第1章 白き剣 -2-
翌日のこと。
放課後の教室で、桐矢は幼なじみにそのゲームの話をしていた。
「ほっほう。以上が、キリ君の昨日の行動だというわけだね?」
ずここー、と不機嫌に紙パックのコーヒー牛乳をすする音がした。
綾野世梨那。桐矢の幼なじみにして、昨日の彼にゲームセンターに行くように言いつけた、その張本人である。
高一女子とは思えないくらいの童顔だが、格好は少しでも高校生らしく見せようとしているのか、金髪に緩めのパーマを当て、制服のスカートもかなりミニに改造していた。――が、それでも幼さは微塵も消えることなく、むしろ背伸びしている感しかないのだが。
「で、キリ君はその美人さんに一目ぼれしたと?」
「いや惚れたとは言ってねぇだろ。でもまぁ、ゲーセンにあんな美人がいるなんてなぁ、とは思ったけど」
椅子に前後逆に座り、背もたれの上に手を組んだ桐矢は、その問いに適当に答えていた。
ちなみに、キリ君というのは綾野の付けた桐矢への呼び名だ。小学生の頃からのニックネームだが、彼女以外に定着する様子はない。
「それで、わざわざそんな話をするっていうことは、その女子が誰かを教えてほしいってことだよね?」
「察しがいいな。さすが綾野だ」
「いやぁ、長年の付き合いだしねぇ。――それに、キリ君はあたしに世間話とかしたことないし。金欠だからアレおごってくれだの、宿題終わってないから見せてくれだの、テスト勉強手伝ってくれだの、いつもそんなのばっかりでしょ?」
そんなことないぞ、と言おうとしたが、どれほど思い返してもみても、自分から綾野に話しかけたときに無駄話をした覚えがない桐矢だった。
「……ゴメンなさい」
「まぁあたしは寛大だから許してしんぜよう。んじゃ、その女の人の特徴は?」
素直に頭を下げたことに気を大きくしたらしく、少し威張った様子で綾野は頷いている。
「同じ学校の制服だったな」
「もし違う学校だったら、あたしが知るわけないでしょ。言われるまでもなく、そんなの分かってるよ。――でもゲーム好きそうで、黒髪ロングの美人さんでしょ。そんなのうちにいたかな……?」
綾野はそう言いながらも、何人か思い浮かべているようだった。
彼女は本当に顔が広い。桐矢のような一般生徒からギャル仲間、果ては近所の幼稚園児から縁側で膝に猫を乗せたご老人まで、多様な人種と知り合いなのだ。
そんな彼女だからこそというべきか、すぐに何かに思い至ったらしい。
「――あのさ。一人、パッと思い浮かんだ人がいるんだよねぇ。キリ君が一目惚れしそうなくらい綺麗で、ゲーム好きかもっていう条件を、あっさりクリアしそうな人」
そう答える綾野は、まるで渋柿でも食べたかのような顔をしていた。
「誰だよ、それ」
「葵立夏先輩だよ」
飲み干したコーヒー牛乳からストローを引き抜き、それでズバリと桐矢を指した。
まるで「これでもう分かっただろう!」と言わんばかりではあったのだが、桐矢にはそんな名前の女子生徒に心当たりはない。そもそも部活に入っていない桐矢は、先輩との交流など皆無で、学年が違えばもう名前など一人も分からないのだ。
「……いや、誰だよ」
「は? キリ君、何言ってるの? 葵先輩なんて超有名じゃんか。だってあの『葵』の苗字なんだよ?」
心底「ありえない」とでも言いたげに、嘲りと憐れみの混じった顔で綾野は補足していた。しかしそれでも、桐矢にはその名に思い当たる節がなかった。
「……スマン、だから誰なんだよ?」
「だからぁ、葵って言ったらNICの社長じゃんか。葵理人、これが社長の名前。葵立夏先輩は、その社長の妹様だよ」
「……は? NIC?」
今度もまた疑問を口にしていた。だが、今度のそれは桐矢が無知であるからではない。
「NICって、あのNICか?」
「他にどのNICがあるの?」
呆れたように綾野は言った。
NIC。現在の通信や映像・音声技術のほとんどに革命をもたらし、あのゲームセンターにおいてその技術をいかんなく発揮していた、あの大企業である。
超高画質映像データ通信対応の周波数の開拓、データの圧縮・解凍の新方式の発明と超高速化、それら全ての低価格化など、根本的な通信技術だけでも様々な方面に対し、改革・革命を起こした。
たった二年で、文字通り世界の通信を統べる世界的大企業になったほどだ。そんな恐るべき成長を遂げたことでも、もはや誰もが知っている国際企業である。
「そこのご令嬢がうちの学校にいたのか……」
「令嬢じゃなくて妹だってば。NICの社長ってかなり若いんだから」
「ふぅん。しかし俺らの学校って、そんな社長の妹が来るくらいリッチだったか?」
「そんなわけないじゃん。うちは安い上に何の特色もない、ただのちっぽけな公立高校だよ」
校長が聞いていたらこめかみのあたりの血管が切れそうな発言だったが、桐矢とてその意見には同意するので、訂正させる気はなかった。
「NICは設立四年目だよ。先輩だってその頃は庶民だったし、世界シェア独占したのは二年前ってことは先輩が受験生の頃だよ? そのときにいきなりお嬢様学校に志望校変えるのは、流石に難しいでしょ」
「なるほど。それは確かにそうだ」
とは言え、社長の家族と言うだけはある。あの品の良さはそういう真面目な家風から来るものか、それともここ数年で大人の社交の場に駆り出されて培われたものか。
「――とりあえず、キリ君の釣り合う人じゃないよね」
「……言うなよ、目を背けてたんだから」
内定の得られない就活生のように、桐矢はがっくりとうなだれていた。
「背けきれない現実を見せてあげようか? ほれほれ」
そう言いながら綾野は手鏡を取り出し、桐矢に見せつけてくる。
鏡自体が小さいからそこまで映りはしないが、背も高くはなく、顔に関しては何の特徴もない。優しそうと言われる眼だけが、せいぜいの救いである。
平凡極まりない凡人の顔だ。それほど卑下するような顔でもないが、しかし社長のご令妹と釣り合うような顔立ちではないのは確かである。
「悪いこと言わないからさ、葵先輩はやめといたら? NICはゲームも作ってるからそういう知識あるかも、と思って葵先輩の名前は出したけどさ。ゲーム好きかって言われたら、そうは思えないし、キリ君と趣味が合うとも思えないよ」
「……いや、きっと俺にもチャンスはある」
さりげなく酷いことを言われた気もしたが、自覚はあるのでツッコめなかった。代わりに、ただ無意味に自分を奮い立たせようと、ぐっと拳を握り締めていた。
「とりあえず今日もゲーセンに行くかな」
「はぁ……。いいけどあんまりゲーセン通いつめて、ストーカーとか言われないようにね?」
「うっせ。もう一回会えたらそれで満足するから。別にいいんだよ」
「告白しようとか考えない辺りが、キリ君らしいよね……。そのくせ、負けず嫌いなのが矛盾してて腹立つんだよねぇ」
やれやれとでも言いたげに、綾野は肩をすくめていた。
だがそのことは桐矢も自覚しているし、別段直そうとも思っていない。
負けたくはないとは思うが、勝ちたいわけではない。要するに負ける前に逃げ出すことを、桐矢は何とも思っていない。そうやってあっさり諦められてしまうところが、桐矢の長所でもあり短所でもある。
「まぁ『全国優勝しなければどっかで負けるんだから』って言って、入部一週間でバスケ部を辞めたという中学時代の思い出はいいとして」
「いまその話は関係ないだろ。もうちょっと情報ないのかよ」
心の底から呆れたような、まるで駄目な弟を持った姉のようなため息と共に綾野に対し、桐矢は話を元の軌道に戻した。
「でも、その社長の妹さんがゲーセンで何してるんだろ……?」
綾野はストローを煙草やキャンディーの棒のように咥えながら呟いていた。
確かに彼女――葵先輩に、ゲームセンターという場所は似合っていなかった。それは桐矢も同感だ。
「さぁな。あのゲームは確かNIC製だったし、自社製品のチェックとか? もしくは社長の妹ってことで溜まったストレスの発散とか」
「そんなところかなぁ……。――ところで」
綾野は口元のストローを抜き、それで桐矢の手元を指した。
そこにあったのは、真っ白く絹糸のような光沢のあるカードだ。
サイズや厚みはIC定期券くらいで、その中央に刻まれているのは『1-Toya*』という彼のユーザーネーム。右上には『Assault S.A.V.E V.S』というロゴが、やや控えめなサイズで描かれている。
「さっきからちらちら見せてるその白いカードは、いったい何なの?」
「このカードか? これは俺の命より大切なものだ」
胸を張って答える桐矢に対し、
「うわぁ、キリ君の命って軽くて薄いんだねぇ」
と、綾野は心底呆れきった様子だった。
「……お前、もうちょっと言葉選んでくれない?」
「だったら真面目に答えてよ。それ何なの?」
綾野は茶色い液体の滴るストローで、もう一度その白いカードを指した。
「これはな、さっき言ったASV――アサルトセイヴ・ヴァーサスってゲームの専用メモリカードだ。正式にはパイロットライセンスとかいう名前があったな。――ちなみに、アサルトセイヴっていうロボに乗って戦う対戦格闘ゲームだから、アサルトセイヴ・ヴァーサスだとさ。分かりやすいだろ?」
「さっそくプレイしたんだ……。あと補足情報は別に聞いてないし興味もないよ……」
葵を一目見てからの行動の速さに、綾野は驚きを通り越して若干蔑んでいるようだった。
「ただな、チュートリアルプレイするだけで結構時間食ったんだよ。すごく操作が複雑で訳わかんないし、装備とか右手と左手で二つずつある上に、特殊装備とかサブ装備とか、もうさっぱりだったよ」
「……そんなに時間かかったんだ?」
ぴくっと綾野の眉が動いた気がしたが、桐矢はそれに全く気付かず、ただ素直に返事をしていた。
「あぁ。本当はもっと早く終わる設定だったらしいんだけどな。俺がチュートリアルプレイを終えて、このライセンスゲットできた頃には、条例でゲーセンにいれる時間ギリギリだった。もとからゲーセンに入ったのも、ちょっと遅かったし」
「……ほっほう。ところでキリ君。昨日の君は何故ゲーセンにいたのか、覚えているかい?」
「は? それはもちろんお前からの指令、で――……」
そこまで言って、桐矢はようやく自分の失言に気付いた。
問:なぜ桐矢はゲームセンターを訪れていたのか?
答:綾野世梨那に都市伝説の検証を命じられていたから。
つまり、桐矢は自ら綾野との約束を破ったことを吐露したわけだ。
「あ、えっと、違うんだ綾野!」
「言い訳はいらないよ」
満面の笑みを浮かべる綾野。その輝くような笑みは、しかし真っ黒な光を放っていた。
「そうかぁ。キリ君は幼なじみのあたしとの約束なんて破っちゃうんだね? こんな風に!」
「あぁ!? それは今日提出のレポート!?」
綾野は机に入っていた桐矢のレポートを一瞬で盗み取り、ビリビリに破いて紙吹雪に変えてしまった。
そのレポート課題は入学早々から数学の授業で毎週宿題として出されるもので、提出しなければ成績があっという間に下落するという、大変貴重なものだ。
「元はと言えばそれを写さしてあげる代わりに、都市伝説を検証するって契約だったはずだよ。ならばこれは必然さ! ハッハァ! さぁ早く拾わないと風に浚われて、セロテープで繋ぐことも出来ないぞ!」
「何て惨い真似を!」
笑いながら綾野は元レポートの紙切れを宙に舞い上げて、桐矢は涙目になりながら慌ててそれをかき集めていた。
「……あの、桐矢君」
そんなとき、教室の前にいた女子が少し大きな声を出した。騒ぎ過ぎた二人を注意する――のではなく、どうやらただ呼びかけているようだ。
「ん?」
レポート(残骸)を集める手を止めて、桐矢は声のする方を向いた。気が付けば、その辺りにレポートを仕上げる為に残っていたクラスメートの内の女子たちが集まって、少々ざわついている様子だった。
「呼んでる人が……」
「やぁ、君が桐矢一城君かい?」
そんな女子の波をかき分けて、ミントのように爽やかな声がした。
キラキラと星を飛ばしながら花束を背負っていそうな美少年が、そこにはいた。
細くやわらかそうな、少し長めの色素の薄い髪。背も高く細身の身体は、きっと女子の受けはいいだろう。それは眉目秀麗なその顔立ちも同様だ。
制服をまるでホストのように着こなす美少年は、クラスの女子たちを魅了しながら颯爽と桐矢の前まで歩いてくる。
「いま暇かな?」
「……どなたですか?」
思わず敬語になってしまうほど、男の桐矢から見ても彼の美しさは異常だったのだ。
「おっと、失礼したね。僕は1年2組の相馬旭だ」
完璧なスマイルで自己紹介をする美少年――相馬に、桐矢は問いかける。
「相馬っていうと、アレか。入学早々にファンクラブが出来たという噂のイケメンか?」
「はは。別にイケメンじゃないよ」
この美少年がイケメンじゃなかったら自分はどんな底辺なのだろう、と思った桐矢だったがそんなことを口に出す前に考えていた。
――いったいこいつは、俺に何の用だ?
誰かに押しかけられるような覚えなど、桐矢には全くない。だから、その疑問は不信感にも似たものだった。
「少しついて来てくれないかい? ――そうだなぁ、そのレポート課題は、後で僕のものを見せてあげるからさ」
「喜んでどこまでもついていこう」
が、そんな不信感はあっという間に吹き飛んだ。なんなら『生まれたときからの大親友』くらいの信頼が桐矢の中には芽生えていた。
「ありがとう」
「こちらこそだ」
救世主と熱い握手を躱し、桐矢は細かな燃えるごみをほったらかしにして教室を後にした。
後ろで綾野が「キリ君の裏切り者めーっ!」と叫ぶ声がするが、気にせず桐矢は南中した陽の差し込む廊下を進んでいくのだった。