Ⅵ その果実の味を知ったがゆえに 中編
その一編の小説を読み終えて、七峰らいがは何かを嘆くように低く小さくうなると手から分厚い文庫本を落として両の耳をふさいだ。「身につまされる」と「耳にたこができる」というふたつの諺が混ざった彼独自のジェスチャーだ。
落とされた本は、その落とされ方に対して抗議するかのようにページを開いたままふわりとテーブルに着地して、わざわざ挟んでもらおうと浮遊するしおりをくわえて右向きに閉じた。
黙りこむらいがの気持ちをモヤが代弁する。
「ひとが物語りを愛する理由。それは物語に没頭している時間だけは、なにかを選択しないでいられるから。ですか」
「ああ」らいがはそらを仰いで、「五年前に聞きたかったかな……」
「聞いたとして、貴方はそれを『選択』できましたか?」
「さあ?」白々しく、「いままで、自分から先になにかを選ぶことなんて無かった。いつも誰かの選択を、後追いでなぞっていたんだ」忌々しく。
「それは、ご自分でお選びになった選択の軌跡も、ですか?」
この実に忌々しいモヤを見つめてらいがはふと、思う。こいつはもしや、寝不足で思考能力がガタ落ちした自分が今やディーナら創作人物を妄想力で具現化することもできず、そのために自己の分け身たちがはっきりとした姿かたちをうしなって、ぐちゃぐちゃに混ざり溶け合わさった姿なのではないかと。
うっかり変な想像をして催す吐き気に顔をしかめながら、らいがは言葉を返す。
「そうすれば、また新たになにかを選択しないでも動いていられるだろ。オートマチックさ。はは……は、ああ」
らいがはふと何かを思いついて、モヤに向かって説教をはじめる。
「たとえば、過激なアクション映画を見に行った帰りにはやたらと気分が高揚することがあるだろう。それは――」
受容体に光を浴びせすぎて、やや鈍い微痛のする頭で考えを巡らせる。
それは、映画の中で起こった出来事や登場人物の一挙手一投足に共感を覚えるからだ。共感というのは、もし仮に自分が彼と同じ境遇に立たされたなら、その時はきっと自分も彼と同じ選択をするだろうということだ。
「そうだ」らいがは更に論理を飛躍させて、「なぜ動画投稿サイトでゲーム実況動画が流行ると思う? TASやRTAといったゲームの最適解をひた走る動画に視聴者が集まるのはなぜだろう?」
質問をふるが、モヤはレスポンスしない。
しばらく待ったあと、らいがはひとつ舌打ちをして、
「実況者という、選択するいきものと共感したいんだよ。だから『名人様』だの『指示厨』だの、手前の選択を押し付けるコメンテーターが出てくる。実況者とは選択代行人だ。視聴者はその選択に賛同するか、異を唱えるかだけを考えればいい。そうすれば、おのずと同調の幸福感が得られる。選択をアウトソースして、人はその共有される視野の中からモノを見る」
「自己の拡張……いえ、増設ですか」
モヤの反応にらいがはさも嬉しそうにうなずいて、
「そうだ」らいがはもう一度論理を飛躍させて、「それがきっと、人のことばの主語を拡大させるもとなんだ。おれがわたくしになり、やがてわれわれになる」
らいがのことばには一般的にと前置きする主語が存在する。いつからか、彼はその主語を我がものにした。
らいがの主な居場所とは、彼の意識にとってはインターネット上のウェブサービスのなかにあった。そこでは実に多種多様なひとたちの生々しい感情、口に出すのもおっくうなほど直情的なそれが文章か、あるいは単語の羅列に形容されて一つの小さな箱の中にひしめき合っている。
彼が自らに取り付けたそれはマスメディアから絶えず送りつけられる「常識」の文法。文明社会を構築する人間たちの選択、しかし整理されず乱雑な情報の山から目に留まったものだけをらいがは選び取る。まるでトングを使って色とりどりのパンを手もとのトレーへと取り分けるように。
「主語が大きくなれば、そこに個人の感想は不要だ。常識の文法に沿ってことばを書けば間違うことはない。それが、大多数の人間が選択したことだからだ」
「その常識が、間違っていなければ……ですね」
そう、常識はあたりまえに改ざんされる。
昨日の解答が明日の正解とは限らないし、はじめから間違っている答えだってある。常識の文法は常に最新の情報に上書き保存されて、その真価は玉虫色に変わる。
故に、その輪転機は人間の手と足、目と耳によって昼も夜もなく巡り回る。
「僕にはTwitterこそが常識の文法だ」
そう口にすると、なんとも味気ないことばに聞こえた。それが全体にとって異質な彼個人の感想だからだろうか。そこで繰返された聞こえのよい言葉に甘っちょろい自分の意識の上澄み液をからめて共感の愉悦をいただいていたことが、そんなに顔を赤くするほど恥だったのだろうか。そのことについてモヤは応えないし、らいがも答えられない。
ふつう、たかがインターネットのいちサービスで世の中を流れるすべての情報を知ろうというのはまともではない。そんなことをしている間にも同輩は進学校の頂を目指す。そのコミュニティのなかで関係を持ち、時に罵り合い、笑い合い、堅実に石橋を築き上げて行く。
そこにも常識の文法はある。それを失う、あるいは持たぬ者は、当然理解や共感などされない。やがて和を乱す異物として少しずつ距離を置かれ、異物に甘んじる自分もまた少しずつ距離を起き……そうして共同体は自浄される。
自浄されるならまだいい。汚物をまかれたら最悪だ、らいがでさえそう思う。
たった一人の人間の苦など、路傍の石も同然である。それがいくらか積み上がっていれば少しは注目の的にもなるかもしれないが、普通は、もっと、遠く離れた先まで見えるよい景色だけに目を向けているものだ。足元に転がる石ころは、もっと気軽に蹴飛ばすものだ。
Twitterという常識の文法を我が身に組み込んだ、否、勝手に組み込まれたというらいがは、学校という常識の文法に対してはなぜか非常識な態度をとる。
なぜそうなってしまうのか、彼自身にさえ解き明かすことかなわない。だがそうやって児戯めいた我儘を張ってよい歳とは果たしていつまでであろう。もう、とうに過ぎたとらいがは思う。その内実に反して。
仮に、Twitterの文法という混沌に対して、学校とは秩序の名のもとに組織立って運営される。秩序に対して誠実であることとは、言い換えるといざという時に融通がきかないということだが、逆説的に、混沌に対して誠実であることはもっと難しい。それこそ、不確定なモヤモヤを相手に朗々と語っているかのようだ。
らいが自身も納得する結論として、彼はそのふたつを並べた天秤のはかりを大きく混沌がわに片寄らせた結果になる。秩序なくして築き上げられない石橋を崩した人間のゆく先はおそろしい。激しい濁流の流れがやがて深い水底へと脱落者をいざなう。
よく、人生山あり谷ありと言われる。しかし何かの不注意か、別の因果関係があってもしその崩落に巻き込まれたならば、ある人の生は一度そこで途切れる。
ひとは恥を知り、追って沙汰を受ける。その、果実の味を知ったがゆえに。




