秘密の場所の頁
テオたちが帰ってきてから一時間経ち、やっとレシカと狼たちが帰ってきた。
レシカ曰く、スラスタの範囲は全部探したが、調教師どころか手掛かりになりそうなものすら何も見つからなかったという。
「やっぱアナスタチア内で操ってたか〜」
バルトの反応は、「大方予想はしてた」というようだった。
「やっぱってどういうことよ」
レシカの不機嫌そうな声に、バルトは飄々と答える。
「些かあの資料に不自然な点があってなぁ?最初の方はなーんら問題なかったんだが、段々胡散臭い結果とかが混ざりはじめたから違和感があったのさ」
その後、お互いの報告をし終わると、今日は男子勢も泊まりという事で、解散してすぐに、それぞれの部屋へと入っていった。
✽✽✽
───眠れない…
テオは解散してからベッドにすぐ潜ったが、結局それから二時間経っても眠れずにいた。
初めての環境には緊張する性格だったが、ここまでは初めてだ。
しかし、日頃から見慣れない、これ以上にないと思えるほどの品の良いふかふかのベッドや、天井に下がっている豪華すぎないが気品の溢れる照明や、寝転んでみると余計に広く感じる部屋に、この夜中を使って慣れろというのは、テオには至難の業だった。
そもそもこの部屋自体、実は今日初めて入っていたりする。
「………どうしよう…」
流石にこのまま寝不足で隈を作って起きたとしたらを考えると、テオには三人の反応が目に見えてわかる。
レシカは──恐らく何の反応も示さないだろうが、バルトはまた笑い出すだろうし、何よりもこの家の持ち主であるリルが心配するだろう。
「…あ、そうだ!」
何を思ったか、テオはベッドから出ると、持って来ていたスケッチブックと色鉛筆を手に外に出た。
✽✽✽
外の空気は中途半端に温まっていた体温を、緩やかに冷ましていく。
静まり返った夜は、心を落ち着かせる不思議な効果があった。
屋敷の裏に回ってスケッチブックを開く。
「今日は雲も無いし、絶好の観察日和なはず…」
そう言って座りながら空を見上げた。
満天の星空。この言葉に尽きるほどの綺麗な星空がそこにはあった。
さて…どこから描こうかな…と、思った瞬間、屋敷の表玄関から扉の閉まる音がテオの耳に入る。
「?」
気になってスケッチブックをたたみ、足音をなるべく立てないように玄関の方に行くと、銀の髪を揺らして歩いて行く少女の背中があった。
───こんな時間に何を…?
テオは急いで能力を使って、彼女の後を追った。
✽✽✽
少女は時折、人目がないかを確認しながら、とうとう『狂気の森』に姿を消していった。
テオは少し躊躇したが、結局そのままついていった。
───傍から見ればストーカーに近いんじゃないか?
テオはふとそんなことを思い、自分に苦笑いしていた。
✽✽✽
「ここは……」
テオは思わず声が出た。
入り組んだ迷路のような道を迷いもなく進むレシカに付いて行くと、一つの空間に辿り着いた。
森から発せられるあの重苦しい空気も、気を病むような禍々しさも、震えるような闇もそこには無い──否、掻き消されていた。
『狂気の森』には時折空気の違う空間が存在するというが、ここは格別だと断言できる。
中心に小さな泉があり、蛍が舞うように飛び交っている姿は幻想的な雰囲気を醸し出す。
空気は澄み渡り、ベールのような月明かりが優しく空間全体を照らしだしている。
言ってしまえばたったそれだけで、他には他の空間と変わったところなど無く、特別広かったりするわけでもない。
しかしそれだからこそ余計に非現実に見えるその光景は、それでも確かに今、テオの目の前にある。
この空間だけ、何処かから切り離されてきたようにも思えてしまう。
『美しい』の一言に限るその空間に、テオは完全に魅入られた。
そしてその間に、レシカは物陰にいるテオにまだ気付かないまま、ゆっくりと水辺に腰を下ろして空を見た。
我に返ったテオには、その姿がとても同じ少女には見えなかった。
髪を下ろした彼女は、パジャマ姿だった。
姿は妙に大人びていて、そこはいつもと変わらない。
しかし、感情を未だ自分の前で顔に出したことがない彼女の横顔にはとてつもなく淋しげな色が浮かんでいて、その頼りない儚げな顔は、幼い少女を連想させた。
──娘は唄う 一人を唄う ──
「……?」
不意に聞こえた歌声に、思わずテオは周りを見た。
しかし次にはすぐに気づく。
それが目の前の少女の声だと。
物語調の様な、今まで聞いたことのない歌は、ゆっくりとテオの内側に響く。
──誰もいない 秘密の場所で 唄を唄うの 消えないように──
凛として、でも透き通った綺麗なソプラノが空間中に響き渡り、共鳴するように蛍も舞う。
──空が歌えど心は晴れず 水が歌えど心は乾く──
テオは曲に合わせて表情が歪む。
余りにも悲しげなその歌は、響けば響くほど辛くなる
──唄え 唄え 月夜に紛れ 唄え 唄え 星を唄え──
刹那、少女が月の光に溶けていくような錯覚にテオは陥る。
───駄目…だ、この歌、なんか駄目だ…!!
テオがそう思った時には、体と口が既に動いていた。
「レシカ!!」
「?!!」
テオはレシカを現実に引き戻すように、わざと大きな声で声を掛ける。
そこでやっとテオに気付いたレシカは、目を大きく見開いてこちらを凝視した。
「な………何で………」
普段は作戦の時や余程の大事じゃない限り絶対口を利かないレシカが、この時ばかりは声を出した。
そしてその声も、驚きのせいか掠れて入る。
「あ、いや、星空観察しようと森に入ってたら、知ってる気配がしたからさ…」
テオは慌ててスケッチブックを見せて理由を言うが、次のレシカの一言に頭が真っ白になる。
「………森の中って、空見えたかしら?」
「……あ、えーと、ほ、ほら、あのー……」
何とかして言い訳を考えなくてはいけない。
───考えろ僕……!!
「そ、そう!こういう空間が森にはいくつがあるからさ!ここ以外の場所に行こうとしてたんだけど!ほら!さっきも言ったように知ってる気配があったから!!」
誰がどう見ても怪しい。
それはテオ自身が一番自覚しているが、口から出た言葉はもう戻らない。
「…かなり苦しいけど、まぁいいわ」
流石に色々と気の毒だと思ったのだろうか。
レシカは溜息混じりにそう言った。
やっと胸を撫で下ろせるとテオは思っていたが、また質問が飛んでくる。
「…歌、聴いたの?」
「え?!!歌?!!!」
テオの声は思わず大声になって答えてしまい、レシカはその反応に今度ははっきりと溜息を吐いた。
「聴いたのね…………?」
溜息の次は、地獄の長も震え上がるような睨みでテオを氷漬けにする。
「ゴ、ゴメン……聞ク気ハナカッタンダケド……」
「……………………」
片言過ぎて嘘に聞こえてもいいくらいだが、レシカはもう追及しようとはしてこなかった。
「……秘密にして」
「え?」
ふとテオがレシカを見ると、彼女の視線は既に泉の水面に向けられていた。
そこには既に怒りはなく、先ほどの儚げな表情が戻っていた。
「秘密にして。歌の事も、私がここに来ていることも、この場所の存在も、何もかも」
「わ…分かった…約束する」
それだけ聞くと、レシカはやっと張り詰めた空気を開放し、水辺に座り直した。
穏やかな空間に沈黙が流れる。
流石にこの空気がむず痒くなり、テオが気を紛らわそうと空を見た。
「わっ…………!!」
そこにはテオにとって、宝石よりも価値があると思える空が広がっていた。
「凄い…?!冬でもないのに…星がこんなに見える?!」
空気が少しでも汚れていれば、すぐに消えてしまいそうな星まで、くっきりとその空には映しだされている。
月も星の輝きを邪魔しないで優しくそこに佇み、テオを魅了するには十分すぎる光景だった。
「…ね、ねぇ!またここに来ちゃ…ダメ…かな?」
気付いた時にはレシカに尋ねていた。
「え?」
訝しげな視線を送るレシカに、テオは更に続けた。
「お願い!こんなに綺麗な空、本当に生まれて初めて見たんだ!この空さえ見れればいいから…!お願い!」
必死に懇願し、終いには頭を下げたテオに、流石のレシカも困惑した。
「………貴方ねぇ…」
「お願い!!!」
もはや有無を言わせないようなお願いの仕方に、レシカもお手上げだった。
「…分かったわ。ただ…解ってるわよね?もしこの場所のことバラしたら──」
「ありがとう!!絶対言わない!!意地でも言わない!!!約束する!!!やったぁ!!本当にありがとう!!!」
結局テオのペースに完全に乗せられ、レシカはもう、どうする気も無くなってしまった。
しかし、子供のような無邪気な顔で空を見上げるテオを優しい視線で見つめていたことを、レシカ本人は気付いていないだろう。
その後、夜明けまでずっと空を見ていたテオだったが、日が昇ると同時に絵を描いていないことに気付き、その日一日はまるで元気がでなかった。