■■ 「その子に何か用なのか?」
痴漢に季節は関係無いのだ。
女性の着衣重量と犯行件数は反比例すると言うが、それは大きな勘違いだ。冬場では着ぶくれがあるため痴漢に好都合であり、触られた被害者が気がつかないステルス犯罪が横行する。
一二月中旬、その日の朝も満員電車の中に一つの影が、混雑する車内をとある方向に移動していた。それは押し合いの結果偶然に動いているように見えず、明らかに意志の込められた方向性を持っていた。
影の正体は小柄な男であり、彼の向かう先に一人の少女が立っていた。
とびきりの女子高生だ。
身長は一七〇センチ弱、着ぶくれ程度で隠せないメリハリの効いたプロポーションと、ベージュのコートからのぞく細くて長い手足はとても健康的である。
さりげなくつり革に触れている指は、爪先まで綺麗な線で構成されていた。
黒髪は耳が見えるショート、細面で小顔の中の大きな瞳は目尻が少しつり上がり、長いまつげと肉厚の小さな唇と相まって良くまとまった美少女である。
男は少女の素性も知っていた。彼女の名前は桜庭華子[さくらば・はなこ]。この列車が次に停まる私鉄・末禅[すえぜん]駅の近くにある、私立末禅高校の二年生であった。
つまり、行動するとしたらほとんど時間が無い。
男の喉元が動いて、震える手が華子の背中に音も無く伸びていた。
それがあと少しで彼女の身体に触れようというとき、
「その子に何か用なのか?」
男の肩がポンポンと軽く叩かれた。突然のことに驚いて華子に触れようとしていた男は首をねじ切るような勢いで振り向く。
目の前にあったのは白いセーターの壁だった。
見上げるとそこに居たのは一八〇センチを超える大男だったのだ。しかも背が高いだけで無く体格も良く、男を叩いた手も腕も着部暮れと思えないたくましさがあった。
さらにその大男は咆哮するように両目を閉じ、大きく顎を開けた。喉の奥から気合いさえ漏れ聞こえそうである。
当然小柄な男は背筋を振るわせ、全身を粟立てていた。
「ご、ごめんなさい!」
小柄な男は思わずそう謝っていた。それと同時にまぶたも固く閉じたので、目の前の大男は野獣の叫びでなく、とても眠そうなあくびをして目をこすったのを知るよしも無かった。
その物音に華子はゆっくりと振り向き、まず大男の方を見たのだが、
「どうしたの、公太郎[こうたろう]」
それは近所迷惑な大声だった。声質そのものはとても綺麗なのだが、満員電車の中で発すればかなり目立つ。
公太郎と呼ばれた大男も思わず顔をしかめている。
「ハナ、声がでかいよ」
「えー、どうしたの?」
公太郎が周りを考えて囁いたのに、それをぶち壊す大声の返事であった。
「だからイヤホン外せよ、声が大きいんだってば」
「えっと、ああ、ごめんごめん」
公太郎が耳を指さしたので、華子も自分の声に気がついたらしい。コートの中のポータブルプレイヤーを止め、耳からイヤホンを引っこ抜いた。
ちなみに聞いていたのは英会話のテキストである。一応勉強のつもりのようだ。
「それで、どうしたの?」
「いや、この人が、ハナに何か用があるみたいだったから」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
男は公太郎の体格と華子の大声にすっかり怯えていた。二人から見下ろされる背丈が恐怖でさらに小さくなっている。
乗客も何となくその三人に注目している。そんな中、列車は速度を落とし末禅駅のホームに滑り込んでいた。
「あたしに何か用なのかな?」
華子がうさんくさそうに男を見ていると、彼は懐から一通の封筒を取り出し、震える手で彼女に差し出した。
表に「華子さまへ」と書いてある。見たところ果たし状に見え無いので、おそらく恋文、すなわちラブレターであろう。
「あの、ぼぼぼくは吉木工業高校の一年生で田中と言います。じじ実は、以前から桜庭さんのことを……」
「ええと……ごめん、駅に着いちゃったから」
華子は彼に皆まで言わせずに、とてもすまなそうな顔で小さく頭を下げた。
そのあと公太郎の背中を数回叩く。
「ほら、学校に送れるからさっさと降りるわよ」
彼女は公太郎の広い背中に隠れそそくさと電車を降りた。
扉から出た直後、手紙を持ったまま唖然とする男子に振り向いた彼女が頭を下げる。
「ごめんなさい」
そのタイミングで扉が閉じていた。
周りの乗客は、手紙を見つめてうなだれるその少年の恋が実らなかったことを知り、なぐさめるような視線を向けていた。
§
「あれが、萌葱公太郎か?」
その声は末禅駅のホームにある売店の影から聞こえてきた。
最近の駅構内の売店は、省力化のためにほとんど自動販売機か簡易ロボットが相手をする。男が硬貨を投入し新聞を引き抜くとコンピューターグラフィックの女性がにこやかに頭を下げていた。
見たところ営業関係と思われる男が二人、新聞を読むフリをし電車から降りたばかりの大男、公太郎を注目していた。
ただその目つきは一般の会社員と言うより、明らかに獲物を狙う鋭さがあった。
「なるほど、彼が接触したとなるといよいよ手出しできなくなる」
「そうだな、スケジュールを前倒しにしないと……」
「待て、あれはもしかしたら……」
一人が思わず声を上げたのは、公太郎の背後から現れた華子の姿を見たからだった。
「まさかもう手遅れなのか!」
「いや、違うぞ。資料と異なる、おそらく一般人だろう」
もう一人が新聞で隠した何らかのリストを見ながら呟いた。華子を見つけた男も何度かリストと彼女を見比べまた小首をかしげていた。
「いずれにせよ時間が無い。急がせた方がよさそうだ」
「そうだな、『ドクトル』に連絡を入れなければ」
男たちが見守る中、公太郎と華子は階段を上がり駅の改札へと消えていた。
§
その公太郎は歩きながら電車の中と同じような大きなあくびをしていた。
大人の握り拳が楽勝で入りそうな口である。覗く角度が良ければ、咽頭がはっきりと見えたかもしれない。
「もう、そんな大きなあくびして、みっともない」
彼の横で華子が浴びせた文句も聞こえていないのか、あくびをした本人はまだ寝たりないとばかりにはっきりとしない目をこする。
「あんた、ちゃんと寝ているの?」
「寝てないよ……」
本当に眠そうな返事に華子はやれやれと首を振る。
彼、萌葱公太郎も華子と同じ末禅高校の二年生である。二人は学校へと向かう大通りを並んで歩いていた。
傍目から見ると『カップル』に見えるこの二人、物心ついた頃からの幼なじみだ。
小学校と中学校は家の近所にある区立の学校に通っていたのだが、高校は都内はおろか国内でも有数の進学校である末禅高校を受験したのだ。
これも別に示し合わせたわけでも無くお互いの進路は教えていなかった。ところが合格発表の日、同高校で二人顔を合わせており合格者発表板の中にそれぞれの受験番号と氏名を見つけていた。
それから一年半以上、二人は別々に登校していた。だが二年生の一〇月から仲良く並んで校門をくぐることが多くなった。
二人はその関係を否定するが、級友は当たり前のようにそれを疑っている。
「よう、タロウ。今日も夫婦で登校か?」
二人の真後ろから自転車のベルを鳴らして近づいて来たのは、公太郎と同じクラスの友人、里中平蔵[さとなか・へいぞう]だ。
彼の顔は典型的なにやけ顔である。しかし公太郎の返事は至って普通だ。
「おはよう、へーぞー」
一方華子は頬を赤く染めるとやや早口になる。
「ち、違うわよ! 何度も言っているけどこいつのご両親に頼まれて、しかたなく起こしにいっているだけなんだから!」
「へへ、判りやすいなあ。照れても無駄だぜ」
「だから違うって言ってるでしょ! 人の話を聞きなさいよ」
「判ったさ、嫌々なんだよなー、それじゃお先にー」
「おーい、へーぞー」
二人の横を通り過ぎた自転車に公太郎は眠そうな声で呼びかける。
平蔵はペダルをこいだまま振り返ったが、その次の瞬間、彼の自転車は目の前の電柱に体当たりしていた。
そのまま大の字になって道路に転がる平蔵、さしずめつぶれたカエルである。
「目の前に気をつけた方がいいぞ」
公太郎は平蔵を追い抜きざままたあくびをした。
その彼の横で華子はまだ顔を赤くしている。
「……もう、変な噂になったらあんたのせいだからね」
「んなこと言われてもなあ。嫌だったら起こしに来なければいいのに」
「だってだってあんたのおばさんに頼まれてるんだもの。起こさないわけにいかないわよ」
「そんなものかな……」
「せめて一人でもきちんと朝になったら目を覚ましなさいよ! いちいちあんたの部屋まで起こしに入るの大変なんだから」
「うん……努力する」
「いっつもそれなんだから」
華子にそんなお小言を言われながら二人は末禅高校の校門をくぐっていた。その直後である。
「こらぁ萌葱、朝くらいしゃんとせんかぁ!」
公太郎にそんな檄が飛んだ。言われた彼は首だけ声の方に向けたが華子は反射的に頭を下げていた。
二人の先に二年生の男子体育担当教師、野中がジャージ姿で立っていた。柔道部の朝練に参加したあとなのだろう、一二月半ばだというのに額にうっすら汗までかいている判りやすい体育会系である。
こういう場面での公太郎は、牡羊座B型とあって実にマイペースである。
「先生、朝だからしゃんとしてないんですよ」
「なんだと萌葱!」
額に見事な欠陥を浮き出させた野中に対し、華子はすぐさま低姿勢になった。
「すいません先生、失礼します!」
彼女は公太郎の腕を引っ張り全力で校庭を駆け抜けた。背後から野中の声が聞こえ隣の公太郎は不思議そうに華子を見ている。
「……何でハナが謝るんだ?」
「あんたのせいでしょうに!」
華子も少し血管を切りそうになったがその前に下駄箱に滑り込んだ。
やれやれと肩を落としながら華子が自分の靴箱のフタを開く。そこからひらひらと舞い落ちる一通の封筒、二人はそれを目で追っていたが彼女は床に落ちたそれを急いで拾い上げた。
そして小さく鼻を鳴らすと差出人も見ずにカバンの中に放り込んだ。
「ここんとこ毎日入ってるな」
公太郎は特に驚かずそう告げた。言われた彼女はあまりうれしそうで無い。
「……そんなに自慢できないけどね」
「そうか? そういうのは自慢していいと思うけど」
電車の中でのことやこの手紙を見ても判るとおり、華子はかなりもてる方である。ただ彼女にはそれほど実感が無いようだった。
ほかの学校の生徒から注目されるほどだ、この学校にも華子のファンはそれなりに居た。
学業は平均点だが得意は家事一般、趣味は料理を作ること。明るい性格で人見知りも無く女子の友だちは多い。
その女友だちからロングヘアの方が似合うとよく言われる。彼女の談では癖があるので伸ばすとお手入れが大変なのだそうだ。
そう言うわけなので、華子と幼なじみでありここしばらく同じ時間に登校している公太郎は、彼女のファンからとてもうらやましがられていた。
かく言う公太郎も自分の靴箱のフタを開けると、これまた可愛らしい封筒がひらひらと舞い落ちる。彼はそれを床に落ちる前に拾い上げた。
「何よ何よ、あんたのところにも入ってるのね」
「誰だろう?」
すると華子の前で無造作に便せんを広げた。
「……んー、バスケ部のマネージャーの一年生だ」
「知り合いなの?」
「男子バスケ部の人数が足りないとかでこの間勧誘された。その続きだよ」
「ふーん、まあその背丈だけ見れば勧誘したくなるわよ」
華子は公太郎を見上げていた。
その体格や短めの髪もあいまって、見た目スポーツマンである。しかし一般生活に必要以上の運動神経を持ち合わせておらず、まるっきりのインドア派なのだ。なのでその便せんも困った表情で見ていた。
「断るのも面倒なんだよな」
「しかたないでしょう、相手も部員が足りなくて困っているんだから」
公太郎はため息つくと、便せんを封筒に戻し自分のカバンに入れた。
実は公太郎もきちんとしてさえいれば、それなりに見られる顔立ちだ。
そんなわけでこの二人、自覚が無い同士のベストカップルと呼ばれることもあった。もしくはただ単に「夫婦」と言われている。
クラスも二年E組と同じ、下駄箱から教室まで並んで歩くことになる。おまけに一〇月初めの席替えで公太郎が窓際最後尾、華子がその右隣と本当に「夫婦」を演出する配置に、級友たちも平蔵を除けばからかうのも馬鹿らしくなっていた。
とはいえ二人そろって教室に入ると友だち同士の挨拶があるが、からかいの目で見ている生徒も居るわけだ。公太郎はそんなものを一切気にせず自らの席に向かっていた。
ややあって、鼻頭を痛そうに押さえながら平蔵が教室に入ってくると、公太郎の前の席に座った。振り向くと口をとがらせてつばを飛ばしながら抗議する。
「こら、もっと早く注意しろよ」
「そっぽ向いて運転しているのが悪い」
「里中くん、大丈夫?」
華子は心配そうに彼を見ながら自分の席についたが、彼女に対して平蔵は一転笑顔になる。
「平気さ。まあチャリのフロントフォークがちょっと歪んだだけだ」
「へーぞーの顔は歪みようがないからな」
「なんだとこの居眠りハムタロウ!」
「もう公太郎ったら、そんなことを言ったらダメでしょう」
「うーむ、この絶妙な掛け合いが夫婦以外に何と表現できようか……」
「里中くんもいい加減にしてよね!」
などとホームルーム前の友人同士の会話でも、男子の中には「桜庭と会話できるなんてうらやましい」と公太郎を見ていた。
少しするとチャイムが鳴って前の扉から、小柄な女性教師が教室に入ってくる。
日直がすかさず「起立、礼、着席」と呼びかける中、担任の近松碧[ちかまつ・みどり]は出席簿も見ずに教室の中をくるりと見回す。
「本日は休み無し、遅刻も無しと。萌葱もちゃんと来ているな」
「は~い」
その返事もどこか投げやりで眠たげなのだが彼女は気にすることなく出席簿にチェックを付けた。
「たまには桜庭に頼らず一人で来てみればどうだ?」
「今日は一人で起きましたよ」
「そのあと二度寝していたのでは意味が無いぞ」
この担任には公太郎のことなどお見通しらしい。クラスの中に失笑が漏れたがそれで恥ずかしそうに顔を伏せたのは、起こされた公太郎でなく起こした華子だ。
碧は出席簿を供託に置くと、再度教室の中を見回した。
「特に注意は無いが来週から中間試験が始まるので、みんな体調管理をしっかりすること」
生徒の中にはあからさまに嫌な顔をする者がいる。末禅高校は二期制なので一二月終わりに後期中間試験があるのだ。
「そろそろ受験に影響するから、クリスマス前と言え気を抜くなよ。以上」
背が低くて童顔、長い髪をポニーテイルにまとめた彼女は男勝りの口調だがとても三〇才過ぎに見えなかった。それでも新婚でそのお相手とはこの学校に在籍していたころからの付き合いだという。
担当は美術なので生徒と顔を合わせるのは、朝と帰りのホームルームだけだった。
碧は諸注意を告げるとさっさと教室から出ていく。すると次の瞬間に公太郎は机に伏してあっという間に眠っていた。
「ちょっと、一時間目の先生すぐ来るわよ」
華子が注意しても全く起きる気配が無い。その様子を平蔵はあきれた顔で見ていた。
「こいつ、ホントに夜何をやってるんだろうな」
居眠りハムタロウ、いつでも寝てるよハムタロウの名前が示すとおり、公太郎は昼間、体育の授業以外ほとんど寝ていた。
体育は得意で寝ないのでは無く単に寝ていられないだけだ。だが少しでも待機時間があると膝を抱えてそのまま目を閉じている。そこを先ほどの野中に嫌と言うほど怒られていた。
彼がまともに起きているのは登校時、昼食時、そして下校時だけである。それでも成績は中の上であり、この学校の方針に従い教師は特にうるさく指導もしなかった。
末禅高校は進学校ながら無いに等しい校則でも有名だ。法律・条例に反していなければ何をやっても特に罰せられることが無い。男女交際も自由だしバイクや車の免許を取ることもできる。
その代わり、その自由は自己責任と一定の成績をもとに保証されている。
寝てばかりの公太郎がそこそこの成績を保っているため、これは夜に全力で勉強していると思う級友も多い。しかし彼を良く知る華子は「そんなことは絶対無い」と言ってのけた。
実際に公太郎のナイトライフがどのようなものかほとんど知られていない。だが彼が完全夜行性であることは間違いないと思われている。
まさしくハムスターそのものだ。小動物にしては図体がでかくてかわいげが無い、そこが最大の違和感である。
そんなわけで、彼の安らかな寝息は昼休みまで続くのであった。