第2章 邂逅 -1-
「……やっぱりあともう十分だけプレイ――」
「ダメ。ルールはルールです」
丸いテーブルを挟んでソワソワと落ち着かない様子の桐矢に対し、葵はノートにシャーペンを走らせたままきっぱりと答えた。
現在時刻は、七月最後の日曜の十六時四十五分。合宿は一週間近く前に終わり、あと十五分ほどでイベント予選が締め切られる頃だった。
しかし桐矢たちは、丸いテーブルを囲んで問題集やノートを広げていた。――絶賛勉強会の開催中である。
「午後十二時半から一時間半、三十分休憩してまた一時間半ASVをプレイする。その後は宿題をして解散。そうやって決めたでしょ」
「いやでも、ひょっとしたらこの数分の差が、予選敗退っていうオチに繋がるかもしれませんし、ね……?」
「不安になるのは分かるけど、無事に通過できるだけのポイントは確保しているはずだよ」
相馬は呆れたように答えて、問題集に赤ペンで丸を入れ始めている。
このやりとりも一週間繰り返されてきた。相馬が呆れるのも当然だろう。
桐矢自身も自覚はしているが、しかし不安になるのは仕方がないことでもある。そもそもあまりソーシャルやオンライン要素の在るゲームにのめり込んだ経験のない桐矢としては、どの程度の労力でどのランクに立つか、という経験則を持っていない。極論を言えば、どれほど頑張り、実際には一位通過だったとしても、今のようにずっとソワソワしているに違いない。
その上、このイベントには上位入賞褒賞以上に懸かっているものがある。だからこそ余計にこんなところでつまずくことは許されない。
「焦るのは仕方ない。けれど、ゴールを見誤っちゃ駄目だ。君には大事な使命があるだろう?」
コツコツとシャーペンの頭で問題集を叩く相馬の言葉で、桐矢も思い出す。
上位褒賞以外に桐矢が欲してやまないものがある。
そしてそれには、イベントの上位入賞以外にも条件があるのだ。
「全ては部長の水着の為に」
「任せろ」
即座にMAX値までやる気を取り戻し、桐矢はまた夏休みの課題に取りかかる。
上位入賞褒賞が手に入り、かつ夏休みの課題が全部終われば、桐矢は葵と夏休みらしい遊びに出かけられる。そういう約束で、桐矢と相馬はASVでも宿題でもモチベーションを高い水準で維持している。
例えイベントを無事に切り抜けたところで、宿題が終わらなければ話にならない。その為だけに、桐矢はやる気になっているとさえ言っていいレベルだった。
「……そんな風に頑張られるとちょっと引くかなぁ……」
男二人の異様なバイタリティの高さに、葵は若干たじろいだ様子だった。
しかし一度言い出した手前か、葵の方も取り下げることはしなかった。というよりも、そんなことをしようものなら、桐矢も相馬も血の涙を流して悲嘆に暮れるのが目に見えているので、葵の方が気を使っているのだろう。
「……ダイエットしとこうかな……」
ぼそりと、葵は本当に小さくひとりごちてお腹の辺りをさすっていた。だが、それを相馬は目ざとく見ていた。
「部長。方法とか体質にもよりますけど、ダイエットは胸から痩せることもあるらしいのでやめましょうよ。その美しいおっぱ――」
「さらりとセクハラするのやめてもらっていいかな、相馬君」
ガツンと相馬の頭を殴って、葵は物理的に黙らせていた。ダイエットしなくてもいいのではという相馬の意見には賛成する桐矢だが、ここまでストレートにセクハラをぶちかます彼に同情する気は起きない。しようものなら、桐矢まで同罪扱いだ。
「……そう言えば、桐矢君って痩せてるよね」
「そうですかね。平均的だと思いますけど」
完全に相馬から視線を外した葵は、ふとそんなことを言い出した。桐矢としては差して自覚はなかったのでただ小首を傾げている。
「そう? でも、制服着てたときは制服がだぼついて見えてたんだけどなぁ。それにほら、私服の今でも二の腕とか凄い細く見えるよ」
そう言って葵はさりげなく桐矢の二の腕に触れる。
「――っ!?」
そんな突然のボディタッチで、桐矢に動揺が走った。バクンバクンと唐突に昂った血流で胸の辺りが痛い。
(わ、分かってる……っ。これは葵先輩との距離が縮まった証。葵先輩は元々そういう距離が近いタイプなだけなんだから。深い意味はない、ないんだってば……っ)
心の中で桐矢は自分に必死に言い聞かせようとするが、しかし高鳴る鼓動は落ち着いてはくれない。憧れの先輩と触れ合っているという事実だけで、もう今すぐ死んでもいいくらい桐矢は幸せだった。――しかし、何故か葵の顔は少ずつ曇っていった。
「……細い……。え、ちょ、本当に細くない……?」
葵はやや信じられないと言った様子でしばらく桐矢の腕を触っていたかと思うと、手を放して今度は自分で自分の二の腕辺りをつまみ始めた。
そして、真っ暗な影を落としてその少女は呟く。
「……桐矢君。プールとか海はナシにしない?」
「えぇ!? 何でですか!?」
「女の子の大事なプライドが傷付く予感がするんだよ……」
葵が何かに酷く打ちひしがれていると、テーブルの上に置いていたスマホが小刻みに揺れながらピピピッと音を立てた。
これはあらかじめ設定していたアラームの音。
つまり、イベント終了の十七時を迎えたということだ。
「……これで後は結果を待つだけだね」
「どれくらいで発表なんです?」
数年前のソーシャルゲームなら、イベント終了から数時間経ってからでないとランキングの集計や褒賞の配布は終わらなかっただろう。しかし、現在はNICという情報分野に確信を起こした企業のおかげでさほどラグが生じることもなくなっていた。
ましてこのアサルトセイヴ・ヴァーサスは、そのNICが生産している対戦ロボット格闘ゲームだ。そんな一般企業のような態勢とは思えない。
「〈reword〉にはスーパーコンピューター“葵”も噛んでるしね。前回と同じなら、インスタント麺が出来るよりも早く結果発表が届くはずだけど」
そんな風に葵が言った直後だった。
ハッチを開けっぱなしにしていた葵のコクーンから、ピロピロと軽快な通知音がした。
「早速着たみたい。じゃあ確認するね」
そう言って葵はコクーンとモニターを繋いで、リモコンで通知を開く。
書かれていたのは簡易的な挨拶文と、本選通過者の一覧。
そして。
エンデュミオン・本選通過という単語だった。
「と、通った……っ」
「まぁ通るよね」
「他の通過チームも中ランクばっかりだしね。見込み通り強者はラティヌスだけみたい」
安堵している桐矢を余所に、ベテラン二人は当然と言った様子でその通知を眺めていた。桐矢がこれだけ不安がっていたのが馬鹿のようだった。
「あ、あれ……? 俺のテンションが間違ってんの……? 一週間かけての予選なのよ? 途中経過の発表とかなかったから、割とガチで不安だったんだけど……?」
「あれだけ撃墜されながらもイベントポイントを稼いだのに、予選くらいで落ちる訳がないだろう? それに、この僕が目の前にぶら下がった水着おっぱいを逃すなどあり得ない」
「その言葉で急に『確かに何にも不安に思う必要なかったな』とか思っちゃうんだが……」
「その変な方向には相馬君の信頼は厚いからねぇ……」
葵も呆れたように答える。
とにもかくにも、これで無事に桐矢たちは〈reword〉限定イベント『封印の剣』の本選の出場権を得た訳だ。
あと五回勝てば、黄金の剣は桐矢の手に下る。
「本選開始は明後日だし、明日は完全に休憩にするから、ちゃんと休むようにね」
「え、休みですか……」
「露骨に寂しがるのはどうかと思うよ、桐矢君」
見透かしたように言う相馬を肘で小突いて黙らせるが、しかし彼の言う通りであった。
今まで桐矢がこの部活に入ってから、葵の顔を見なかった日などほぼないと言っていい。それが急に途切れるというのだから、多少の動揺は仕方がないだろう。
「あ、でも相馬君は借金返済ね」
「……普通に死にかけるんで勘弁してくれませんか」
「だーめ」
くすくすと悪戯っぽく笑う葵のそれは大変可愛らしい仕草だったが、言外に「ただし本選でミスしたら……分かるよね?」と言っているような気がして素直に受け止められなかった。
「寝るなり、遊びに出かけるなり、相馬君以外は自由に時間を使っていいからね」
「もう桐矢君に直接言えばいいじゃないですか……」
わざわざ見せつけるような言い方をしているのは、おそらく相馬のセクハラに対するささやかな仕返しといったところだろう。たまにこういう子供っぽい仕草を見せるのも、おそらく少しずつ桐矢たちに心を開いてくれているからだ。
そのことを少し嬉しく思いながら、桐矢は噛みしめる。
この場所に桐矢がいられるのは、ASVのおかげだ。――そしてそれは、桐矢が白の色付きのイクスクレイヴを得たからでもある。
この居場所を、護らなければいけない。
その為に、桐矢はこのイベントで勝ち上がり、自己の存在証明をしなければならないのだ。
「……気負いすぎてない?」
そんな桐矢の顔を見て何かを不安に思ったのか、葵が声をかける。
「何がですか?」
「……分かってないなら、いいや。それを分かってもらう為のイベントだしね」
首を傾げる桐矢にそれ以上を言うでもなく、葵はパンと手を叩いた。
「そんな訳で、今日はもう解散ね。お疲れ様」
「はい、お疲れさまでした」
釈然としないまま挨拶を済ませ、三人はカバンを掴んで下校の用意をする。
廊下に出てみれば、想いの他暑くはなかった。夏場ということで五時くらいではまだ日は沈んではいないが、それでも昼間の暑さが和らいでいることを感じると、夕方なのだと思い知らされる。
そのまま雑談を交わしながら、門をくぐり抜けたときだった。
「やっほー、キリ君」
随分と聞き馴染んだ声に桐矢は呼び止められた。
声のした方を向けば、門柱にもたれかかるようにして一人の少女が立っていた。
高校生とは思えないくらい幼い顔立ちだった。まるでその分を取り返そうとしているかのように髪を金に染めパーマまで当てて、服装はギャル雑誌からそのまま切り取ったような格好をしている。――が、どうしたって背伸びした小中学生にしか見えなかったりする。
綾野世梨那。
桐矢の幼なじみにして、実のところ桐矢とASVを引き合わせてくれた恩人でもある。
「どうしたんだよ、綾野。出待ちなんかしてまるで俺のこと好きみたいだぞ。ゴメン俺そんな気ないから」
「その自意識過剰、割とガチで気持ち悪いよキリ君」
心底軽蔑したような眼差しで言う綾野の言葉に、若干傷つきながらも桐矢は話題を変える。
「で、何の用だ? 今から帰るところなんだけど」
綾野はASVの〈reword〉については何も知らない。ましてや、この特別棟の中にゲーム筺体が四つフルセットで置かれていて、それに日々桐矢たちが乗っているなど夢にも思わないだろう。
実際昨日も「明日ヒマー?」とかいう綾野の短すぎるメッセージに対し、「部活で勉強会」という嘘ではないことだけを言って桐矢はごまかしている。学校(正式には別施設だが)の中がそんな状態になっていると周囲に知られるのは不味いからだ。
「あー、うん。一応ここの部活のみんなには、あたしが原因で迷惑かけちゃったみたいだから一階挨拶しておこうとは思って」
「あぁ、そのことか」
桐矢は言われて納得した。綾野が言っているのは、藤堂剛貴の件だろう。
彼女がうっかり彼に桐矢たちのことを教えてしまった為に、藤堂剛貴はリアルで殴り込みに来た挙句、違法なハッキングツールを用いて桐矢たちをASV〈reword〉から退場させようとした。
ほとんど綾野のせいではないとはいえ、彼女なりにどこかで折り合いをつけたかったのだろう。だからこそ、今日ここにいると聞いてわざわざ足を運んだのだ。
「あ、部長の葵先輩ですよね。あたしキリ君――じゃなかった、桐矢君の幼なじみの綾野です。この間は本当にごめんなさい」
「え、あぁ、うん。別に気にしてないし、それに綾野ちゃんのせいじゃないよ」
ただの社交辞令などではなく心からそう思っている葵は、だからこそ謝罪に対し困ったような笑みを浮かべていた。
「そう言ってくれると嬉しいです。これ、一応お詫びのお菓子です」
「そんな、貰えないよ」
「大丈夫ですよ、そこまで高くないですから」
そう言って紙袋に入った箱を取り出し、綾野は葵に手渡す。
どうもひと月以上経ってからこうして謝罪に来たというのは、彼女なりにどうするか悩んだ末、きっちり礼儀作法を調べてからにしようという考えがあったからなのだろう。
アポを取ろうとすればどうせ「その気持ちだけで」と言われるだろうと読んで、無礼でも突撃する形にしたのだろうか。
「じゃあ、ありがたく部員みんなで食べさせてもらうね」
「はい」
元々禍根などなかったが、それは形式的にもすっかり片づいて、綾野はほっと胸をなでおろしていた。
そして、じろりと綾野はそのままの流れで桐矢を睨んできた。
「――それで、キリ君」
「何だよ」
「あたしはきっちり謝罪を終えました。しかし、キリ君はまだあたしに対して謝罪をしてないことがあるはずだよね」
「……何かあったっけ?」
幼なじみで気の置けない仲ということもあって、桐矢の綾野に対する扱いはかなり雑だ。謝れと言われれば謝らなければいけないようなことには、腐るほど重い当たりがあり過ぎて逆に分からなかった。
その桐矢のリアクションに、綾野はピキッと顔を引きつらせたまま続けた。
「ケーキバイキングの約束、すっぽかしたでしょう? 半分それが原因で迷惑かけちゃったんだから」
「あぁ、それね。うんうん、悪かった悪かった」
「……誠意の感じられない謝罪もあったものだね……」
後ろで聞いていた相馬まで呆れたように呟くほど、軽い謝罪だった。それくらいで綾野の機嫌が直るなど、当然あるはずもない。――むしろ悪化するに決まっている。
「……決めたよ、キリ君」
「何を?」
怪訝そうな顔をする桐矢に対し、綾野は爆弾発言を投下する。
「明日、デートしよう!」
「……は?」
何を言っているのだろうと思って、そして桐矢は気付く。
彼女は桐矢が葵に心を寄せていることを知っている。その上でデートという単語を使うことで、桐矢と葵の仲が発展しないように鎖をかけたのである。
「は、オイ、ちょっと待て!? お前急に何言ってんの!?」
「あとで詳しくメールするけど、遅刻しちゃダメなんだからね!」
そう言って綾野はあかんべーしながら全速力で走り去っていく。
残された三人には、微妙に居心地の悪い空気が流れていた。
「……あの、先輩。違いますからね? 別にあいつはただの腐れ縁でして」
とりあえず好意を寄せている相手には誤解だけを解いておかなければ、と桐矢が葵に冷や汗をだらだらと流した笑顔で言い訳をし始める。
しかし、葵の方は全くこれっぽっちも気にした様子もなく首を傾げていた。
「うん? いいリフレッシュになるしいいんじゃない? でも可愛い子だね、やっぱり桐矢君は綾野ちゃんみたいな子が好きなの?」
満面の笑みと共に放たれた葵の言葉に、桐矢は「違うんだって……っ!」と両手を地面についてうなだれるしかないのだった。
 




