第1章 白き剣 -3-
そんなわけで無事にレポートを写し終え、職員室前の提出ボックスに桐矢はそれを置いた。
これで桐矢は相馬に一つ借りがある状態になった。なので、今度は相馬の「ついてこい」という頼みに従う番だ。
「……で、どこに行くんだ?」
「部室棟だよ」
相馬と短い会話を交わしながら、桐矢は廊下を歩いていく。
「……、」
「……、」
しかし初対面の二人だ。勝手に信頼感は芽生えたものの、そうそう会話があるわけもなく、ただ気不味い無言の時間が流れていた。
――何か話しかけた方がいいよな。しかし、こんなイケメンと話が合うのだろうか……。
といった具合に、何故か一方的に劣等感を抱きながら葛藤する桐矢だった。
「……とりあえず、何か会話をしよう」
そんな中で相馬が、気の利いたことを言ってくれていた。無言の空気にいたたまれなさを感じていた桐矢にとって、正直とてもありがたい提案だ。
「つっても、何を話せばいいのか……」
「そうだなぁ……。あぁ、じゃあこれはどうかな?」
そして、美少年の相馬旭はこうのたまった。
「おっぱいは大きいのと小さいの、どっちが好みだい?」
時間が停止した気がした。
そして桐矢は冷静になってもう一度今の言葉を反芻し、それから相馬の綺麗に整った顔をじっくりと眺めた。
眉は細く、二重で切れ長な瞳。鼻は高く、顎は切れそうなほどシャープである。
間違いなく美少年で、きっと言葉一つで何人もの女子を落とせるであろう、そんな魅力を持っている男だ。
それ程に容姿端麗な彼が、もの凄く平然とした顔で、さも当然のような声で、下ネタをぶっこんできたのだ。
「――は?」
「だから、巨乳と貧乳ではどちらが好みなのかな、って訊いたんだけど」
桐矢は訊き返してみたものの、相馬は言い方を変えてより露骨に訊いてきた。
「……どうした、相馬。おかしなものでも食べたか?」
「今日の昼食はサンドウィッチだったけれど、おかしなものではないね」
「じゃあ、アレか。俺みたいな普通の人間に話を合わせようとして、無理をしてくれたんだな? だが言うぞ。俺はそういう下ネタは得意じゃない」
「何を言ってるのさ、桐矢君。おっぱいは上半身にあるから下ネタじゃないよ」
だが、彼の下ネタは一向に止まる気配がなかった。
「……ちょっと待ってくれ。その爽やかな顔や声とお前の放った言葉とのギャップに、俺の脳が追いつかない」
「やれやれ。いいかい、桐矢君。男には二種類の人間しかいないんだよ?」
「何の話なんだよ……」
「それは女の子に興味のある人間と、興味がないふりをしている男さ」
「違う、それはただの一択だ」
「言いかえればエロい奴とムッツリな奴だね。そして僕は前者だ」
相馬の輝くような笑顔と共に放たれた断言を聞き、あぁ、と桐矢は心の中で少し嘆きながらも確信した。
――こいつは、ただのエロい残念イケメンだ。
「……お前、馬鹿だろ?」
「よく言われるよ。何でだろうね? 僕はこんなにも純粋なのに」
整った顔の下に隠された一点の曇りもない欲望の塊に、桐矢はいっそ感嘆の声を上げそうになってしまったくらいだ。
そのおかげか、美少年に話しているという感覚はなくなり、桐矢もずいぶん気楽に話せるようになっていた。
「まぁいいや。で、俺は何の為に部室棟に連行されてるんだ?」
「とあるお方のお呼び出しさ。――君が大好きな人だよ」
「は?」
思わず間抜けな声で聞き返してしまった桐矢だった。
その様子を見て、相馬はにやりと笑う。
「葵立夏先輩、さ」
とてつもない爆弾が投下された。
「先輩が、俺に用事……?」
「そう。嬉しいだろう?」
「そりゃ嬉しいに決まって――ってちょっと待て! いつ俺が先輩を好きって言った!?」
「今だね」
「あ……」
完全に自ら口を滑らせていた。
「いやでも、ただの一目惚れって言うか、まだ好きとか恋とかそういう段階じゃないっつうかだな……」
「好きじゃないのかい?」
「好きじゃないわけない、けど……っ!」
釈然としないが、どうやら相馬には桐矢の小さな恋心など筒抜けのようだ。こういう勘の良さが、きっと女性には受ける点なのだろう、と桐矢は思う。
「あ、昇降口で上履きから外履きに履き替えてくれないかい?」
「部室棟までの道なら上履きオーケーだろ」
桐矢たちが通う県立高校では校舎と部室棟は離れている。しかし敷地内のアスファルトならば上履きオーケー、という暗黙の了解があるのだ。
「あぁ、そっちの部室棟じゃないんだ。校外にある部室棟で、新棟って言ったりもしてるかな。正式には文化活動会館とかいう名前だったけど」
「校外……?」
いよいよ話の意図が分からなくなってきたが、しかしレポートの写本という恩がある。その程度の不明瞭な点は、桐矢がここで引き返す理由にはならなかった。
言われるままに、桐矢はスポーツブランドのスニーカーに履き替え、校門をくぐる。
それから学校の敷地に沿って坂を下っていくと、テニスで使うハードコートがあった。その横も過ぎて更に歩いていくと、一つの建物が見えた。
ビルと呼ぶにはあまりに低く、しかし住宅と呼ぶには些か以上に大きい。まさに校舎と呼ぶのが妥当な大きさの外観だった。
一つ校舎らしくないところを上げるとするなら、その綺麗さだろう。本校舎が築三十年以上過ぎているのに対し、これはつい数年前に完成したばかりのように見える。
「さぁ、どうぞ。ここは土足で構わないから」
相馬が一歩先を行き、いかにも校舎らしい大きなガラス張りの扉を押して構えていた。それに軽くお礼を言いながら中へ入るが、やはりそこはただの校舎だ。
「……何だ、ここ?」
「とある資産家の卒業生が建てたんだよ。部活動の泊まり込みの練習だったり、文化祭の準備だったりに役立てる、宿泊兼部活動施設だそうだよ」
「そんな施設がうちにあったのか……。聞いたこともなかったけど」
桐矢はまじまじと見つめた。確かに本物の校舎よりも造りがしっかりしているらしく、お金をかけたことはよく分かる。
「まぁ正式にはうちの高校の施設じゃなくて、その資産家の持ち物を開放してるって形だしね。それに着工が二年前で完成したのが去年、ところが使用に当たる生徒のマナーが悪すぎて、学校側がその年に使用禁止令を出した残念な物件だから」
「……ひょっとして、これを建てた資産家って、葵先輩のお兄さんなのか?」
「その通りだよ。今じゃNICの社長になった理人さんが建てたもの。管理人は葵立夏先輩になっているから、学校の許可とか関係なく使用には問題ないんだよ」
話しながら階段を上っていき、とある部屋の前に来た。中々に広そうな部屋だ。外から見た感じでは、教室二個分はあるだろう。
「とりあえず中に入ってくれよ。中で部長が待ってるんだ」
「はいはい」
相馬に促されるままに、桐矢は戸をガラリと引いた。
そして。
やはりと言っていいのか、葵立夏はそこにいた。
――着替える途中の、あられもない姿で。
本来なら見えてはいけないくらい、桐矢の視界の比率を肌色が占めていた。
下はどうにかミニスカートを穿いてはいるが、上半身は薄い水色の綺麗なレースの下着一枚である。手には真っ白なブラウスが握られていて、動きは完全に停止してしまっている。
「――え?」
突然の出来事に、桐矢は戸を閉めるどころか背を向けることも出来ず、ただじっくりと葵の身体を見つめてしまっていた。
体育か何かがあって遅くなり、教室で着替え損ねたのだろう(桐矢たちの高校には更衣室がなく、体育のときは二クラスで男女別に分かれて更衣を行う)。そういうときは部室やトイレでこっそり着替えるのはよくあること。こうして葵が着替えていることは、何もおかしなことではない。
しかし真っ白でとても綺麗な肌だった。まさに白磁のような美しさである。
少し控えめな胸を覆うスカイブルーの下着は清楚なデザインで、葵のイメージ通り――
「桐矢、君……?」
「――ッは!? ち、違います! これはえっと――」
「いいから、後ろを向いて扉を閉めてくれると助かるんだけどな。あぁ、それと」
葵先輩はブラウスと両腕を上手く使って身体を隠すと、赤らんだ顔でにっこりと微笑んで、
「正座」
「了解しました」
ぴしゃりと即座に扉を閉めて、葵の放った極寒のセリフを思い出して震えながら、桐矢は冷たい床の上で正座した。