱え込み、背中をかがめるとこれ以上無いくらいに見事な笑顔を作って彼に聞く。
「どー、おいしかったかしら?」
「んー、普通」
とたんに真顔になったヒトミを見て女性の表情は猫の目とは良く言ったものだと感心する。
「な、何よその言い方」
「だって普通の味だからさ、特に驚くほどおいしいと言うものでもないし」
実際にそんな感想なのだ。悪気があるわけでも無いのだが、正直に言うのもどうかとヒトミの半目を見て思った。
しかし彼女はどこかうれしそうにしている。
「……ま、そーね。インスタントのコーヒーなら出せてその程度の味よね」
「ヒトミにもコーヒーくらい普通に入れられるんだな」
「それ、ほめてるの?」
「少しだけ。あんまりほめると図に乗るから」
「いーわそれでも。ねえ、そのコーヒー飲んだらちょっと散歩しない?」
ヒトミは上機嫌だった。その気分は壊さない方が良いかなと思うくらいだ。
「いいけどどこにだよ」
「ちょっとそこら辺。家の中は掃除と洗濯で忙しいみたいだから」
ヒトミの言うとおりミカとフタバは家中の掃除に大忙しのようだ。大がかりなものは年末におこなえば良いと言ったのだが、今おこなわれているので通常レベルらしい。
当然、足を引っ張りかねないヒトミはそれに参加させてもらえ無かった。そんなわけで彼女は暇なのだろう。
彼としては来週から中間試験だしそれなりの勉強をしておきたい。しかしいまさらおこなっても大きな順位の変動は望めないだろうし、散歩くらい良いかとコーヒーカップを握ってうなずいた。
「うん判った。それなら近所な」
「あたし、着替えてくるから」
ヒトミはステップを踏むような軽やかさでリビングを出ていった。その背中を見ながら彼はおそるおそるカップに残っていたコーヒーを飲み干した。
男の着替えに時間はかからない。フタバに負けるかもしれないがあっと言う間に外出着になり玄関でヒトミを待っていた。
さして時間もかからずやってきたヒトミは、濃紺のロングスカートにトレーナー、それにコートを羽織ってブルーのマフラーを巻いている。
服装そのものはシンプルだが彼女には良く似合っていた。ただし、
「そのトレーナー、俺のだろう」
「他のは洗濯しているみたいだから着てもいいでしょ?」
初日にフタバが、二日目にヒトミが着たトレーナーはいつの間にか彼女らの着替え用になっている。
「別にいいけど、俺も気に入っているんだからボロボロにするなよ」
「しないわよ、あんたあたしのことなんだと思っているの?」
「破壊の権化だろ?」
「……意地悪」
公太郎の笑い声に予想通りヒトミがすねていた。
二人が玄関から外に出ようとドアノブに手をかけると、ミカがぱたぱたとスリッパを響かせて近づいて来る。
「おにいちゃま、お出かけするなら帰りにお買い物をよろしくですぅ」
そして一枚のメモと小さながま口を彼に手渡してきた。
見ると買い物リストには素材が細かく記入されている。もちろん個数と重量が併記されていた。
「お買い物は駅前のスーパーでお願いしますぅ、コンビニはNGですぅ。それに買い物はそのお財布の予算でお願いしますですぅ」
がま口の中を覗いたヒトミが思わず苦笑していた。リストの項目数に比べると予算が低かったのだろう。
「お金なら途中でおろすけど」
「いけません! そういう無駄遣いがあとあと家計にひびくんですぅ」
フタバが来た当初は祖父の銀行口座から買い物をおこなっていたが、今は華子の口座に振り込まれた萌葱家の生活資金をミカが預かっている。彼女は小さな財務大臣なのだ。
しかもこの財務大臣は厚生労働大臣も兼ねている。加えて会計監査もおこなうと言う徹底管理状態である。
「そうかしら? そんなに大きな額で無いしー」
「ヒトミおねえちゃまはそこら辺が大雑把ですぅ、ちりも積もれば山なんですぅ! おにいちゃま、ちゃんと考えて買ってくださいぃ!」
ヒトミがざるだとすると公太郎は濾過用紙程度にお金に気を使うので、ミカの要求に素直に従った。
「ん、判った。帰り際に買ってくるよ」
それを聞いたミカは忙しそうに家の中に戻っていった。振り返った小さな背中には大きなはたきが刺さっていた。




