Ⅲ ディスクをB面にセットしてください
ぞくっとするほど美しい満月が夜空を照らす珍しい夜だった。つんと耳が痛くなるほど静かな暗闇に浮かぶ青白い月を七峰来駕は家の軒先から眺めていた。その表情は、この月のように明るくはない。この美しい月もやがて沈むということを彼は知っているからだ。
「……明日も学校なんだよなあ」
春眠暁を覚えずとは言うが、寝るに寝られぬ日というのはあるものだ。しかし、だからと言って眠らなければ明け方になって苦労するのは自分だ。携帯端末と同期できる光学ゴーグルに映し出される時間は刻一刻と夜明けが近づくのを知らせていて、むろんライガが寝るに適したタイミングなど教えてはくれなかった。
耳慣れたリズムの足音がそっと彼の左耳に近づく。
「まだ起きていらしたのですか? 朝がつらくなりますよ」
「サクラ……」ライガは目の前の女性がなにか誤解をしているように思って言い訳を始めた。「いや、今起きたから。ずっと起きてたわけじゃあ……」
「どちらも同じですよ」《サクラ》と呼ばれた中年の女性が腰に両手を当てて非難のポーズをとる。「こちらで何をしていらしたの? サクラにお聞かせください」
「月を見てたんだよ。ほら、ちょうど晴れてるしさ」
「あら、そうでしたか。……まぁ、すてき」
hIEにものの価値がわかるのか、とふとライガは《サクラ》に良からぬ感情を抱いた。
hIE――humanoid Interface Elementsと呼ばれる人間型ロボットは、端的に言えば人間の動きをまねることで人間の手助けをするロボットだ。今も、ライガが深夜に部屋を抜け出したので駐機状態が解除されてこちらに確認をしに来たのだろう。彼女にはスリープモードがあっても眠ることはない。
七峰家の人間は、hIEと人間との線引きをしっかり付けることを家訓のようにしてきた。といってもhIEの登場はせいぜい一世代ほど前だが、二十一世紀初頭に起きた通信技術の急激な発達が人間関係の希薄化を生んだように、hIEの存在を快く思わない人間たちの起こす物理的な排斥運動は大きな社会問題となりつつある。七峰家はそうした時代の流れを汲みながら、便利な文明の利器に甘んじないという少々時代錯誤的な心がけを持つようにしていた。
「どれだけ携帯端末を使っても、携帯端末に使われるような人間にはなるな」とは父来幸の至言である。そう言いつけられて受け取った箱からこの光学ゴーグルと携帯端末を手に取った興奮の一日は、まるで昨日のことのように思い出せる。hIEにそのような可塑性のある"こころ"はない。けれど、ライガはそんなことを口にするほど皮肉屋ではなかった。
「……な。綺麗だろ」
「ええ。写真に撮っておきましょうか」
「よろしくどうぞ。……俺も?」
「こんなにすてきな景色を独り占めするのは良くありませんからね」
そう言ってサクラはディジタルカメラを取りに行った。わざわざ家族写真用のを、とライガは遠ざかる彼女の背中を目で追いながら独りごちる。精度を求めなければ携帯端末のカメラでも十分なのだが。
「……夜更かしの証拠写真ってわけだ」
そう思うと急に縁側の居心地が悪くなった。このようにhIEや"ヒトのかたちをしたモノ"によって人間の意識が操作されてしまうことをアナログハックという。ライガ自身それを知らないではなかった。どうしたものかと目で月に問いかけた。
「風が出てきたな……」
月は、代わりに強い風を寄越した。春とはいえ、夜風は冷たい。早く寝ろということかと思い込みながらふっと月から目を離すと、ある一点にライガの目は釘付けになった。
「なんだ、あれは!?」
この鳥取県で高空を飛ぶものといえば、航空機を除けばトンビかタカかといったものだ。しかし「あれ」はそれら野鳥が小鳥の雛に思えるような大きさで、明るい夜空を悠々と飛んでいた。強風は明らかにその"怪鳥"の羽ばたきによるものだった。
月の光に照らされて、怪鳥の白金のような体は玉のごとく光輝いて見える。強風に混じって風を切る音がライガの耳にも伝わってきた。
「どんどん降りていくぞ……」
ライガは思い出したように携帯端末のカメラで怪鳥の姿を撮影する。その降下予測地点に目がいったとき、ライガは胃がきゅっと縮むのを感じた。
サクラが無骨な一眼レフの入ったケースを手にしずしずと歩み寄って来た。
「カメラをお持ちしました。……ライガさん?」
今やライガは室内用スリッパのまま庭の土を踏んでいた。
「あっ……うわ!!」
白金の怪鳥は小高い丘にある、現在は廃校になった中学校に降り立った。築百年を超えるコンクリート製の校舎が紙細工のように潰されていく。その光景からわずかに遅れて、ずしんとした音が地響きとともに数キロ先の七峰家をコトコトと揺らした。
怪鳥が月夜に吼えた。
フルートを勢いよく吹き散らかしたような音が、紺色の空を鏑矢の如く突き抜けていった。
「サクラ。質問したいんだけど」
「はい。なんですか?」
先の地響きから地震を想定したらしく、塀や家屋が崩れてこない安全な位置にライガを誘導しつつサクラは優しく微笑んだ。
「……か、怪獣が出た時ってどうするんだ!?」
「基本的には動物園からサルなどが逃げ出した時と同じ対応が取られます」
サクラ先生は大真面目な顔で答える。
「警察は遺失物、すなわち落し物として持ち主がいるものと考えて行動します。もしも怪獣が放射能を持っていた場合、経済産業省の原子力安全・保安院が対応しますが」ふふっと笑って締めくくった。「まあ、いませんよ。怪獣なんて」
「いるんだよなあ、それが………………!?」
確認のためにもう一度廃校のあったところを目にしたとき、ライガは我が目を疑った。
「いねぇ!?」
ライガの目測からざっと三、四階建てのビルより高いかという怪鳥は、がれきと化した丘上の校舎から忽然と姿を消していた。
呆然としていると、背後からパシャリとシャッター音がした。
「ふふ。良い写真が撮れました」
「そんな場合じゃないんだって」
自分の頭がおかしくなったのかと、携帯端末で撮った映像データを再生すると怪鳥が空を飛び廃校に着地して、サクラに避難誘導を受けて録画を止めるまでの一部始終がしっかり記録されていた。ライガの目がサクラに向いている間も携帯端末のカメラはしっかり怪鳥の動向を捉えており、動画のある時を境にふっと掻き消えているのがわかった。立体映像が消える時のそれにも似ていたが、あれが立体映像ならば日本の怪獣特撮もまだ捨てたものではない。
動画を見終わって携帯端末をポケットにしまいながらライガは思った。サクラはhIEであるからこの映像を見せたところで今の自分に納得のいく反応しか返さないだろう。すなわち驚くか、なだめるか。それでは自分の作ったマンガを見せて褒められるのと同じだ。
「海中がさ、ほら。崩れてんの」
「あら……本当に」
「地震じゃないね?」
「この数時間で地震とみられるデータは観測されていません」
「台風じゃないね?」
「今日は北西から風速二メートルの風が吹いています」
明らかに狼狽しているライガに対してサクラはにこやかに言った。
「いちど深呼吸しましょう」
吸って。
吐いて。
吸って。
吐いて。
吸って。
吐いて。
「はい。もう大丈夫ですよ」
「うん……」
サクラの助力もあって、ライガはどうにか正気を取り戻した。家の周りを見ると、点々と明かりが点いていて先ほどの騒音は何事かと外に出てくる人もある。ちょっとしたパニックが起き始めていた。
「……消えたってことかな」
あれだけの巨体を隠せる場所がこの地域にあるかというと、無い。ひとまず当面の脅威は去ったと考えても問題ないはずだ、とライガは言葉で不安定な心を納得させた。
「ほら、もう寝ませんと」
サクラがいたわるようにライガの体に手を触れる。気付けばすっかり体が冷えていた。サクラの手のぬくもりが夢の終わりを感じさせた。
「じゃあ、寝るか」
ライガは大きく息をついて、月を見やった。青白い月は下界の騒ぎなど些末なことのように、夜の世界を支配していた。心の中で別れを告げてサクラに向き直る。
「おやすみ」
「はい、おやすみなさい」
サクラの目礼になにやらうんうんと頷いて、ライガはその場を後にした。
「……寝れない」
あれだけのことがあってすぐに寝ろというのもどだい無理な話だ。布団に入っても外のことが気にかかった。しかし、撮った映像を何度も見返すにつれてベッドに身を横たえる安心感がライガのまぶたを押し下げていく。
「………………」
ふと、ライガは映像の中の怪鳥に不確かな既視感を覚えた。
しかし、それを思い起こすより早く枕に頭を沈めてしまった。