始まりの頁
見ただけで足が竦む森───
生き物の気配も、澄んだ空気も、陽の光すらも拒絶するかの様にどこか禍々しいその森は、木の実が落ちるその音さえ全体に響くのではないかと思うほど、常に静寂に包まれている。
だが今日はそんな静けさを掻き消すどころか、森全体を騒がせるような空気が小一時間ほど入り込んでいる。
「──っ……!!」
闇に等しい森の中を、少し変わった外套を身に着けたオレンジ髪の少年は無我夢中で駆け回っている。
見たところ背が少し低く大人しそうな印象を抱く彼は、街でもそれなりの値段はしそうな服を着ている。
ベストの胸元に家紋らしき刺繍が施してあり、恐らく下級貴族辺りの出だろうということが判る。
だがそんな見た目に反して運動神経はそれなりらしい。
違和感を抱かせるミントグリーンの瞳は既に苦痛に歪みつつあるが、後ろを気にしつつも木の根をリズミカルに跳び越えて行く。
その度に少し外に跳ねている髪がフワフワと揺れていた。
そしてそんな少年の隣には、かなり大きめで森の闇にも負けない漆黒の毛並みを纏った狼がいた。
少年と違って金色の目を爛々とさせ、玩具を追いかける子供のようなその様子はどう考えてもその状況を愉しんでいるように見えた。
───…ッどんどん近付いてきてる……!
この少年、なんとかもっと速度を上げようとしているのだろうが、相当長い間走り回っているのだろうか。
足は今にも縺れそうで、緩やかに速度は落ち、酷く不格好に見えてしまう。
───ん…?あれは…!!
不意に、少年の目に何とか人が入り込めそうな木の窪みが飛び込んできた。
どうしたものかと考えるよりも前に、迷いなくそこに転がり込む。
狼も同様にそこに滑り込む。
そしてそっと息を潜める。
「グオォ………」
何かが唸る。
そして遠ざかって行く。
少年は、自分たちを追いかける、この森より更にどす黒い空気を纏う巨大な気配が離れていくのを感じると、やっと一つ大きな溜息を吐いてその場にへたり込んだ。
「も、もう……無理……………」
肩で息をし、抑えつけても足の震えは止まらず、喉がヒューヒューと情けない音を鳴らす。
正に体全体が彼の限界を示していた。
目を開く力すら消費しきってしまった少年とは対照的に、狼の方はまだまだ余裕だと言わんばかりに尻尾をがんがんに振っている。
余程全力疾走が楽しかったのか、早くも続きの催促をするように彼に鼻を押し付けていた。
喉から血の臭いを感じながら、少年はそんな無邪気な狼を無い力振り絞って睨みつける。
彼がここまで体力も精神も擦り減らす原因を作ったのは、他でもないこの漆黒の狼だ。
溢れる憎悪を視線に込めるが、身体に限界が来ている少年の目は疲れから自然に潤んでいて、迫力が無いことは少年自身が一番理解していた。
✽✽✽
時間は少しだけ前に戻る。
少し暇ができた少年は、町の外れにある少し広めの草原の上に寝転がっていた。
「やっぱりここは気持ち良いな〜…!」
澄み渡る空気を思い切り吸い込み、その空気を十分味わってから、ゆっくりと息を吐き出す。
夜になると綺麗な星を何にも邪魔されることなく満喫できるこの場所は、彼のお気に入りの場所だ。
「………」
少年は暫くボーッとしていたがふと、ポケットから銅色のロケットを取り出す。
首にかけるための細かく小さな鎖の先は、無理やり引き千切ったのか金具の部分が壊れ、首に再び掛けることは不可能になっている。
手のひらサイズの蓋には細かい装飾が施され、素人目でもそれなりの値段がするものだということが一目で判りそうなものだ。
そしてそれを開くと、中には彼の家族と思われる写真が入っていた。
「…やっぱり父さんとかに見せたかったな〜…ここの景色」
そんなことを呟いていると、眠気がやってきたのだろう。
少年は特にそれに抗おうともせず、欠伸を一つかますと、そのまま静かに目を閉じた。
✽✽✽
何かの気配を足の辺りから感じて少年が目を覚ましたのは、まだ日がそこまで傾いていない頃だった。
「…………?」
少年が上体を起こして視線を気配に移すと───
「っ?!?!」
「グルル…??」
目の前には真っ黒な狼がそこにいた。
全身は世界中の黒という黒を集めたのではないかと思うような艶のある漆黒の毛並みに覆われ、金色の双眸はどんな猛者も黙らせられるだろうと思うほどの無言の圧力がある。
普通の狼とは一回り、いや、二回りも大きい狼を目の前に、少年は完全に腰を抜かした。
そんな少年にはお構いなしに、狼は更に彼の顔の方に近付いて来る。
「グルルルル…」
この狼、少年に全く興味は無さそうだが、だからと言って離れる気配もない。
───に、逃げろ、逃げるんだ、逃げなきゃ、逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ……………
頭で言葉を繰り返したところでどうにもならない。
そんなことは少年だって百も承知だが、悲しいことに体が全く動かせない。
すると突然、狼の動きがピタリと止まった。
同時に一瞬少年の心臓も止まる。
狼の目には少年の手に握られているロケットが鮮やかに映っていた。
「ガウッ!!」
「うわっ?!!!!」
不意を突かれた少年は手にその狼の牙を受け、反射的にロケットを手放す。
狼はそれを狙っていたようで、落ちたロケットを咥えるとそのまま森の方へ走って行ってしまった。
どうやら遊び道具か何かと勘違いされたらしい。
「……何だ今の…」
浅めの傷を押さえながら、少年は呆然とその姿を見送る。
──が、二つ三つの間を数え、ロケットを盗られたという事実を再認識した瞬間、慌てて外套を掴んで狼を追いかけだした。
父親の形見であるロケットを、奪われるわけにはいかなかった。
✽✽✽
狂気の森へ入った瞬間、思わず少年は顔を顰める。
空気が重い。
息が少しだけ苦しくなった。
何より、視界が昼間とは思えないほど悪い。
何も無しにこの闇の中であの真っ黒な狼を探すことを考えると、軽く頭痛を覚えた。
───まいったな……余り使いたくないんだけど……
少年は頭を掻くと、少しの間目を閉じる。
目を開ける頃には、彼の水色の瞳は若草のように淡い緑色をしていた。
少年は辺りを確認するように見渡すと満足気に頷き、真っ暗闇の森を躊躇なく進んでいった。
✽✽✽
数刻歩き回ってやっと、少年の前に先ほどの狼の後ろ姿が現れた。
狼は何か奥の方を見るようにして、少年に気付いていない。
ロケットは飽きられたのか、狼よりも少し手前、自分の身体一つ分ほど先の距離に捨てられていた。
狼との距離を確認しながらサッとロケットを取ると、急いでズボンのポケットの中に入れる。
───良かった…!!
少年がほっと胸を撫で下ろした瞬間、狼が此方に気付いた。
そのまま少年が逃げるよりも先に少年の足元に来ると、少年の周りを吠え立てながらグルグルと回り始める。
「うわっちょっ目、目が回る…!」
悲鳴に近い声を上げるうちに、本当に足元がふらついてくる。
ずっと回っている狼を見ているのが悪いのだが、少年はそれに気付かない。
そろそろ酔ってくると思い始めた時、先ほど狼が見つめていた所から、凄まじい殺気を感じ取った。
驚いてぐるぐるした視界でその方向を見ると、狼が少年とその気配の間に立って威嚇を始める。
空気から伝わるその気は、ビリビリと少年と狼の肌を打ってくる。
何処かにいる何かからの視線は、そのまま射殺すような鋭さを持ち、それだけで少年の足を竦ませた。
そしてそこで、少年は自分の犯した決定的なミスに気付く。
───あれ…僕、今日は槍、持ってきてない…よ……ね………………?
呆れるほど初歩的な失態。
余りの愚かさに今すぐ頭を抱えて蹲りたい。
しかし、その後悔もこうなってしまった以上は後の祭り。
「グォオオオオオ!!」
耳をつんざく様な咆哮が森中に轟いた。
そして明らかに自然のものではない地面の振動は、ゆっくりと加速しながら大きくなっていく。
「まずい!!!」
当然ながらこんな所で齢十七の人生を終えたくはない。
視界のぐらつきも収まらない内に、少年は覚束ない足に鞭打ちながら駆け出した。
✽✽✽
──そして今に至る。
いつの間にか水色に戻っている瞳はまだ軽く虚ろな様子だが、少し休みを取れたからか頭は大分冷静なものに戻ってきていた。
息も収まってきているが、だからと言ってとてもまだ走れそうにはない。
いや、まず立てそうにない。
「大体此処…何処なんだろう……」
森と言われればそれでお終いなのだが、何といっても此処は人々から忌み嫌われているこの狂気の森。
物好きの探検家やモンスターたちならまだしも、一般人の少年からしてみれば、完全に未開の地である。
森の中央には悪魔が住むとか、妖精がいる不思議な空間があるとか、嘘か本当かも解らない噂を大の大人が声を小さくして話しているのを聞いたくらいで、余りにも今の状況を打開するための情報が少なすぎる。
というか、ほぼ皆無だ。
「とりあえず…まず出口ってどっちだろう……」
今まで一度も入ったことのない森の中で木を障害物にうねうねと走り回った結果、はっきり言って今の少年は完全な迷子状態だ。
───十七歳の迷子なんて聞いたことがないや…
自分の置かれた状況の惨めさに、思わず少年は肩を落とす。
「弱ったなぁ…君が判るわけもないし…」
少年は少し嫌味を含めた言い方で狼の方をちらりと見るが、狼は「そんなこと知るか」と言うように、目を合わせようともしない。
───狼に当たっても仕方ないか…
何処までも不思議だがこの黒狼、少年に対して警戒心すら微塵も感じられない。
しかしまぁとりあえず敵認識されていないと言うのなら、今は放置しておくのが得策だろう。
「とはいえどうしようかなぁ…」
軽めの溜息を吐くと、少年はゆっくりと周りを観察する。
周りにあるのは木と、木と、木と────
逆に何があるのか教えて欲しいくらい木しかない。
いや、皮肉って言うなら空気があるとか土があるなどと言えなくはないが、そんな屁理屈今は聞いちゃいない。
何処かの童話みたいに歩いてきた道に目印でも置いておく余裕があったなら…などと思うことは幾つもあるが、打開策は全く頭に浮かばない。
───どうしようこれ…どうしようもないよこれ…
頭を抱えた少年は気づかない。
ただでさえ暗い周りの地面に明らかに異常な暗い影が差してきたことに。
虎のような姿をした巨大生物は、殺気を隠そうともせずに此方を見ている。
その距離はゆっくりと、そして確実に近づいてくる。
あと十歩、あと九歩、あと八歩―――
流石に危険を察したのであろう狼が吠えだす。
余りにも煩く吠えたてる狼を叱りつけようとした少年はそこでやっとそれに気づいた。
───いつの間に?!!
とにかく広い場所に出ようと何処から出てきたのかも解らない力を振り絞って穴から脱出を試みる。
しかし出ようとした瞬間、縦横無尽に張り巡らされている蛇のような木の根に思い切り躓いた。
情けないほど高く短い悲鳴を上げて、その場に顔面から地面にダイブする。
既に殺気は見上げなくても頭上から感じる。
正直今から抵抗しても、この相手の巨体を考えれば何の意味も成さないというのは、赤ん坊でも判る。
───父さん、母さん、ごめん…かなり早いけど、再会することになりそう…
振り上げられた虎の前足がこちらに勢いよく迫るのを感じて、全てを諦めた少年はそのまま意識を飛ばした。