待つ場所待たず
世の中には、信じられないような出来事が、突然目の前で起こることがある。
そのときできるのは、ただ茫然と立ち尽くすことだけだ。初めて「それ」に遭遇したときの俺がそうだった。
二秒……、三秒と時が刻まれ、「それ」が視界から消えたとき、ようやく、「嘘だろ……」と小さく呟くことができるくらい。
だが、そのまま立ち尽くすばかりではない。
俺は自転車のハンドルを力いっぱい握り、ペダルを一気に踏み込んだ。
まさかこのタイミングで……。
オレンジ色に鮮やかに染まる空は、最高だったのに。
「いやあ、まさかこのタイミングとはね」背後からアヤメの声。
「うるせえよ! 俺だって驚いてんだ」
「サクラの下で待ってる」
それは昨日、幼馴染のユウコが告げた言葉だった。
勝気な性格をしているユウコが頬を染めている姿は、俺の胸を強く打った。こんな一面があったなんて、十数年の付き合いだけれど、まったく知らなかった。
話があるから明日の指定した時間に来て欲しい、と言われて、俺はユウコから告白されることを想像するのは容易だった。
いつか俺が、と思っていたけれど、まさかユウコからそう告げられるとは思っていなかった。
だから、晴天の霹靂のような出来事だった。
その夜は、眠ることができなかった。
当然だ。
俺は嬉しさで、胸の鼓動が治まらなかった。
頭の中に、これまでのユウコの姿が思い浮かんだ。
「なんで、こんなときに限って!」
先をぐんぐん進んでいくサクラを追いかける。
山道となり、ペダルを漕ぐ足に力が入る。
まさか……。
まさか、サクラが移動するなんて……。
それに、ユウコの奴、それについていくなんて。
律儀というか、意固地というか。
そういうとことも好きだ!
本当に大好きだ! チクショ―!!
息も絶え絶えになりながら、山道を上る。急な坂ではないけれど、長い上り坂のため相当な体力が必要とされる。別名、地獄坂と呼ばれ、熱血な運動部がよく走っているのを見かけた。
「風が気持ちいいー」
アヤメが言う。
「もっと速く走れないの? ほらほら、差が広がっていくよぅ」
「わかってる……から、少し、黙っててくれ」
「やだよぉ。つまらないじゃん」
「じゃあ、下りてくれ」
「わたし、軽いから問題ないでしょ?」
「そういう問題じゃないんだけどな」
車の一つも走っていない坂を上り切ると、悠然と下っていくサクラの姿とユウコの姿が見えた。ユウコは俺に気付くと、小さく手を振った。
呼吸を整える。
アヤメが振り落とされていないか確認。うん、大丈夫だ。
サクラは動きを停止している。今が追いつくチャンスだ。
一気に踏み込み、下り坂へ。
「きゃあ! 飛ぶ! 飛んじゃう!」
アヤメが叫んだ。
タイヤの回転が速まる。
自然と目が細くなった。
速度が上がっていく。
しかし、それでもペダルを漕ぐのをやめない。
サクラは動かない。
まだだ。
まだ動かないでくれ。
もう少しなんだ。
いつの間にか、ハンドルから右手を離していた。
ユウコの姿が近づくにつれて、これでもかと腕を伸ばす。
ユウコも腕を伸ばした。
「私ね、実は……」
ユウコの声。
昨日聞いたはずの声が、なぜか懐かしく感じられた。
胸の中に安堵感で満たされていく。
「こういうシチュエーションに憧れてたの!」
あと数センチ。
この距離を埋まるのは、一瞬だ。
けれど、
その瞬間はこなかった。
縮まるどころか、
広がった。
こういうシチュエーション――。
俺が、ユウコを追いかける……。
『王子様が、お姫様を助けに行く』
昔はそんな絵本を読んでいたっけか。
「だから、頑張って!」
お姫様が微笑む。連れ去られているというのに微笑むお姫様がどこの世界にいるというのだろうか。
「ああ! 頑張る!」
ハンドルを強く握る。消耗していた気力が戻ってきていた。
「必ずお前を助け出してみせる」
「ははは!!」
とサクラが笑う。
「この儂に追いつけると思うなよ、若人が」
「若いとかじゃねえ! 男の力を見せてやる!」
「青春だねぇ」
アヤメが呟いた。その根がしっかりと荷台に巻き付いている。
ここはときどき、植物が人間のように話し、動き回る――そんな、少し変わった田舎町。
サクラがどこへ向かっているのかはわからない。
けれど、その下で俺のことを待っているユウコがいるのなら、俺はただ、あいつのもとへ意地でも走っていくだけだ。
必ず追いついてみせる。