Ⅴ 「生きている」と言いたくて
「それで?」
ディーナ・カルツァの優しげなささやき声が、あたたかな湯気の中でかすかに反響する。
心象風景として作り上げられた妄想の湯船、温泉旅館のそれのような広い浴槽に浸かりながら、七峰らいがは言った。
「……頭が痛いよ」
くす、とディーナは笑みをたたえて、
「肉体的に? それとも精神的に?」
「同じだよ」
「あら、それは深刻ね」
はじめ、それに自覚などというものはなかった。そう思い至るまでもなく、世の中は平和で、少々の――ささやかとは言えまいが――危険があった。
そのうち、自覚が芽生えた頃にはもはや手のつけようがなくなっていた。負の連鎖、自業自得。そう片付けるには、この男を取り巻く様々な問題、課題は乾いた泥のように彼の全身にしつこくこびりついている。
「深刻になれないから困っているんだよ」
「そのぐらいわかるわよ。突然勇者になれと言われて、魔王を倒しにゆけるひとがどれだけいると思う?」
「鍛錬を積めってことだろ」
ディーナは首を振った。
「自覚を持てと?」
「それも違う」
らいがと向かい合うように座っていたディーナは彼の横に体を寄せる。タオルで結い上げられた髪が水分を吸って鴉の濡れ羽色に艶めいていた。
「貴方には、それが成し遂げられると信頼されるに足る能力があるということ」
「それは……」
本当に信頼されていると言えるのか。それは所謂「王様」の身勝手な思い込み、それも自分からそう思い込まれるように振る舞ったからではないか。
荷が重いんだ。そう言いたげに、
「……自覚を持てっていうのと何が違うのさ」
「ポジティヴシンキングよ。そんなふうに望みがないままぬるま湯に浸っていても、時間は過ぎる一方よ」
「だけどさ……」
らいがは湯船に頭を沈めた。ディーナの声が聞こえないように。
しかし、すぐに息が続かなくなって顔を上げる。
「……わかってるんだよ。こんな……こんなところで立ち止まっていたら、誰だって潰れるさ。けど俺は、そんな不確かな未来なんて見たくない。その先にあるとかいう希望なんてのも知らない。過去のなかで、そこにあったモノだけの世界で生きていたい」
「それって、本当に過去だけのものになってしまったの?」
「は?」
「それは現在も続いている。そうじゃなくて?」
「今も?」
ふっとらいがの表情がゆらいだ。しかしなにか思いあたって、らいがは顔をしかめる。
「……意識は砂時計の砂のように流れてゆくものだから、たとえ過去と今で同じことをやったとしてもそれはまったくの同じにはなりやしない。そういうことを言ってるのか?」
「だって、貴方はその場その時で自分にとってもっとも都合よく得られる快楽か愉悦に固執している。それは≪過去≫じゃあない。いまの時間に過去をスライドさせても、それは過去に還ったことにはならない」
もう、うんざりだ、とでも言いたげに、らいがは湯船のなかを泳いでディーナから距離をとる。
ずいぶんと泳いだ。だが、ディーナの声は届く。
「貴方はずいぶんとお利口さんよ。憤慨して誰かに当たり散らすことが自分にとって利益にならないことを知っている。あたかも自分ひとりきりで生きているような気持ちになる時でも、家族、システム、またはデバイスによって生かされていることを知っている。」
けれど、とディーナは言葉を続けた。
「貴方は満足という言葉を知らない。なにかが満ち足りることをよしとしない。いつも埋まらないパズルのピースを探すように、砂漠の砂を掘り続けている」
思い出して、とディーナは言った。
「貴方が欲しかったものはなに?」
「……少なくとも、ここには無かったよ」
ディーナは静かに嘆息した。それでもいいのよ。けれど、そのことで貴方は苦しむのね。
「貴方にこれ以上、何かを変えようとさせるのは難しそうね」
「人生詰んだ」らいがは軽々しく言った。「こう詰むとは思わなかった。どうせ終わりが来るのなら、早くしてほしい」
「私はそのことにたいして、否定も肯定もできないのだけれど」
「知ってるさ。お前は俺の被造物。俺に指図なんて、できっこない」
「そうね、でも」
ディーナはタオルを解いた。長い黒髪が湯に浸かるのもかまわず。
「私は貴方の一部。貴方の声のひとつ。貴方のなかに、貴方を憂う貴方が居ることを、忘れないでね」
彼女のその言葉に、らいがは賛同しかねるような顔をした。
「どうかな……自信がないよ」
「無くてもいいのよ。知ってさえいれば」
大浴場の風景が霞む。
ディーナの姿が、霧のように辺りを白く染め上げる湯気の中に消えてゆく。
らいがの心象風景はそこで幕を閉じた。
そのように、彼の言葉はいつも尻切れに終わる。




