③ 二兎を追うネコ(後編)
この物語はフィクションです。
「なんだか楽しそうですね。私も混ぜていただいて構いませんか?」
急に、扉を開ける音もなく現れたのは銀縁眼鏡の少女だった。肩まで垂らした金糸のような髪、宝石を嵌めたような青い瞳の彼女が日本語で話しかけてくることが、束の間ぼくの脳を驚かせる。
「あ――部員さんですか」
「ん?」少女はきょとんとした顔で言う。「ああ……部員といえば部員ですが――」
「離れろ舞花ッ!」SADさんが机を踏み台にして大声を上げながら少女に飛び掛かる。「防壁が破られた!?」
「おっと」
少女はハードカバーの分厚い本を片手で軽々と振るってSADさんの初撃を弾く。
ぼくにはその下から上に振り上げられた本からSADさんの身体に対して不自然な力学が働いたように見えた。彼女は空中でくるりと仰向けの体勢にひっくり返ると、少女が本を振り下ろすと同時に机の角へ腰をしたたかに打ち付けた。
「ッ――」
SADさんの顔が苦悶に歪む。
「はいそうです防壁の破り方は今から約三週間ぐらい前に分かってました。つまり我々放送部は貴方がたのためにわざわざ三週間も待ってあげたんですが、その間リアクションがぜんぜんなかったんでー、これはまぁ手番がもうこちらに移ったのかなーと思いましてー、今回このような形で攻撃に参った次第です」
そう淀みなく言い切る声は、まるで朝の小鳥がさえずるような澄んだ響きだった。
「あ、ご挨拶遅れまして申し訳ございません。ワタクシ承南高校放送部より参りました、ハイドレインジア・パートリッジです。以後お見知りおきを」
「ちィッ――――」
起き上がってまだ戦おうとするSADさんを本でいなしながら、
「え。もしかして、まだお分かりいただけないのですか? これは我々からの、謂わば『警告』なのですが」
この三週間いったいなにを手間取っていたのです? と肩をすくめた少女は敵意を煽る。
「ライト文芸部部長、さんしゅうかん。貴方が『新作小説のプロットがある』と言い出して三週間が経ったのですよ。だというのに、貴方はその新作小説とやらの一ページも書いておられない。それどころか新入部員との言葉遊びにうつつをぬかしておられる。これはライト文芸部として由々しき事態だとは思いませんか?」
「黙れ」ようやく動きを止めたSADさんが唸るように言う。「放送部如きが編集者の真似事か? わたしを急がせたいならさっさと本題を言え」
それもそうですね、と言いながら少女は本を開き、ページをぱらぱらとめくってあるところで止める。そして左の手で眼鏡を触りながら、
「ライト文芸部部長、貴方はそこの彼、舞花旺時の身柄を不当に拘束していますよね。そもそも彼は我らが放送部の部員なのですから、即時こちらに引き渡すようにと放送部部長から要請が出ています」
「なにを――」
何を言っているのか、わからないのはぼくも同じだった。SADさんを完全に翻弄していた金髪の少女ハイドレインジアは、要するにぼくを放送部に連れていく為にこの部室へ来たのだ。しかし、ぼくには放送部とのつながりは何もないはずだ。
「どういうことですか……?」
「いやどういうこともなにも、舞花さんはうちの部員なんですってば。決闘をしたでしょう?」
そう言うと両手の人差し指と親指を使って拳銃のまねをする。ばんばん、と擬態語も使う。
「決闘……」
突然目の前に現れたもう一人の自分にわけもわからないまま拳銃の引き金を引いた、あの気味の悪い瞬間がぼくの脳裏によみがえった。
「正当な決闘の結果を歪めるつもりか……あれはライト文芸部の勝ちだ」
「いやいや、結果を歪めたのはそっちですよ」ハイドレインジアはやれやれ、と言わんばかりに両掌を挙げて言う。「放送部員として勝利した彼を貴方が不当に拘束した。我々はそれを事実として申し上げているのです」
「舞花、こいつを撃て」
「え?」
「話にならん。おまえの銃でこいつを撃て。この場から退場させるんだ」
「ああ……できるでしょうね、その銃なら」
先刻まで笑みを浮かべていたハイドレインジアの目つきが急に鋭くなる。口の端は半月の形に持ち上げたまま。
「でも、仮に撃てたとして当てられると思います? 舞花さん。貴方は昨日まで平凡な高校生だったのですよ。そんな貴方が私のような女の子を素知らぬ顔で撃てるような血も涙もない人だとは、思いたくないなあ」
「………………」
ぴくりとも動けない。蛇に睨まれた蛙、とはこのことだろうか。
「撃て、舞花。悔しいが今のわたしではこいつを倒せん」
「ほらほら、この人こんなこと言ってますよ」これ犯罪の教唆じゃないんですかー、と囃し立てる。
「いつも口だけなんですってば、この人。その点うちの部長は違いますから。ね? 一緒に行きませんか、放送部に」
そう言って差し出された手に、ぼくは……
「……できない」
「え? ぱーどぅん?」
「ぼくには決められない……」
拳銃を撃てないだけではない。興味も関心もない放送部へ行くことを決断することができなかった。
「なるほど」ふーむ、と腕を組んでハイドレインジアは呟く。「そこまで骨抜きにされましたか。ほんっと度し難いですね、この部は」
うーんと眉間をもむハイドレインジアに対して、ぼくをかばうように移動しながらSADさんが喋る。
「こいつはわたしが守る。他の誰にも渡しはしない。それがライト文芸部の総意だと伝えろ」
「うーん……まあ、いいでしょう。ま、私もタダで帰るつもり無いですしねぇー……」
「また、何をする気だ……」
何事かぼそぼそと呟きながら本を手繰るハイドレインジアにSADさんが詰め寄る。
「そうですねえー」
ハイドレインジアはそこで手を止めて、
「たとえば、こういうページでしょうかね」
そう言って破いた一ページが宙を舞うと、SADさんの顔色が変わった。
「くっそっ……」
瞬間的にぼくの背後へ回ったSADさんの両腕がぼくの腰に組み付く。
「え?」
状況が飲み込めないまま、ぼくより小さな少女の腕から発せられたとはとても思えない膂力で強引に放り投げられる。
ぼくの体はそのままの勢いで、部屋の窓ガラス――まるで飴細工のように柔らかい――を突き破る。
固い地面に背中から落ちる――と思い至ったとき、白い閃光が部室を埋め尽くした。
くぐもった爆発音がそれに続く。
爆発――――?
何が? なぜ? どうして?
あの紙切れにそんな力があるのはなぜかと考えるよりも前に激痛が背中から全身に走る。
自分の悲鳴がどこか遠いところから聞こえるようだ。
落ちてきた窓から黒煙が上がっているのがかろうじて認識できた。
「旺時くん……?」
しばらくの間、脳が考えることを拒否していたから誰が来たのかわからなかった。
一瞬SADさんかと思ったが、よくよく見れば全然違う顔だ。
「大丈夫? 旺時くん」
幼馴染の早月だった。