第1章 白き剣 -4-
「くく……。どうだった、姫さまのあられもない姿は?」
「お前、それは一歩間違わなくても犯罪だからな……っ?」
怒りというよりも照れや何やで顔を真っ赤にしたまま、桐矢はこんなことを謀った相馬を睨んでいた。だが相馬の方は、欠片も悪びれる様子はない。
「おいおい。感謝されこそすれ、文句を言われる筋合いはないな。ガードが固くて僕ですら見たことがないんだよ? 眼福と思って喜んでくれないと」
「いや、確かにそれはあるっちゃあるけど――」
「何の話をしているのかな?」
ガラッと勢い良く扉が開け放たれ、桐矢はびくりと震え縮こまった。
背後には、今度はバッチリ着替えを済ませて、怒りの炎を立ち昇らせた修羅のごとき葵立夏先輩がいた。
見られたことを思い出してか、まだ頬は桃のように紅い。だが眉間に刻まれた深いしわは、そんな恥じらいによる可愛さなど、容易く蹴散らすほどの恐怖を感じさせた。
「さて桐矢君」
「はい」
名を呼ばれただけで、桐矢は全身の汗腺から冷たい汗が噴き出すのを感じていた。ガタガタとただ震えて、判決を待つしかない。
「君は何も見ていない。わたしも何も見られていない。ディジューアンダスタン?」
「イエスアイディッド……」
思ったよりは寛大な処置であったが、ここで言われた通り記憶を消去しなければ、あの怒りの業火に桐矢は灰も残さずに焼き殺されそうだ。
とっさに記憶の最重要フォルダに入ってしまったあのハプニング映像を、桐矢は今すぐに消し去る決意をする。
「じゃあ入って」
今のやり取りで先輩の方も気を取り直したのか、紅かった顔も元に戻っていた。
「ど、どうも……」
若干だが残っている怒気に怯えながらも、桐矢はもう一度その部屋に足を踏み入れた。
そして、桐矢の顔はまたしても驚愕に染まった。
そこにあったのは、あの白い繭。アサルトセイヴ・ヴァーサスのゲーム筺体である。
しかも、数は四つ。最大四人で一チームを組むゲームなので、一セットしっかり揃えているようだ。
「あの、これ……」
いくらどこかの資産家――NICの社長が提供している形とは言え、ここは仮にも教育の場。そんなところにアーケードゲームの筺体があるなど、違和感があるどころの騒ぎではない。
「あぁ、ASVの筺体だよ。詳しくは後で話すから、ね?」
桐矢の中に色々疑問は溢れてくるが、彼女がそう言うのでそれらを棚上げにして、とりあえず話に聞くことにした。
「ゴメンね、わざわざ呼びだしちゃって。本当はわたしが迎えに行きたかったんだけど……」
「大丈夫ですよ、特に予定なかったんで」
本当は今頃ゲームセンターに行くという予定を立てていたのだが、その必要がなくなっただけなのだ。――まぁ、動機が動機だけに葵には言えない桐矢だった。
「……あぁ、せっかく招いたのにお茶も出さないのは失礼だったよね」
「あ、いえ。本当にお構いなく」
「そうはいかないよ。少なくともまだ桐矢君はお客さんなんだし。――相馬君」
「何ですか、部長」
まるでコスプレ喫茶の執事のように、相馬が右手を胸に当てて答える。さっき彼女を謀ったことなど、微塵も覚えていない様子だ。
「コーヒーを買ってきてよ。駅前のドトールでいいから」
さも平然とパシリを命令する葵だった。心なしか、その額にはうっすら青筋が立っているように見えなくもない。
「……あの、部長。学校からだと歩いて十五分、しかも学校は坂というか山の上にあるようなものなんですよ? さすがにコーヒーを人数分買って登るのは重労働じゃ――」
「あぁ、バスはお金かかっちゃうから歩いて行った方がいいよね」
「いや僕には定期券ある――」
「そんなものはないね」
相馬の意見をまるで聞かず、葵は微笑みと共に突き放した。――どうやら、先程のハプニングの元凶である相馬に対する制裁なのだろう。
「いや、あの、部長?」
まさかこんな美少年の自分がそんな重労働を……? とでも思っているかのような、信じられなさそうな顔を相馬はしている。しかし、葵は顔に騙されるようなタイプではないらしい。
「相馬君。――早く」
「サーイエッサー」
直後放たれた黒いオーラを感じ取り、相馬は踵を返してパシリに出かけた。
「ふぅ、飲み物が来るまで待ってると長いしね。先に話を始めようか」
「はい」
先程から見え隠れする先輩の恐さにびくびくしながらも、桐矢はどうしたらいいのか戸惑った様子で立ちすくんでいた。
「あ、そこにパイプ椅子あるから、適当に広げて腰かけてよ。――君の疑問には、ちゃんと全て答えるつもりだから」
葵に促されて、桐矢は適当にパイプ椅子を広げ、葵と少し斜めに向かい合うような位置に座る。話を聞く以上は正面に座るべきだろが、彼女と見つめ合うのは緊張して無理だ、というしょうもない理由からの場所選択だったりする。
しかし葵には特に気にする様子はなく、軽く咳払いしてから話し始めた。
「最近、都市伝説が流行ってるのは知っている? 例えば、何でも願いが叶うゲーム、とか」
「ありましたね。どうせ嘘だろうと思ってますけど」
桐矢は、昨日の綾野から送られたメールを思い出していた。
恋が叶うリズムゲームだとか十万円が出てくる両替機だとか、とにかく胡散臭い都市伝説のリストの中に、確かにそのフレーズがあった。
「そうだね。普通ならそういう反応だとわたしも思う。でもその一つだけは本当だ、って言ったら?」
立ち上がりながら語る葵の調子には、どこにも冗談らしさが感じられなかった。それはまるで、他人が信じられないであろう真実を語るような、切迫したものさえ感じられた。
「……まさかとは思いますけど」
「なに?」
桐矢が言葉を挟むことに嫌な顔もせず、葵は小さく首を傾げていた。
「それがこのアサルトセイヴ・ヴァーサスだ、なんて言うんじゃないですよね……?」
「察しがいいね。その通りだよ」
少々驚いたように葵は言う。
「いや、そんなことあるわけ――」
「じゃあ問題ね。この施設にはASVの筺体であるコクーンが四つ、フルセットであるよね。これが個人で買えると思う?」
葵はにっこりと微笑みながら、逃れられない現実を突き付ける。この手の筺体は確かに高価だろう。相場を知らない桐矢でも、フルセットで数百万円以上することは分かる。
「いや、確かにそうですけど。でも葵先輩はNICの社長の妹だって聞きましたよ? ASVもNIC製のゲームですし、その伝手が――」
「筺体一個のお値段はビックリ三百二十四万円です。フルセットで千三百万円近いね」
「え……?」
なんと、桐矢の予想の四倍の額だった。
「そんな高価なものを、ただの妹が欲しいってだけでもらえると思う?」
訊かれるまでもなく、そんなことは不可能に決まっている。そんなものを許容し始めたら、三日で会社は倒産してしまうだろう。
「けどまぁ」
そう桐矢が納得しかけたと言うのに、何故か葵の方がそれを覆した。
「これは本当の願いが叶ったってわけじゃないんだけどねぇ。サンプルリワードって言って、金銭換算十万円を限度にして、軽い願いが叶うっていうオマケシステムだし」
「……十万、ですか?」
先程は筺体フルセットで一千万を超えると言っていたはずだが、と桐矢は不審に思う。
「あぁ、これは元々壊れた筺体なんだよね。こういうのって修理しないで全交換しちゃうし、回収したヤツは修理したって出荷できないから、処分するしかないの。つまり壊れている段階で、価値はゼロどころかマイナス。あとは運送代が十万円未満だったから、サンプルリワードで上手く行ったって感じかな」
だったら社長の妹のコネで手に入るのでは、と思わないこともなかったが、そこら辺は葵の中で線引きがあるのだろう。――たとえば、社長の妹としての権力を振りかざしたくないとか。
結局のところ社長の妹という肩書があれば買えた(可能性がなくもない)ものなのだから、話の信頼度は少し下がった気もする。
――だけど、葵先輩は嘘を言っていないような気がする。
桐矢はそう感じた。
それに、もしもこれが嘘だとしたら、自らネタをばらしたようなものだ。そんな簡単なミスをするとも思えないし、逆説的に本当なのだろうと桐矢は結論付けることにした。
「この筺体、全部先輩が直したんですか?」
「これでも家が家だからね。わたしも技術だけはあるの。まぁそれなんかは扉のロックが緩いって不具合だったんだけど、プレイに影響はないからほっといちゃってるんだけどね。他はモニターの配線とかちゃんと直したけどさ」
「じゃあ、本当に……?」
「だからそう言ってるでしょ」
葵からは、確かに桐矢を騙しているような感じはしなかった。
この話を信じるかどうかは、まだ桐矢には判断しづらい。だが、こんな葵を信じることなら出来るかもしれない。そんな風に思った。
「でもそれが本当なら、もう少し騒ぎになっててもおかしくないですよね」
そもそもASVは、稼働開始してから一年以上経っている。
原作となるようなアニメや漫画などはなく、毎週更新されるシナリオモードが好評となって、今でもゲームランキングで一位を取るような人気ゲームだ。そんなもので願いが本当に叶うなら、都市伝説の域に留まるわけがない。
「そう。誰の願いでも叶うんなら騒ぎになっちゃう。――でもそれが、選ばれた人間だけだとしたらどう?」
あ、と桐矢は気付く。
もしもその願いが叶う者とそうでない者が混在するとすれば、話は変わる。公表してしまうことは自身の利益の損失に繋がる。そんなことを望む者がいるわけがない。
つまり利益を守ろうと自然と事実は隠され、それでも漏れ出た情報が噂となって都市伝説と化した、ということか。
「君のパイロットライセンス、名前のところにアスタリスクが付いているよね?」
「はい、確かに……」
パイロットライセンス、つまりASVの専用メモリカードだ。自分のライセンスを取り出してよく見ると、確かに登録した名前の横に不自然に『*』が加えられていた。打ち間違えた覚えもないし、これはやはり機械が意図して付け足したものだろう。
葵も同じように薄い銀色のライセンスを取り出し、『R-Blue*』という彼女の登録ネームを指してみせた。
「それが〈reword〉プレイヤーって呼ばれる選ばれたプレイヤーの証。――以上がこのASVの特殊事情なわけだけど、信じてもらえたかな?」
不安そうに葵は首を傾げていた。それもそうだろう。いくら理屈を並べたって「そんな馬鹿な」という一言で蹴散らせてしまえそうなくらい、これは突飛なものだ。
――しかし。
一通りの説明を受けて、桐矢の心情は信じる方に傾いていた。
現実的にはそんなことはありえない。けれど別に嘘だからと言って、損をするわけでもないのだ。漫画の主人公のように命を賭けるわけでもなし、金がかかるわけでもない。
そして何より、葵がこうも力説している。
それが、桐矢の信じる理由となった。
「分かりました。先輩の言うことを信じますよ、俺」
桐矢はそう答える。
「……で、本題に入りませんか?」
そして桐矢は、葵がわざわざこんなことを教える為に自分を呼び出したわけではない、と気付いていた。
他の理由。すなわち――彼女が桐矢を求める理由があるのだ。
「やっぱり察しがいいよね。――そう。わたしたちは君に親切で情報を上げたわけじゃない」
葵の目に、さっきよりも真剣みが増したような気がした。
「ASVで望みを叶えるには、特殊なミッションモードの最終ステージをクリアすることが条件なの。そしてこのASVは、最大四人までのグループで戦える」
そして、葵は桐矢へと手を差し伸べる。
「桐矢君に、わたしたちを助けてほしいの」
やはりか、と桐矢はため息をつく。
これは正直、嬉しい話ではある。昨日の葵の姿を見てから桐矢は彼女に憧れを抱いていた。そんな彼女とこんなに接近するチャンスを、葵自身の手から貰えたのだ。
だが、しかし。
彼女の手を取るには、重大な問題が残されている。
「俺がここに入る前に、大きな問題が二つあります」
「うん?」
「一つ。――俺、中学時代にバスケ部を一週間でやめました。そんくらいの根性なしです」
たった数日で膝を負傷し、先輩やら同輩やらが心配してくれたことにいたたまれなくなって、桐矢は早々に退部届を出している。
そんなへたれた過去を持つ桐矢を受け入れてもらわなければ、何も始まらない。
「大丈夫。厳しくしないし、遊びだと思って――というかゲームだけど――気軽にやろうよ」
にっこりと葵は言う。確かに彼女となら、共に頑張っていけるような気はしないでもない。
けれど、問題はまだ残っているのだ。
「二つ。俺、このゲームかなり下手ですよ?」
桐矢は昨日のチュートリアルを思い返す。
あまりにも覚えなければいけない内容が多すぎるせいで、たったいま出された指示すら忘れてしまう始末。しかも攻撃を喰らうと二重構造になっている筺体の内部が振動し、ちょっとしたアトラクション的な恐怖がある。それでビビって指示も忘れて逃げ回っているうちに、想定されたチュートリアルの時間の数倍を浪費していたのだった。
こんな様では、とてもじゃないが葵の役には立てないだろう。
「大丈夫。ASVは簡単じゃないから、チュートリアルで自信をなくすのは当たり前だし。これでもわたしも相馬君もベテランプレイヤーだから、しっかり教えてあげるよ」
一応は手をひっこめているものの、葵は笑顔で退路を断ってきた。それどころか、とても重大な一言が混じっていた。
「……教えてもらえるんですか? 先輩に?」
言質を取るように、桐矢は再確認する。
葵はその意図に気付いた様子もなく、ただ親切心から笑顔と共に最高の言葉をくれた。
「もちろん。手取り足とり、一から教えてあげるから安心し――」
「じゃあやります」
食い気味で返答した。
迷いなど一瞬で燃え散っていた。
――だって、葵先輩が教えてくれるっていうんだもの。それも手取り足とり。
そんな不純な動機ではあったが、それでも桐矢は後悔などする気はなかった。悲しいかな、男子とはそういう生き物なのである。
「……ところでここって部活の為の棟ですよね? いくら先輩は学校に許可取らなくても使えるからって、流石にゲームはまずいんじゃ……?」
葵の勧誘を快諾した後で、根本的で重大な事実を桐矢は思い出した。ASVが願いを叶えようがなんだろうが、所詮はアーケードゲームである。どんな手法で手に入れようとも、それが学業に関係ない以上は、施設内に持ち込んでいい理由にはならない。
「あー、わたしたちはIT研究部っていう名前でちゃんと部登録してるよ。いわゆるコンピュータ部ってところだけど、実際コンピュータにはほとんど触らずにASVばっかりやってるんだけどね」
「いや、なおさらゲーム駄目じゃ……」
「桐矢君。運動部だってね、更衣室でモンハンやってるものなの。これもその延長線上よ」
「いや絶対に駄目な方向の延長線ですよ……」
桐矢はそういうが、葵はさして気にする様子もなくからからと笑っていた。
「まぁとにもかくにも。――入部ありがとう、桐矢一城君。これから一緒に頑張ろうね」
「はい」
再度差し出された葵の柔らかな手に、桐矢は少しためらいがちな握手で応えた。