第1章 紅蓮の狼 -1-
七月末と言えば、古今東西の学生がお待ちかねの夏休みの始まる時期だ。
桐矢一城たちが通う高校もまた、明日から夏休みということで全校生徒が浮足立っていた。
その件の終業式を終え数時間が経過した、午後三時のこと。
中学生までの桐矢であれば、さっさとカバンを引っ掴んで自宅へ向かい、惰眠を貪るという形で夏休みを謳歌していたことだろう。
しかし、今年はまるで違った。
「――何故この筺体に冷房は完備されていないのか……っ」
真っ白い繭の中から、桐矢一城は溶けたナメクジのような動きで這い出て来るとともにそう口を零した。室内の冷えた空気のせいか、汗の蒸気のような煙さえ見える。
「やっぱり長時間使うようには出来てないから、熱気こもっちゃうね」
そんな桐矢に冷たいペットボトルのスポーツドリンクを差し出してくれた葵立夏もまた、可愛らしいピンクのタオルで自身の汗を拭っている。
ただそれだけの仕草に、思わずドキリとして、慌てて赤くなった顔を逸らす。
そんな汗を掻いた姿すら美しく見えるのは、桐矢が彼女に恋焦がれているから、という理由だけではないだろう。
深海を思わせる深く青みがかった髪、オニキスのように黒い瞳、触れれば砕けてしまいそうなガラス細工のように華奢で繊細な身体。全てが合わさって、校舎を歩くだけで皆一度は振り返るほどの美貌を形作っていた。だからこそ、どんな姿でも美しいのだ。
「今日はそろそろ止めにしませんか。熱中症で倒れたら洒落になりませんし」
そう言ってまた一人、白い繭から降りてくる。
背中に花束を背負っていようと、それが霞むほどに整い過ぎた容姿の美少年――相馬旭である。その見た目から制服を校則通りに来ていても十分に見栄えがするから――などという男の嫉妬と反感を買うような理由で普段は着崩したりしない彼だったが、今は暑さからカッターシャツをほとんど羽織っただけのような状態になっている。それだけ、熱さにやられているのだろう。
「そうだね。――あ、桐矢君タオルある?」
そう言って葵が新しいタオルを桐矢に差し出してくれる。
――が、彼女の身体も火照っているせいか、甘い桃のような香りがいつもより強く感じられて、桐矢としては少し近づかれただけでなおさら体温が上がりそうだった。
「あ、ありがとうございます……っ。――あの、でも休憩してから、もう一戦だけやりませんか?」
桐矢がそう言って続けようとしているのは、あるゲームのことだった。
アサルトセイヴ・ヴァーサス。
ロボット対戦格闘のアーケードゲームで、二年前の稼働開始直後から人気ゲームランキングで上位にい続ける化け物のような人気を誇っている。
その要因の一つは間違いなく、いま桐矢たちの目の前にあるこの白い繭だ。
コクーンと呼ばれるそれは、そのロボットのコクピットを模したゲーム筺体である。これによりプレイヤーは、本当にゲームを操縦しているかのような感覚に浸ることが出来るのだ。
他にも毎週更新されプレイヤーの選択で分岐し続けるシナリオや、他のゲームの追随を許さない圧倒的なプレイヤブル機体の豊富さなど、人の心をくすぐる要素が盛り込まれている。稼働開始から人気が衰えないどころか、未だなお人気が上がっているという話もある。
だが。
このゲームには、もう一つの顔があった。
〈reword〉
ランダムで選ばれたプレイヤーにのみ与えられた特権であり、〈reword〉ミッションを全てクリアすることでどんな願いでも一つ叶えてくれるという。
その〈reword〉ミッションをクリアする為に、〈reword〉プレイヤーは日夜腕を磨き続け、その異常なまでの高難易度のミッションをトライ&エラーで一つずつクリアしていっているのだった。
――今しがたの、桐矢たちのように。
「でも三時間くらいやってるし、今日はもうやめた方がいいと思うよ」
普通は三時間もぶっ続けてこのゲーム筺体を占領していればクレームが来るが、彼らはその限りではない。
そもそも、ここはゲームセンターですらないからだ。
学校に寄贈された特殊な部室棟で、しかしマナーが悪すぎて使用禁止令が出されている可哀そうな施設だ。
その寄贈した人の家系である葵立夏が管理人代わりを務めている為、勝手に使用しても問題がない。だからこうして、この四基のコクーンを置いているのだ。このコクーンも、〈reword〉の特権を上手く駆使して故障品を手に入れ、葵が修理したものである。
占領どころか、完全にこれは彼ら専用の筺体だ。
「でも、俺また足引っ張ってたし……」
桐矢は申し訳なさから、視線を下に落としていた。
葵や相馬は稼働開始直後からの古参だが、桐矢は違う。彼はまだ始めて二カ月と経っていない新人だ。
これだけ恵まれた環境の中に居ながらも、彼らは〈reword〉全体からみれば中堅の域を出ない。そしてこの三人の中で一番弱いのは、間違いなく桐矢一城だ。
「別に桐矢君が弱い訳じゃないさ。僕たちの方が長くやっているのだから、上手くて当然だ。――それに、君の機体は色付き《カラーズ》じゃないか。それだけでも十分に助かっているよ」
相馬は慰めるようにそう言ったが、桐矢にとってその言葉はそうは受け止められなかった。
色付きは、〈reword〉プレイヤーの中で一定の低い確率で当たられる特殊な機体のことだ。桐矢の場合は白の色付きであり、機動力が一・五倍になるアドバンテージを有している。
もちろんその機体そのものも悪くなく、むしろ高性能と言える。桐矢一城の機体は、間違いなく有用だろう。
だがそれは、桐矢自身の否定に他ならない。
自身の力でここに居場所を残さなければ、意味がない。
「……桐矢君は責任感を持ちすぎてるような気がするね」
「部長。それを部長が言っちゃダメですよ」
呆れたような相馬の忠告に、しかし葵はきょとんとしていた。もちろん、桐矢が即座に相馬の口を塞いで次の言葉に継げなくしている。
桐矢がこの〈reword〉で叶えたい願いはない。彼にとっては、葵立夏の傍にいられるだけで十分なのだ。
だからこそ、こんな弱いままでいたくないと思った。彼女の力になりたいと、そう願った。
桐矢がそう思っているということを相馬は見透かしていて、当の本人の葵は全く気付いていないという、ただそれだけの話だ。
「よし!」
そこで葵は切り替えるようにパンと手を叩いた。
「なら、イベントに参加しようか」
葵が笑顔と共に放った言葉に、二人の反応はそれぞれだった。
桐矢の方は「ナニソレ?」という単純な疑問を浮かべた、ちょっと間抜けな顔だった。
対して相馬の方は「マジかコイツ」とでも言いたげなくらいげんなりとした顔だった。流石の相馬も、この表情までは美少年のままではいられないらしい。
「あの、イベント、ですか?」
「うん。ちょうど週明けから〈reword〉限定イベントが始まるんだよね。それに参加して一緒に戦えば、桐矢君も自信が付くでしょ? それに、上位入賞者には特殊な装備が与えられる。これが手に入れば更にパワーアップも出来るしね」
「……マジで言ってるんですか、部長」
唯一の長所とさえ言っていいイケメンが台無しになっている相馬の辟易した様子に、葵は首を傾げる。
「何でそんな顔してるの、相馬君」
「去年参加して瞬殺されたでしょうよ。まして今回はトーナメント形式だって言うじゃないですか。上位チームにボコボコにされて終わりですよ」
「え? そんなキツイやつなの?」
葵の口調から桐矢は『中級者向けのお得なイベント』を想像していた。だいたい世の中のアーケードゲームやソーシャルゲームのイベントは、初心者以外の万人がお金さえ注いで試行を繰り返せばクリアできる、ということが前提になっている。
「今回のはイベントという名の大会だよ、ゲーム大会。プロゲーマーみたいな連中がこぞって腕を競い合う上に、数字持ち《ナンバーズ》や色付きの機体も多数参加する。僕らみたいな中堅どころの〈reword〉プレイヤーに勝てる訳がないだろう。――そもそも、四人一チームのこのゲームでまだ三人しかいないって言うハンデもあるのに」
その相馬の丁寧かつ的確な説明に、桐矢はようやく葵の提案がどれほど無謀か気付く。
少なくとも、大会の上位入賞褒賞など手に入るはずがない。カードゲームの世界大会の優勝景品のカードがオークションで軽く車が買える値段になっているのを見れば、どれほど希少価値があるかなど考えるまでもないだろう。
「大丈夫」
しかし、葵は部長らしくそんな頼もしいことを言った。正直なところこのメンバーの中で一番背が低いこともあってか、さほど頼もしさを桐矢は感じなかったのだが、それでも葵の言葉は聞いておく。
「今回のイベントは、トーナメント形式ではあるものの、予選があるんだよね。それで、その予選って言うのが既存の〈reword〉ミッションに付加されるイベントポイントの収集なの」
「……なるほど。そういうことですか」
葵のその説明だけで納得した様子の相馬だが、桐矢は一人置いてけぼりで全く理解できていない。
「あの、つまりどういうことです?」
「一か月前まで、バグ騒動で〈reword〉ミッションは全プレイヤーがBランクで停滞していたでしょう? ところが、わたしたちがそのバグを引き起こした本人である藤堂剛貴を撃破して、そのとき一緒にAランクに昇格したの」
「そしてバグ騒動が落ち着いたことで、上位ランカーのチームは軒並み昇格ミッションに挑んでいる。彼らでもあの昇格ミッションを一発でクリアできたりはしない。数十回と敗北してようやく、といったところだ。――つまり、いま彼らには総残機ゲージの枯渇が発生している」
その言葉でようやく桐矢も得心が行く。
総残機ゲージは〈reword〉プレイヤーに与えられた制限の一つで、プレイによる出撃や機体の破壊などで減少する特殊なゲージだ。
これがなくなればそのチームの〈reword〉プレイヤーはその特権を失う。戦争における資源のような役割を持っていると考えればいいだろう。
これを回復させるのはミッションの攻略などなのだが、その攻略にも消費が伴うとなれば一朝一夕で元通りにはならない。
つまり。
現状、ほとんどの上位ランカーは昇格ミッションに挑んだあまり、イベント参加できるだけの総残機ゲージの余裕がない。
「一方で、わたしたちはその余裕がある。偶然とは言え一発でアルス・マグナを撃破できたからね。――つまり、多少無茶なイベントポイント稼ぎが出来るってこと。総残機ゲージを削ってでも効率のいい狩り場をめぐる、とかね」
「そして、今回のイベント予選を勝ち残れるチームの大半は『昇格ミッションを敬遠している中堅どころ』に限定されるだろう。これくらいなら、僕たちにも十分勝機があるという訳だ」
確かに、普段のイベントよりはよっぽど勝機は濃いだろう。見立てが甘かったとしても、それなりにいいところまでは食い込めるに違いない。
だがそれでも、まだ疑問がある。
「それでもやっぱり、強者は出てきますよね。あっという間に昇格ミッションをクリアして、もう残機ゲージを回復させたチームとか」
「……そうだね。たぶん一チームだけは確実に出てくる。ついでに言えば、彼らが出てくるからこそ、他の上位ランカーは無理をしてこの大会に参加はしないと思う」
表面だけなぞれば、強者は一人しかいないという風にも取れる。だが、それはつまり、その一チームの存在で他の上位ランカーが出場を断念するようなレベルだということだ。
枯渇寸前の総残機ゲージで無理をして、トーナメントの初戦でそのチーム相手に敗北すれば、上位入賞も出来ず深刻な資源不足に陥る。下手をすればそのまま〈reword〉から即時退場する可能性だってある。これでは、リスクが大きすぎる。
それだけ、敗北の危険性を感じさせる相手なのだろう。
「チーム名はラティヌス。数字持ちと色付きだけで構成された特異なチームだよ」
葵の言葉に、桐矢は硬直する。
数字持ちと色付き。
その機体性能の高さは、桐矢の知るところだ。
彼の操るイクスクレイヴは白の色付きだったし、ひと月前に戦った藤堂剛貴のクロスワン・バスタードは黒の色付きであった。
そしてそのバスタードを相手に、桐矢は苦戦を強いられた。彼のチームがワンマンプレイをしていなければ、敗北していたのは桐矢たちの方だっただろう。
そんな色付きや数字持ちを、一度に複数相手にしなければならない。
ごくり、と唾を呑む音が鼓膜に纏わり付いた。
「そのラティヌスの対戦映像があるから、まずはそれを見てみようか。――それにトーナメントだから、運が良ければ最後まで当たらないしね」
その葵の言葉はまるで。
当たったときには敗北が確定すると言っているようでもあった。




