Ⅰ まずは筆を執ろう
臍で全身を支えなければ卒倒してしまいそうなほど尋常ならざる重圧の中で、ハイドレインジア・パートリッジは主人の怒りを鎮めなくてはならなかった。
「――――なぜ、ここで中止するの!?」
雷鳴の如き怒号にハイジアの絹糸のような金髪が震える。
「で、ですから、その、ぷ、プロジェクト第五一五〇号は世界観構造に致命的な欠陥が見られましたので、これを至急凍結し、再検討するべきであると――」
「そんなことをしていたら、終わるものも終わらないでしょうに!!」
「ひぃっ」
忌々しく机に拳を叩きつける音が執務室に響き渡って、ふたたびずしりとした重たい空気がふたりを包み込む。
縮みこむハイジアとは対照的な烏の濡れ羽色の長髪が今にも怒りで天を衝きそうな「管理者代行」ディーナ・カルツァは、しかしてその尊大な肩書とは裏腹に何の権限も自身に与えられていないことが常々の不満だった。自分の正体すら明かさずに従者のハイジアを通じて珍妙な創作世界を作り出したかと思えば、舌根の乾かぬうちに創作プロジェクトの凍結を言い渡す。これで神を名乗るのは、神に対して失礼ではないだろうか。例え個々の力は弱くとも日本に住まう八百万の神々はきちんと自らの職責を果たしているではないか。
「第一、オープンリソースを使っておいて世界観構造に欠陥? それを再検討? 意味がわからないわ。レシピ通りに料理を作る前にまず材料が足りてないんじゃない?」
オープンリソースとは、創作世界の創造においてその世界の骨子となる部分のことだ。例えば「剣と魔法の世界」ならば科学の存在は魔法によって否定される。その逆や、あるいはその両方を組み込んだ創作世界というのは当然ありうる話だが、その中核は一般的に、この場では「管理者」と呼ばれる創造主の領分であり、秘匿され保護されるべきものである。しかし時に世界観やその構築に必要な情報を複数の創造主と共有するためにしばしばこのような体系がとられ、言わばオープンワールドとしてひとつの世界に複数の創造主が介入することさえできる。
つまり、このオープンリソースを使っておいて小説のひとつも書けないというのは、ひとえにその使い手たる創造主自身に何らかの致命的欠陥があると見て間違いはないだろう。
目の前で今にも泣きそうな顔をしているハイドレインジア・パートリッジと同様に、ディーナ・カルツァは被創造物である。管理者こと、所詮数十億人分の一人の人間の脳髄で構築された精神世界にのみその存在を認められた概念的人間。他の被創造物と管理者との橋渡し役として洋風の執務室に座し、時には彼女自身が各創作世界で生じる数多の事件を引き起こした「黒幕」として暗躍することもある。妙齢の美女たる彼女は時に主人公にひとつ大きな選択を課し、その中で揺れ動く主人公の姿に愉悦を覚えるのだ。
だがそれも、きちんと創作世界内の事件が収束し無事にエンディングを迎えられたらの話だ。起承転結の「起」の三分の一か二の段階でシナリオを止められてしまっては創作世界は成り立たない。フィルム切れのように静止した時空の中で世界そのものが虚数空間の海に沈んでいくのをただ見ているだけの日々は、もうたくさんだった。
「それで……欠陥とは?」
「はい?」
ぴんとハイジアが伸び上がる。まるでミーアキャットのようだとディーナは思った。
「世界観構造の致命的な欠陥、その欠陥とは?」
「あ、あああ、はい」一言一句聞き違えないようはっきりとしたもの言いが必要以上にハイジアを突き動かして手元の書類をばららっとめくらせる。「あわわわわ」
「はぁ……」
なるべくハイジアに聞こえないように気を配りながら、しかし片手で頭を抱えディーナは静かに嘆息した。
別に、貴女に対して怒っているわけではないのよ、とディーナは彼女に同情を寄せる。原則的に被創造物は管理者に対して無力である。仮に管理者を上回ることができたとして、それは管理者の名を借りた化身に勝ったに過ぎない。勝っても負けても、それは被創造物にとってこの上ない屈辱だろう。
事実このディーナ・カルツァでさえ、現状に不満を抱きながらも創作世界創造プロジェクト第五一五〇号の凍結は已む無しと考えているのだ。蛙の子は蛙、世に出ぬまま死んでいく想像上のイキモノたちを助ける力は、彼女に認められた能力の範疇を超えたところにある。
鷹のように目を細めながらなにごとかをボソボソ呟いていたハイジアがようやく該当部分を探し当てたらしく、大きく口を開いた。
「ええと、この世界は西暦二一〇五年を舞台としていますが、実際はその年代における世界各国の情勢や文明の度合いなどをまったく考慮しないままで二〇一五年現在とほぼ同一の世界観を構築していました」
「……別に、それ自体は悪いことではないでしょう? もともとあのオープンリソースには今より飛躍的に進歩した科学技術はあまりないのよ」
「ですが、シナリオの中にhⅠEを出せないのはさすがに……」
「それが欠陥?」
「そうなると、思います」
ああ、とディーナは天を仰いだ。無知蒙昧なる我らが神よ、知識も無しにオカルト小説にSFを混ぜるからそうなるのですよ。
「……またキャラクターシートから書き直し?」
「いえ。新規プロジェクトに向けて過去作のキャラクターを用いてもよい、と管理者様より言付かっております」
「過去作ねぇ……」
そのどれか一つでも当人以外の誰かに読まれたことがあっただろうか。
「いいわ。どうせもうプロジェクト第五一五一号は始まっているんでしょう?」
「はい。……なにかアイデアが?」
「私は彼の化身も同然よ」
ディーナは脇の引き出しを開けて、彼女の胸と同じくらい大きなタイプライターを机の上に置く。魔導力で動くシンプルなデザインのそれはディーナの細指がキーに触れるとやおらウォームアップし、立体映像で「NO NAME社」の社名ロゴ――形ばかりの「脳内企業」という設定――が浮かび上がってふっと消える。
彼女はぱっと手を広げて大きく伸びをしたあと、難解な譜面を事も無げに弾くピアノ奏者の如き手つきで文章を書き始めた。
「あの、私は……」
「もういいわ。世界観構築後にまた呼ぶから、それまでゆっくり休んでいなさい」
「はい、わかりました。失礼します」
修道女を近代日本人の美的感覚でアレンジしたような洋服の、その長いスカートと頭巾から覗かせる端正なショートボブのブロンドをゆらゆらさせて彼女は執務室から出て行った。
ディーナは手指を走らせながらも彼女が閉めたドアを見つめてぽつりと呟く。
「あの子にも、居場所を与えてやれたらいいのだけれど……」
それは自分の本意だろうか、とディーナは考え、頭を振った。いや、管理者の本意に違いない。
先刻とはまた違った意味で重たい空気がディーナの体を包み込んでいた。
真いかみみ、またの名を七峰来駕は日々「小説家になろう」と思いながら妄想してはその妄想を小説にできない困った創造主であった。
事態を憂慮した「ディーナ・カルツァ」は自らの存在を確立させるためにある一大創作プロジェクトを立ち上げる。
とにかく今、考えられるすべての妄想を集約させてひとつの小説を書ききること。
これは、あるひとりの名も無き人間とそれが作り出す名も無きキャラクターたちの儚き旅路の記録である。