墓堀りの憂鬱
朝靄の中でカラスが鳴いた。早朝の森はやけに音が響く。男は空を見上げた。
空は青よりも濃く、紺よりは薄い、そんな灰色をしていた。男は地面を見下ろす。
地面には人一人が漸く入れそうなくらいの穴が開いている。
その穴は、男が掘った。
男は墓掘りである。
泥に塗れたブーツに、継ぎはぎだらけの服。それでも両手で持った大きなスコップは、少しも古ぼけてはいない。
「今日は、西の町の女だったか」
墓掘りはポツリと呟いた。前日の晩、墓守の男が言っていた言葉を思い出す。
西の町の中心部にある飲み屋。そこの女主人が数日前に死んだ。明日埋葬になるので昼までに穴を一つ用意しろ。
墓掘りは首を大きく一回転させる。次に右の肩、左の肩、順に回して行く。最後に小さな溜息をついた。そして仕事を再開する。
大きなスコップを濡れた土に突き立て、削り取る。また突き立て、削り取る。この作業の繰り返しを闇夜のうちから続けている。
墓掘りはこの仕事が好きだった。
人が存在を無くす最後の場所で、一心不乱に穴を掘る。真の寝床の準備をしてやる為に身を削る。この仕事が、好きで仕方なかった。
しかしその感情は今、薄れていた。
墓掘りはその理由に気付いていた。
墓掘りの中で「生」と「死」が混ざり始めていたからだ。
幾つかの町の共同墓地。ここには多くの死者が埋葬されている。そしてその数は増える一方だ。一週間に仕事は数度、多いときは一日二つ三つと穴を掘った。
墓掘りは心を折って穴を掘った。
太った者が死ねば、息苦しくては可哀想だと少し穴を大きくし、不慮の事故で死んだものが来れば、この世に未練があってはいけないと穴を深めに掘った。夫婦共に死んだ時などは、穴をこっそりと繋げたこともある。
そんな生活が楽しくて仕方がなかった墓掘りだが、ある日考えてしまった事がある。
自分は「生者」なのか、それとも「死者」なのか。
墓掘りは一日中墓地の中にいる。
明るい時間は物置小屋で眠り、暗くなれば穴を掘る。穴を掘れば墓守が食べ物を与えてくれて、掘らない日には空腹を紛らわす為に寝続ける。飼われた獣のような毎日。
気に掛けるのは死者のことばかり。
思いを募らせるのは死者のことばかり。
必死に生きているのは死者の為。
生きたものと話などしない。墓守は仕事を伝え、食べ物を与えてくれるだけ。町の者は死神だと近寄ろうとしない。
墓掘りは、墓を掘るのが好きだった。
それは、墓を掘ることが、生者として徳の高いことだと思っていたからだ。
生者から、死者へと変わるものを導く最後の聖職者。そう墓守に伝えられたことが誇らしかった。
墓穴を掘っている時が、一番生者だと実感できたのだ。
しかし、実際の自分は墓場に住み着く死を纏った人間。
それは死者と何も変わらない。
墓掘りは晴れ晴れとした気持ちで墓を掘ることが出来なくなった。
カラスが鳴いてから幾分か時が経った。墓掘りはスコップを大地に突き刺した。
しかしかき出すことはしない。
穴は、「人を入れた箱」が入るほどに広がっていた。
その穴に情はなく、ただ四角く切り取られたような穴だった。
墓掘りは額の汗を拭い一つ溜息をつく。そして大地に突き立てたスコップを大事そうに抱えるとそのまま、
掘った穴の中に横たわった。
仰向けに寝た墓堀の目には四角く切り取られた空が映る。灰色の曇天。ゆっくりと動く雲は生き物のようだった。
墓堀りは笑った。
外の「無音」が聞こえない穴の中。墓掘りは小さく笑った。
自分を見失いかけた墓堀りは、自分が生者だと実感する術を身につけていた。
それは、死者が横たわる場所で息をすること。
より死者に近い場所で生きることで、自分が生者であると実感することが出来た。
ポツリ。
墓掘りの額に雫が落ちてきた。それを皮切りに一つ、更に二つと墓掘りの顔に雫が落ちてくる。
墓掘りは起き上がろうともせず、雫を受け続けた。
墓掘りは喜んでいた。雫を感じられる事を。墓穴に入ったまま肌にものを感じられるのは生者であることに間違いがない。
墓掘りは両手の平を顔に擦り付ける。顔に張り付いた泥が剥げるのを感じた。
しかし、また墓堀りは笑顔を失ってしまう。
そして表情が恐怖に歪む。唇は微かに震えた。
墓掘りは不意に考えてしまったのだ。
墓穴に横たわってしまっては、それこそ死者なのではないのか。
墓掘りは黙ったまま空を睨んだ。