Ⅵ その果実の味を知ったがゆえに 前編
その一冊の本を読むとき、七峰らいがは自分でも幼稚に思うほど身勝手な嫉妬心を露わにする。
その本は、ある一人の男を愛した小説家たちが一堂に会する中編集だ。文庫本にしてハードカバーにも匹敵するその分厚さは持ち運ぶのに少し不便で、むしろそれがこの本の持つ意味を読者に向けて示すかのよう。この本を読むとき、人はしばし雑事から離れて、それと真正面に向き合うこととなる。今ある世の中にあり得る、起こりうるがゆえに描かれる近未来(あるいは至近現代)の世界。あるいはまだ誰も見たことのない、謎めいた世界と。
らいがはこの本を買って三週間と経ったころだが、いまだそれを半ページまでしか読み進めていない。前述の理由から、なかなか読めなかったのだと彼は言う。
「それにしても」白紙の頁に栞を差して、らいがはひとりごちる。「グルメ小説と言うのかな、これは。活字で料理を振る舞われると、こうもたやすく胃の腑をくすぐられてしまうんだ」
らいがは羨望する。このように多種多様な趣向を持つ人たちから愛される、かの男性を。
らいがが初めてその名を知ったとき、彼はもうこの世にはいなかった。初めて読んだ著書の末尾で、彼に最も愛されたひとから彼の現在を知った。
それから四年ほど月日が流れて、先月、らいがは彼のデビュー作を初めて読んだ。歴史を動かしたと言われるそれ。その本を読む前に、自分がいくつかの色眼鏡をかけていたかもしれないことをらいがは否定しないが、なぜ彼がそこまで愛され、皆が理解しようとしているのかは、それでもわからなかった。だが残された記録、著書を読めば、もっとその真理に近づくことができるのだろう。
しかし、とらいがは考える。それは一人の男の背中に近づくことであり、追い越すことではない、と。いかにその男の一生をトレースしても、過去に残された軌跡をたどっても、それは自分のものではない。自分自身で選んだ選択ではない。
おれは、あなたとは違う生き方をする。そういう言葉を口にするにふさわしくありふれたちっぽけなプライドが、らいがをその男の影から遠ざける。ああ、決定的に。
おれは、あなたとは違う生き方をしている。それゆえに。
「貴方はまだ、迷っている。自分が何ものであるべきか、あるいは、どこへ行くのか」
らいがは読みかけの本を閉じ、背後からの呼びかけに振りかえって応える。
「あんた、誰だ」
らいがはソレを確かに両の眼で見ている。しかし、ソレは男とも女とも、あるいは人間かどうかも判別することかなわなかった。仮にも小説家になろうという身分で、自らの脳内に構築されたらいが固有の領域で、このような不確定な人物の存在を許してしまうとは。
そのぼやけたシルエットはまあまあ人型だった。どこまでも不確定で、見たものの気持をモヤモヤさせるソレを、仮にモヤと名付けよう。
モヤはらいがの問いかけに応じず、ジェスチャーでらいがの後ろ手に置かれる分厚い文庫本を指し示す。
「名著を高級料理に喩えるライトノベルを読んだ経験があるのでは?」
「ああ」らいがは肩をすくめて、「漫画のほうを『つまみ食い』しただけだ。いや、それだけでもかなり影響を受けたけれど、自分から料理について語るのと、料理について語られるのとでは、自分で料理を食べに行くのとテレビの料理番組を見るのぐらい違うだろ」
「あなたも料理を作ってみませんか?」
「興味はあるね。でも、レシピ本がない。作り方も知らない。料理の味さえわからないかもしれない」
「ないなら買って読めばいい。インターネットで作り方を探してみるのも悪くない。お料理番組を見るというのでも、変わると思いませんか」
「カネがない。読む時間も、見る時間もない。」そこでらいがは苦々しく、自ら反論する。「……それで、料理が作れるとは思えない」
「作る時間もない?」
「ないね」
モヤは、いったいなにを言いに来たんだ。とらいがは心中嘆息する。説教ならば間に合っている。足らぬのは、懺悔か。まだ懺悔したりない罪悪なら掃いて捨てるほどある。
「私について知りたいですか」
「ぜひ」
「私は貴方です」
「まあ、そうだろうね」
やはりという気はしていた。ここにあるもの、すべてが俺だ。当たり前の話で、自分の頭のなかへ見知らぬ誰かの意思が介入していると感じたら、それは多くの場合、一度病院で頭を診てもらう必要がある。
我ならば聞こう。おまえが出て来た理由はなにか。
「なあに、記憶の整理です」
「記憶の整理?」
らいがには、それがいかに重要なことだか理解が及ばない。
「貴方があまりにも眠らないので、夢で記憶を整理することができないのです。おかげで貴方の頭はとても重たくなっている」
「記憶の整理と言われてもな。別に、整理されるほどの記憶もないと思うんだが」
「そう思っているから、頭を重たくしてしまうのです。ゴミ箱を放置していればいずれ中身が溢れかえります。そうならないための、整理ですよ」
ちらり、とらいがは失礼を承知で左手首に巻かれた小さな時計を見やる。文字盤は真っ白で、ただ秒針がかちかちと回るだけの腕時計を。
「どのぐらいかかる?」
「さあ。それは整理してみませんと」
らいがは口をひん曲げながら、
「押し入れには古いアルバムだらけだよ」
両腕を広げて、その「記憶の整理」とやらが果てしなく不毛な作業であることを表現した。
「ええ。ですからそれをひとつひとつ丁寧に確かめねばなりません」
らいがは道化的笑いを止め、下あごを下げた。
「どれだけ嫌そうな顔をしても、ですよ」
「わかった。わかった。どこからだ」
「それは、まあ……次回からのお楽しみということで」
らいがはモヤに思った。ああ。まさに、自分を見ているようだ。




