Ⅲ ディスクをB面にセットしてください その③
木製の階段を踏みしめていく。
急ぐでもなく、かと言って心は落ち着かず、一段一段と足元を確かめるようにライガは階段を登った。
二階に上がり、部屋の扉を開けようとドアノブに手を当てたとき、ライガは自分の手が震えていることに気がついた。途端、全身が震えた。無意識のうちに口で呼吸をしていた。
小学生の頃にした学芸会の劇のことを思い出した。今まさに、自分はありふれた真夜中の一場面を演じ終わって、いつもの部屋へと帰ってきたのだ。
「水……」
ドアを開けつつ、後ろ髪を引かれるように振り返って下り階段を見た。
「水が飲みたいな……」
だが、そんな生理的欲求を嫌悪感がはねのける。ツバを飲み込みながら部屋に足を踏み入れた。
ゴーグル型の端末から位置情報サービスを繋いで、ライガの今いる場所の地図に赤い光点が点滅しているのを見ながら彼は部屋の窓を開けた。
路端に見慣れた四輪駆動の全自動車が停まっている。七峰家の塀に横付けされた車とライガの間は直線距離で三メートルもない。
室内競技用の運動靴を履くライガの顔は不安に歪んでいた。
「これで、いいんだよな……?」
ライガはまず最初に部屋から庭へ降りる前に、家内システムを使って家の車庫から全自動車を今の位置に置いた。サクラがカメラを取りに行くタイミングで車が家の横を通過していくのを見た後、ライガは思わず声を上げた。軒先にhiEの視界を補助するための簡易的な監視カメラが取り付けられていた。それがあるならサクラの視界が広くて当然だった。路上の鉄柱がどうのと博識ぶって講釈を垂れた自分が恥ずかしくなった。
「本っ当、情けない……」
彼にも思春期に特有の、誰も知らないことを自分だけが知っているというような思い上がった考えがあった。しかし家のセキュリティがどのようにして守られているかなど何一つ知らなかったのである。そのことがひどく彼の自尊心にこたえた。靴紐を結んで、窓の前に立った。
もう四月も半ば、しかしまだ夜の空気は冷たい。窓枠の上に立ち、ライガは視線の先にある全自動車までの距離を目算していた。
言うまでもなく怖い。道路に飛び降りるために全自動車をクッションにするなどという、古臭い度胸試しのようなことをして足でもくじけばアホウだと言われても仕方のないことだとライガは思った。
この窓の先は周囲に監視カメラのないエリアだからライガの行いを見る者は居ないはずだった。だがそれと二階の窓から飛び降りることとはなんの因果関係もなく、なぜそうしなければならないのか聞きたいのはライガの方だ。
あれこれ考える時間ならいくらでもあった。まるで世界中が彼ひとりの選択のためだけに静止しているようで、事実その通りだった。電波時計がまるでストップウォッチのように固まり、彼が窓から飛び出すその瞬間を待ち構えていた。
慎重に、何度となく頭の中で落ち方をシミュレイトした。そのうち何割かの失敗したケースは棄てて、成功する軌跡だけを思い描いた。そしてその曲芸を今から自分がやるのだと思うと、いやでも心臓が太鼓かドラムロールのように鳴り響き緊張を呼び込む。
飛び降りるのに最適なタイミングがあるとすれば、この緊張の糸が緩むでも張り詰めて切れるでもなく、最適の伸び加減を示したときだとライガは思った。この場で最高のパフォーマンスをするには、その見事に伸び切った糸を自分から断たねばならないのだ、と。
それは、
「いつだ?」
わからなかった。しかし迷えば迷うほど信念は揺らぐ。迷いを振り切った先にそれはあるのだと理解したとき、ライガは中空にその身を飛び込ませていた。
なにもない空白のような感覚がふっと全身を支配した。それが無重力なのだという学びが若い頭脳に届くよりも先に、万物に及ぶ地球の重力がライガの腰を抱えて地面へと叩き付けようとする。
ライガは、ぐっと我慢した。自分を使って物理の実験をする羽目になった不条理を、しくじるかもしれないという不安と死の妄想を。そして改めて人道的倫理観に立ち返ったとき、自分が如何に無茶な振る舞いをしているかわかっているのかと指弾する見えざる神の人差し指を、全部まとめてオトコノコという前時代的なジェンダー論で押し潰した。
果たして、腰も抜かさず見事に飛び降りてみせた。ばくばくと心臓を高鳴らせて、ライガは全自動車の上でしゃがみこんだ。自分のいのちを抱き締めるように。
「やったぞ」
そう小さく声に出してつぶやくと、不思議な万能感が得られた。しかし急に自分の体がひどく重くなった気がした。がんがんと頭痛もする。しばらくの間しゃがんでいると、少しだけ楽になった。あれだけの怖い思いから抜け出せたので、頭が疲れたのだろうと思った。
辺りを注意深く確かめながらそろりと車上から降りて、全自動車のスライドドアを開いた。馴染みのシートに体を預けると、わけもなく安心する。
「夜海中学校へ」
感圧式デバイスに指を突っ込みながら目的地を告げると、ライガの声を認識した全自動車が動き出す。音を立てず静かに進む全自動車が、壮絶な緊張感から解き放たれたライガの心との間に奇妙な齟齬を生んだ。
ライガを載せた全自動車が去っていった道端に、青いバラが咲いていた。
生物らしい艶がない、造花のバラのようだった。
突然、ぽん、という小さな音がした。バラがめしべのあたりから小さく発火して、あっという間にすべて燃え尽きてしまうと、あとには舗装材に空けられた穴だけが残った。