Ⅲ ディスクをB面にセットしてください その⑤
開かれた自動ドアの中に足を踏み入れる。
二人の身体が完全に中に入った瞬間、二人が感じたのは奇妙な浮遊感だった。エレベーターで上階に着いたときのような、瞬間的な浮遊感。それとかすかな脱力が、二人にめまいのような視界のちらつきをもたらす。
「なんだ、今の……」
アキラが何気なく後ろを振り返る。
「……な、ドアが無い!?」
「えっ?」
周囲はそのまま、玄関だけ白く塗り固められている。
「出られないのか? くそっ!」
壁は固く、出口を完全に封鎖していた。
「そう。あなた達はもう帰れない」
廊下側から少女の声。
『!?』
「はじめてのテストだったから、すごくドキドキしたわ。ふふっ」
白色灯の光の下で、胸に手を当てながらくすくすと笑う少女。その表情からは大胆さが、姿勢と澄んだ声色からは気高さが感じられる。
「君が……」アキラが、やはり見覚えがあるといった表情で叫んだ。「≪オルトロス≫!」
「そのとおり。端末を返すわ、アキラさん」
オルトロスは白いトレンチコートのポケットから一台の携帯端末を取り出し、アキラに手渡した。
彼女はアキラと比べると背が彼の頭一つぶん小さく、やや紺色がかった黒髪のショートヘアがライガの視線と重なる。
「改めまして、私はエキドナ級hIE三番機≪オルトロス≫。これからよろしく、オーナー」
見つめられながら手を差し出されて、ライガは思わず顔を赤くする。あっという間に、同い年か後輩のような見た目の彼女に魅了されてしまった。
「……よろしく」
アキラに見られているのが余計に恥ずかしかった。蚊の鳴くような声を出すのが精いっぱいだ。
握手を交わすと、かすかなぬくもりと、アキラ先輩とは違う、女性的な柔らかい手指を右手いっぱいに感じた。
一瞬、自分の脈拍を彼女のものと誤解しそうになる。hIEには心臓も、ましてその鼓動もないというのに。
茹でダコのように顔を真っ赤にさせるライガを、オルトロスは面白がっているように見えた。
「……お似合いだな」
二人を見てなにか納得したらしいアキラが冷静な顔でうなずく。
「で、帰れないってのはどういうことだ」
「言葉通りよ。ついてきて」
「ん……?」
オルトロスが歩き始め、二人はそれに続いた。
銘板に「職員室」と書かれた部屋の中へ入る。
「えっ!?」
扉の向こう側は職員室の中ではなく、違う場所の廊下だった。
背後の部屋の銘板には「サーバールーム」とあった。
オルトロスがくすくすと笑う。
「ついでだから、見せてあげましょうか」
そう言って中庭の見える窓を一枚コツコツと叩いてみせてから、それを手首のスナップだけで叩き割る。
二人が割れた窓をのぞき込むと、その先も廊下だった。
「なんだよ、これ」
クールな表情をよそおっていたライガの顔も青白い。
「これで分かったでしょ。一度でも道を間違えると、二度と戻れなくなる」
「まさか、出口と入口が違うのか……?」
オルトロスが頷く。
「この場所の地図は私しか持っていないし、多分、あなた達の端末に送るには重すぎるから……。ほら、元気出して。ちょっと歩くだけだから」
オルトロスを水先案内人にして、教室棟へ向かう渡り廊下の扉へ入る。
端から十二番目の窓を開ける。
職員室の扉に入って西側の階段を上る……。
人間の二人は深く考えるのをやめ、モノであるオルトロスに思考を委託する。
「はいっ、着きました」
最後に防火扉をくぐって、二人は異様な光景を目の当たりにした。
「こりゃあ……バラか?」
それは屋上に上がるための階段と金属製のドアに、蔓状に絡み付く青いバラの花だった。床と壁一面に黒いイバラを伸ばし、いくつかの花弁が美しさを競うように咲き誇っている。
手近のバラを手で触って、アキラは怪訝な顔をした。
「これ、造花じゃないのか?」
言われて、ライガもバラに触る。
「あ……本当だ」
確かに、艶のある花弁には水気がない。手触りは紙か布のようだ。
「トゲに注意して。毒だから」
「毒!?」
あわてて、二人は手を下げた。
「そう、毒。今のあなた達にとって、すごく有害なもの」
そう言いながら、オルトロスは階段に伸びたイバラのトゲを厚底のかかとで踏み潰していく。
「開けるわ」
青いバラに支配された電気扉は、意外にもたやすく開いた。オルトロスが先に出て、危険がないことを確かめる。
「屋上が……」
こんなふうに、とライガは独りごちる。
それは青いバラのアーチだった。基礎となる金属製のアーチに蔓を絡ませ、あたかも太い樹木の根のようになっている。
無数のバラがこちらに顔を向けていた。そしてコンクリートの床は、同じ黒いイバラに覆われている。
「私の後ろから離れないようにして」
二人は言われた通り、イバラの毒を無力化するオルトロスを先頭に一列になって青いバラの花園を進む。
この空間も異界化しているようで、屋上にしてはやけに広い。オルトロスも右に左にと、バラを壁にした迷路のように入り組んだ道を通っていく。屋上から外は晴れているはずなのに、このアーチの中は薄暗い。
「……出口だ!」
アーチで覆われた黒いイバラの道を抜けた先はバラも何もない、すべて撤去された廃校の屋上だ。
……いや、≪それ≫はもう目の前にいた。
「ようこそ」ぱらぱらと拍手をして、≪それ≫はライガたちをねぎらう。「随分、遅かったじゃない? ≪オルトロス≫。待っている間に夜が明けるんじゃないかと思ったわ」
「申し訳ありません、≪エキドナ≫。わたし、稼働して間もないものですから」
≪エキドナ≫と呼ばれた女性型のhIEは、くすっと笑った。
その笑い方は少しオルトロスと似ている。
「言い訳にならないわね、それは」
「≪エキドナ≫?」ライガが問いかける。「お前がエキドナ級hIEの一番機なのか」
「えぇ」≪エキドナ≫は頷いて言った。「私がエキドナ級hIE一番機、≪エキドナ≫よ」
腰ほどもある黒い髪が春の風になびいた。彼女が身に着けている青いバラの髪飾りは、まさしく二人が今まで見てきた造花のバラと同じものだ。
今度はアキラが質問する。
「何の目的があって俺たちをここに呼んだか、答えてもらおうか?」
「そうね。何も、この町から無作為に貴方たち二人を選んだわけじゃない」
エキドナは髪飾りに右手を触れ、それをもぎ取った。しかし頭の髪飾りはそのまま、バラが二つに増えた。手品師の小手始めのようだった。
「コレが私のデバイス、≪Blue Roses≫。青いバラの中身は≪人類未到産物≫の小型カメラと量子通信素子」
エキドナが、手に持ったバラをオルトロスに投げやる。花弁だけだったバラにはすでに茎のようなものが伸び、先端は針のように尖っていた。
オルトロスがそれを手のひらで弄ぶと、バラは突然火花を上げて燃え尽きた。
「穿った穴より他に証拠を残さない使い捨てのデバイス。これは、貴方たち人間が持つ模倣子の構造解析と抽出を行う。つまり……貴方たちの『魂』を抜き取るの」
「魂を!?」
エキドナが不敵に笑う。
「貴方たちは、それを眠ったときに見る夢だと認識したはずよ。貴方たちの肉体から剥離させた魂を、私たちエキドナ級はどう使うと思う?」
エキドナはすでに両手いっぱいにバラを増やしている。
オルトロスが目を見開いた。
「オーナー……『許可』を!」
ライガの携帯端末が震える。
慌ててHMDを掛け直すと、それはオルトロスのデバイス使用の許可を求める通知だった。
そのデバイスの名は≪Red Sunflower≫。
「デバイス、起動――!」
「遅いッ!」
ライガがまばたきでそれを許可した刹那、ディーナは茎全体からシナプスのように結びついて一つずつの花束となった二つの≪Blue Roses≫を投げつける。
「クッ!」
両拳を突き合わせたオルトロスが、その指に嵌められていたナックルダスターのようなデバイスを紅く輝かせながら飛び上がり、剣山のような先端を前にして投射された≪Blue Roses≫の横っ腹を蹴る。
ライガに向けて投げつけられた≪Blue Roses≫はこの回し蹴りで軌道を逸らされた。蹴りつけた勢いのまま、オルトロスはアキラへ向けられた花束へパンチングを仕掛ける。
が――――届かない。
「うゥっ!?」
あと僅か数ミリ、オルトロスはエキドナの攻撃を受けて打ち落とされた。
エキドナの履いていたハイヒールが、オルトロスの右わき腹に刺さったのだ。
「オルトロス――」
ライガは足元に転がったオルトロスに気を取られる。
「ぐわぁっ!!」
「先輩!!」
≪Blue Roses≫はすでに拘束を解き、一本一本が散らばりながらアキラの体に突き刺さった。
「残念……いえ、喜ぶべきなのだけど」リモート・コントロールされるハイヒールを左足に戻しながら、エキドナは言った。「この町で、この世界に最も高い適性を持つ二人。それに貴方たちは選ばれたの。時代遅れの人類が特異点を越えるために」
オルトロスに蹴り落とされた≪Blue Roses≫の花束が、不自然に宙へ浮き上がる。
エキドナは、凛とした声音でみずからの枠組みを明らかにする。
「私は、エキドナ。私は≪人間を革新的な未来へ導く≫ための道具」
「あぁ……あ……」
合計十二本の青いバラがアキラの身体へ吸い込まれるように入っていく。全身を震わせ、アキラは悶える。
「……な」
ライガは突如、金縛りを受けたように体を動かせなくなった。
エキドナの視線から、目を逸らすことができない。
「………………私は」
オルトロスは立ち上がり、着ていた白いトレンチコートを脱いだ。
hIEの動きを阻害しない、タイトなボディスーツが露わになる。
「私は……オルトロス」
オルトロスは、再び両拳を胸の前で突き合わせる。
銀色のボディスーツに、紅色の光が血のようにはしる。
両手と足首の計四箇所に接続された≪Red Sunflower≫が艶容に光り輝いた。
「私は≪人間の脅威を取り除く≫ための道具」
エキドナが、右手を挙げる。
束ねられた≪Blue Roses≫の茎が、細長く引き絞られる。
「オーナー。私は……」
ぱちん。
エキドナの合図と同時に、≪Blue Roses≫の槍がライガに向けて放たれる。
HMDに文字が浮かび上がる。
〈私は、あなたの盾であり〉
ライガの前に立ったオルトロスが、己の右拳に≪Blue Roses≫を引き付ける。
〈矛、そのものとなる〉
拳を突き出す。
≪Red Sunflower≫と≪Blue Roses≫が激突する。鋼のかちあうような、鈍い金属音が響いた。
オルトロスは、難なく右腕を振り抜いた。
ボンッ、と≪Blue Roses≫が槍の先から根本へ、紅い炎を上げて燃え上がった。
四散した造花の青い花弁が、ライガとオルトロスの周りで舞った。
「上出来よ、オルトロス」ライガたちに背を向けて、エキドナは言う。「私のオーナーから連絡があったわ。貴女たちの実地試験は、後日行えとね」
二人を尻目に、くす、とエキドナが笑った。
「私、帰るわ。あとは貴女の好きなようになさい」
そしてエキドナは、ライガたちの視界から姿を消した。
「消えた……!?」
「私達も、戻りましょう。オーナー」
接続を解除します、とオルトロスが呟くと、屋上も、眼下に広がる町の風景も、なにもかもがぐにゃりと歪んだ。
「な――!?」
「目を閉じて」
そのようにする。エレベーターに乗った時のような浮遊感が、またやってきた。
上がっている? 下がっている? それとも、その中間で浮いているのか。
ひとところで、ぐるぐると回転しているような錯覚。ひどく奇妙ながら、それを深く考えられるような間は無かった。
「んぅ……」
浮遊感が消える。
寝起きの、全身の感触が戻ってくる感覚を覚える。
立っているのではなく、地面に横たわっていることに気がつく。
ライガは屋上の床に仰向けになって寝転がっていた。
辺りには小鳥のさえずり。空は白い雲の中に青空を覗かせていた。
「大丈夫ですか?」
やや遠くからオルトロスの声。
「オルトロス……」ゆるみかかった思考を、みずから遮る叫び。「先輩は!?」
オルトロスはアキラの上に覆いかぶさっていた。
「先輩!!」
一も二もなく、倒れているアキラに駆け寄る。
「先ぱ……い?」
ライガは凍りついたように身を固くした。
一瞬、ほんの一瞬だが、それがかつて先輩と慕った人間なのかと我が目を疑った。
ジッパーが開かれ、肌が露わになったライダースーツの胸元、その巨きな膨らみの間にオルトロスは手を置き、心臓マッサージを行っていた。
「救命処置を継続中です。すでに救急車を呼んでいますから、まず落ち着いてください」
「お……お前…………」
オルトロスの口調がやけに丁寧なことにライガは違和感を感じた。
今のオルトロスは緊急時の救急救命クラウドサービスと契約していて、そちらの行動制御クラウドに従って意識を失っているアキラに適切な処置を施している。一刻を争う事態に人間よりも素早く的確に対処できるから、hIEは二十二世紀の世界中に広まった。
そう頭で理解していても、それ以上に理解できない現状があった。
「あ……」
オルトロスが、やおらアキラに口付ける。
「……っ」
人工呼吸だとわかっていても、なぜだかそれが少しばかり性的に見えてしまって目を逸らす。
アキラの身体に密着したライダースーツが、衝撃吸収材の上からでも肉感のある曲線を描いていることに気がついてしまった。
オルトロスが顔をライガに向ける。
「落ち着いてください」
立っていられなくなった。
座り込んだライガの視線は、アキラの髪の毛に向いた。
彼の肩ほどに伸びた黒い髪が床に乱れている。
目を閉じていて、オルトロスに口付けられるアキラの顔に数分前までのアキラの面影はない。
桜貝のようなピンク色のくちびると、日本人らしさのない彫りのある目鼻立ち。
やや長く、切りそろえられていない前髪が、アキラに『女性』というかたちを固着させていた。
また、オルトロスと目が合った。
「あ…………」
その顔は、今のアキラの顔をひとまわり幼くしたものに見えた。
「せん……先輩…………」
顔をくしゃくしゃにしたライガの耳に、遠く救急車のサイレンが聞こえた。