③ 二兎を追うネコ(前編)
この物語はフィクションです。
「しんどいな……」
SADさんはボールペンを動かす手を止め、窓の向こうを見やった。
「チッ」と舌を打ってひとりごちる。「雨だな……雨の日は具合が悪くなる」
「仕方ないですよ。天気に文句を言っても」
「それはそうだが……」だめだ、とペンを投げて言う。「少し休もう」
「こういう日が続くと、ときどき思うんだ、わたしの前世はネコだったんじゃないかなと」
「え、どんなネコですか?」
「あ? ……いや、そこまで厳密に考えてみたことはないな……」
思いがけず動揺するSADさんを見て、ぼくの顔もほころぶ。
「じゃあ、どんなネコだったか考えてみましょうよ。気晴らしになるかもしれませんし」
SADさんは菓子袋からチョコ・プレッツェルをつまんで、呟く。
「そうだな……ならまず、言い出しっぺのきみから始めてくれないか。その……わたしの前世ネコを想像するゲームを」
先行の権利をいただく。
「そうですね。雨が嫌いだということは、その。きれいずきだったんじゃないですか? 濡れるとせっかくの毛並みがぺしゃんこになってしまうから……それほど毛がふさふさのネコだったんじゃないでしょうか」
「雨が嫌いだから当然シャワーも嫌いだろうな」と、SADさんが合いの手を入れる。
「ということは、飼いネコだったんですか?」
「そういうことにするか。……ちなみに今でこそわたしはインドア派だが、ネコ生ではきっとアウトドア派だったに違いない」
それはなぜですか、と問う。
「ネコは気ままに旅をするものだと決まっている」
「はあ……そうですか」
「うむ」
この人はいつも具体的にものを言わないな、と苦笑しつつぼくは迎撃する。
「じゃあ、旅人か船乗りに同行するネコだったんでしょう――船なら雨嫌いもわかりますね、海が荒れますから――。そうやって、世界中を飽きるほど回ってきた」
「なるほどな。そうすると港という港に彼女がいたかもしれんな……」
「は」
いきなりすごいことを言い出すな、この人は……。
「オスネコなら……無い話じゃなさそうですが」ぼくは口を曲げて言う。「まさかそれで、今は色恋沙汰に縁がないとか?」
我ながら意地悪なことをした。するとSADさんは急に顔を曇らせて、
「や、そこまで前世が当世に影響を与えるとは思いたくないな……」
と、いやに黙り込んでしまった。
「……なんか、すみません」
SADさん…………彼氏いないんだな。
「いや、いいんだ……」
まあ当然かもしれない、とチョコ菓子でできた貝塚を見て思う。