Ⅰ 七峰らいがは何者でもない
これはある青年が敗北を知り、夢を希望を失ってから始まる再生の物語である。
光の向こう側に歩く二つの人影がある。
淡いピンクと金色の髪、それは確かに見覚えのある二人の姿で。
彼女らを追いかける自分という内容の夢。自分はそのシナリオの中でいつも同じ役割を繰り返す。
すなわち、
「行かないでください。どうか行かないでください」
自分は泣きながら脇目もふらず駆け出すけれども、夢だからなのか水の中をかきわけるような鈍い速度にしかならない。
もがいているうちに二人は点のように小さくなって消えていく。
「行かないで…………お姉様…………!」
必死の叫び声もきっと届くまい。
そうこうしているうちに目の前の光も徐々に明るさを失っていく。
それは一生に一度あるかないかの無念が夢となって自分の脳に強く刻まれたものだから。
後に残るのは嫌な空気の間と、それが闇だとわかる限界の暗さのセカイだけ。
直感的に悪い予感が背中を走る。
ぬるっとした生温かい半液体のような触手が束になって背後から全身を撫ぜる。
「ぁ────嫌────駄目だ」
このままでは引きずり込まれてしまう、と触手を伝わる力の向きで察する。
それは絶望が形になって現れたかのような、屈辱そのものを与える蠕動で肌をねぶる。
「たすけて………………誰か、助けて」
消え入るような悲鳴を言葉にして口から漏らす。
繰り返される同じ夢の中で、何度同じせりふを発したかもう覚えていないけれど、この恐怖だけは何度再演してもひとつひとつ新鮮だ。
このままでは自分によくないことが起こる。それなのに誰も助けてはくれない。
なぜ自分だけがこんな辱めを受けるのだろう。何か悪いことをしたのだろうか。
きっと自分勝手な想像力の中では理解しえない理屈がこの闇の中で働いているのだ。
「あ」
突然ひゅっと重力の体感がなくなる。どこか一方に引っ張られる。落ちていく。
何処へ? きっと、落ちてはならないところへ。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。夢なら早く覚めろと眼窩に意識を全力で傾ける。
が、夢は夢でありながらここで覚めることを良しとしない。
この夢はただの夢ではなく、魔力で編まれた心象風景を脳内に現世化する魔法だ。砕いて言えば、頭の中の地獄だ。それは人間が人間である以上避けて通ることはできないし、もちろん見て見ぬふりもできない。直視し、ただただ身をすくめ震え上がることしかできない。
そして、気持ち悪い触手はどこかにいなくなる。
よう、お前も来たのか。地獄の住人はそんな気安さで新入りを歓迎する。調子どうだ、意外と早かったんじゃないか。
「黙れっ」
こんなところになんか居られるか。自分はあの二人を追って天国に行くはずだったんだと、恥も外聞もかなぐり捨てて泣きわめく。
やれやれ、と地獄の住人は肩をすくめて言う。最初は誰しもそう言うんだぜ。オレは天国行きに決まってるってな。
ここはいわゆる血の池地獄らしかった。というのも、暗すぎて池も何もかも真っ黒に見えるからだ。だから実際には地獄の住人の声はすれども顔はわからない。ここでは日の光を望めそうもない。
自分は池の水をざぶざぶかきわけて声の主の顔を拝んでやる。
それはおそらく自分の本当の顔で、口にひげが生えていて、張りのない、変にニヤけた顔が自分の内心を見透かすように見えて、夢なのに? いや夢だからなのか、普段は理解できないことを理解してしまって地獄に落ちた男はここで半狂乱になってただただ叫ぶ。
「あぁ──────ぁ──────ぎゃああああ────────あぁ」
青年はかつて魔法少女だった────今でもまだ魔法少女かもしれない。しかし過去と現在ではまるで違ってしまった。こうした悪夢もそのひとつだ。
悪夢は見せたいものを一通り見せ終わると、朝を連れてくる。




