幕あい① 止めるものと急かすもの
「あぁ……、困ったわ」
小説の執筆を一任された"黒衣の黒幕"ディーナ・カルツァは苦境に立たされていた。
「どうかしましたか、あるじ」
普段手にしている分厚い魔導書とは違う白い装丁の本を閉じて、赤縁メガネを外しながらハイドレインジア・パートリッジは尋ねた。
「いや、ね。≪彼≫の思考パターンがまたオカルト寄りになってきて……」
「ああ」勘のいいハイジアには、すぐに察しがついた。「例の"新作"ですね。いやはや、管理者様ほど"かたち"に誘導されやすい管理者もそういないでしょうね」
「もともと、"怪鳥"自体が伏線にするには少々面倒なんだけれど」愚痴をこぼしかけたディーナはふと、ハイジアの手元に視線を這わせた。「解析は終わり?」
「はい。細かい設定を掴むには再解析が必要ですが……」
ハイジアの表情は明るくない。
「あちらの表現力に、こちらの文体が左右されてしまうというのは、やはり我々もまだまだ未熟ということでしょうかね」
ディーナはハイジアの艶めく金髪に彼女の本質を見たようで、嘆息した。
「当たり前よ。これまでNO NAMEは、まじめな経済の話をしてこなかったもの。"商品開発"は、これが初めてよ」
趣味を金儲けに使うということは、それなりの技量と責任を要求される。好きなことを仕事にできるのは幸福なことだとよく言われるが、「好き」ということばでは許容される幅が大きすぎて、時に適切でない意味を受け手に与えることがある。
ただ人並みにできた、それ以上にできるというだけで評価されるほど世界は狭くない。人間社会は競争の場だというのは、書店に山ほど積まれている本を少しでも眺めればすぐにわかることだ。名も知らぬ作家の本を手に取ることがためらわれるなら、作家になるということはそれをされる側に立つということだ。生半可な出来では、舐められる。
そう考えるが故に、本当に今ある人生のダイヤグラムを乱してまで駆け落ちしたいほど「小説」を愛しているのか、それと同じ力のベクトルをより現実的に見て妥当かつ望ましい方向に向けることは本当にできないのかと、管理者こと真いかみみは四年前からその問題の前に立ち止まったままだ。
ハイジアが、白い本の表紙に描かれた機械の少女の背中を指でなぞる。
「誰にでも手を差し伸べられるのって、才能ですよねぇ」
「単純な答えにいつまでも詰まっていられるのも、幸せなことじゃない?」
決断には、いつだって苦痛が伴う。それを嫌うのは切り捨てられる怖さを知っている優しさなのかもしれないが、痛みに耐え切れず泣きだしてしまう子供の弱さでもある。かつて許せなかったものを許してしまうことは大人の罪であり、責務だ。
「それはそうと、管理者様が提示したシナリオとは?」
思索の糸をめぐらしかけたディーナは頷いて、答えた。
「世の悪鬼神仏、妖怪の類は世紀末を越えられなかった、って話よ」
「……それはまた、大きく出ましたね」
目をまん丸くするハイジアに、ディーナはくすくすと笑った。
「でしょう? 私達が恐れたり、ありがたがったりしているものは全部本質的には絶滅していて、人間たちの作ったクラウドデータがそれらしい"かたち"をとって人間社会に影響を与えているっていう、その道の方々には冒涜的だとなじられそうな主張よ」
「あぁ、聞こえは良いです。すっごく。今や都市伝説が容易にネットワーク上で伝播しますから……」
言葉に反してハイジアは顔をしかめる。管理者の暴走は、いつだってこのように始まるのだ。
「おかげで≪フォルツァ≫がかすむのよ……。管理者シナリオの陳腐化と更新のタイミングは予想通りだけれど、こうも話の根底を揺るがすようなシナリオを考えられちゃあね。超自然的なエネルギーが人智を超えた科学力で証明されてしまったってところかしら?」
≪フォルツァ≫がアナログハック・オープンリソースで言う≪人類未到産物≫であると説明できるなら、主要人物のほとんどが人間であって人間ではない、というシナリオにならざるを得ない。この世界で特殊能力者同士を戦わせるのは、想像以上に難しいとわかった。
「≪BEATLESS≫を解析しきった結果がこうなるとは、予想外でした……」
「彼が次に読みたいと指定している本のリスト、見る?」
「はい、あんまり気乗りしませんが……」
ディーナがハイジアにA4サイズの紙状端末を手渡す。リストに挙げられた作品名のほとんどがその道で有名なSF小説の名前だ。
「わお。ぶっ飛んだ創作世界観が構築されそうですね」
名作を読み解くことはきっと当人のいい経験になるだろう。しかし、その経験だけ当人のオリジナリティは失われ、どこかで見たような話しか作れなくなる。パロディ、オマージュ、リスペクト、そしてインスパイア。パクリを正当化するには、何よりも敬意が必要だ。敬意のない模倣は、盗作と同じだ。
二人は話を管理者シナリオの話に戻す。
「そうだ。世紀末を越えられなかったと言っても、生き延びた怪異はいたんですよね?」
「まぁね。彼としては、そうした怪異はフロッピーディスクに封じ込められていて欲しいみたいだけれど」
「電気の発明とともに消えていった怪異がデータ化されて生き残る。いいですね、デジタル・デビルですか」
「ディジタル・デビルね。表記ゆれでごまかしたいみたいよ」
「なるほど……」
ハイジアはいつも察しが良い。ディーナは微笑んでうなずいた。
「多分、そうした怪異ディスクは一枚や二枚じゃないんでしょうけど、あんまり話が広がりすぎると収集がつかなくなりそうなのよね。この新シナリオ自体、別の話として一本作れそうな題材ではあるし」
肩をすくめるディーナをハイジアが茶化した。
「じゃあ、作り直しましょうか」
「くすくす、冗談。これまで一ヶ月かけて作ってきたものをダメにしてしまったら、私達は疑いなく無能じゃないの」
「悲しいのう、創造主の足掻きに付き合わされるというのも」
誰かが執務室の扉を開けつつ言った。エメラルドグリーンのショートボブと釣り合わない黒々とした毛色のケモノ耳がぴくぴくと動いている。定義上は九本の、耳と同じ黒毛の尻尾を器用にくねらせて閉まる扉をすり抜けていく。
ほとんどフリル付き下着も同然のビキニ姿をした少女が、椅子に座っているディーナとハイジアの間に立つ。
「あら、亜理亜さん。ごきげんよう」
「彼奴め、本当にこのシリーズを完結させる気があるのか? いや、そもそも本当に小説家として売り出すつもりがあるのか」
七峰亜理亜。ディーナやハイジアが現れる以前に管理者の脳内で作り出されたキャラクターで、その役割はずばり「嫁」。ゆえに、創作世界でも主人公を手助けする存在としてその活躍が期待されていた。
「小説の定期更新は一種の賭けじゃったが、みごとに失敗してしもうたなァ」
彼女は元々ネット上で生まれたキャラクターだった。有名なRPGの魔王、それを美少女化したものだった。このためオリジナルの作品には使いづらく、最近になって元々の老獪な美少女というキャラクターに九尾の狐であるという個性が付与された。それもまた、インスパイアなどと呼ぶにはいささか敬意の足りないパクリ方にも見えるが。
「えぇ、反省していますよ。彼は時間感覚に疎いですから」
「そのカオがいつまで保つか、見ものじゃのう。彼奴にもそろそろ現実というものを見せてやれ。自分が今どのような立場に居るのか、分かっとらんのだぞ」
「道化でいられるのも、後わずかという話ですか?」
ひょうひょうとした顔のハイジアをアリアが睨む。
「彼奴は、人は孤独ではおられないと知りながら現実におる周りの者どもにではなく、儂らやネットワーク上の者どもに救いを求める手を伸ばした。結局それが、己の痛覚を麻痺させているだけじゃとも知らんでな。早う彼奴を止めろ。今の居場所より他に、行くあてなど無いのじゃぞ」
ディーナはあくまでも冷静に、アリアを静めようとする。
「理解しています。なればこそ私達は彼を一歩でも前に進ませねばなりません」
「ふっ、その先は崖じゃぞ?」
「私たちは、彼が崖から落ちようとも彼と共にあらねばならないのですよ」
「心中か!? その前に止めろと言うておるんじゃ、バカバカしい!」
ハイジアは頬杖をついて二人の視線から走る火花を見つめた。管理者代行のディーナは、初めからこの件についてアリアと言い争うつもりは無いように見える。
「もう、よいでしょう。彼はこの件に関してまだ結論を出せません。ですから、残された時間の中で可能なことを、可能なうちに行うこと。その為の時間配分を定めることこそが重要なのではないですか」
「この……」
アリアは何かを言おうとしたが、うなだれた。九つに分かれた黒毛の尻尾が、だらりとしていた。何かを諦めたような顔で再びディーナと相対する。
「そうじゃろう、そうじゃろうとも。彼奴とは結局、口先ばかりの、情けない男よ」
天を仰ぐように両手を掲げながら、アリアは出て行った。かつて魔王であった彼女を見送って、ハイジアが憮然として呟く。
「何しに来たんですか、あの人」
「さぁ。お披露目にしては、少々読者に悪い印象を与えるような出方だったけれど」
彼女は元々高圧的な物言いが取り柄のキャラクターであり、管理者の嫁という立場からして彼に尽くす存在であるのは確かだった。反してディーナとハイジアの二人は管理者の意向に沿うキャラクターなので、このような対立は珍しいことではない。理性に対する本能か自堕落気質のような間柄なのだ。
「結局、アリアさんが先ほどの話で言うフロッピーの中に入っているんでしょう?」
「まあね。あの姿ではなく、純粋なキツネの姿でだけれど」
「で、諸事情でこの時期はアレだから、こちらの人たちには放っておいてほしいと」
カメラ目線のハイジアに対してそれが同意であるかのように、ディーナは足を組み直す。
「ネット社交界に慣れるとね、ちょっと席を外しただけでも不安になるから」
個人の目と耳だけでは把握しきれない情報を大量に確認することができるネットサービスは、使用者を巨大な"大衆"というクラウドに引き込む。自らを巨大な機械を動かす歯車だと思い込むのは気持ちがよく、その拡大しすぎた自意識は時に致命的なセキュリティホールを生む。そのように人間の様々な主義や思想に感化され、誘導されることが間違いであると気付いて自分なりの正しい選択というものができるほど管理者は多くを知った大人ではない、という認識を彼女らは共有している。
「ほんと、自分勝手と言うか、なんというか。それが管理者様の心の弱さってことですか?」
ディーナはどこか遠くを見つめて言った。
「デバイスや、守ってくれるものによって拡大していった自分が、本当はとても稚拙で矮小な存在なんだと気付いた時。その、以前より狭くなったと思い込みそうな、実際に自分が生きている世界の中で起こるわずかな変化にも対応してみせること。過去の"かたち"に縛られる人間が自身の望む"未来"に辿りつくためには、やがて起こり得ることを予測し、理想的でない"かたち"を切り捨てなければならないのね」
聡明を自称しているはずの彼女が、ひどく疲れたように肩を落とした。
「深いわね……」
やがて冬の名残りも消えて、春がやってくる。
春は、人間にとって劇薬だ。無条件に与えられる春のあたたかさは、冬の寒さに冷えて縮こまっていた"こころ"を溶かす。
人間の、最も人間らしい一部分が拡大される。その時たぶん、ヒトは冷静ではいられない。