第2章 聖戦の始まり -12-
「今日は桐矢君の調子が悪いね」
「すいません……」
昼休憩、葵の合宿中最後の手料理となるおにぎりを食しながら、桐矢は頭を深々と下げる。
今日のEXPと総残機ポイント稼ぎは、すこぶる調子が悪い。EXPはまだいいのだが、総残機ポイントは稼いだ分、桐矢が撃墜されてしまっている状態だ。
「まぁ先約があったの忘れちゃってたってたら、罪悪感とかで集中力も落ちるよね。言ってくれれば先に帰ってもよかったんだけど」
「それが出来たら苦労はないんですよ……」
初日の夜にあんな顔をされて、堂々と合宿を途中で抜けられるほど桐矢は図太い神経をしていない。
「まぁ午後からは気を取り直して、ね?」
「分かってますよ。こういうのも今までに何度かあったことなんで、まぁ慣れてるって言えば慣れてますから」
「やれやれ、女性との約束を何度も忘れるなんてそれでも男かい?」
「覗きを働こうとした相馬君は黙ってて」
じとっと葵が睨むと相馬はさっと気配を消して黙りこんだ。
そういう何でもない雰囲気に、くすりと桐矢は笑う。
「さて。さっさと食べて再開しましょうか」
「だね」
わいわいと、賑やかな昼食会は進んでいく。
だが、しかし。
桐矢はもう一つとおにぎりへ伸ばした手をピタリと止めた。
それは何かあったとか、明確な理由によるものではない。
今までも何度か感じた感覚。理由も何もかもを無視した本能的な警告が、頭の奥で微かに鳴っているような錯覚だ。
――だがそれは、外れたことはなかった。
――この瞬間でさえも。
「楽しそうに食事してるなぁ、俺も混ぜてくれよ」
この場にいるはずのない、四人目の声。
だが確かに、どこかで聞いたことのある声だった。
「誰ですか?」
葵の声が途端に低くなる。
視線の先、声のした方でもある入口を見れば、そこに一人の屈強な男が立っていた。
詰襟の制服だがホックはおろかボタンも一つたりとも止めておらず、その服装だけでもきっと性格が粗暴であることは垣間見えた。
髪はオールバックにして、目つきは獰猛に鋭い。体格など、ここにいる三人がかりでも敵わないことが分かり切っているくらい規格外だ。
「あなたは、ゲームセンターで……」
葵は確信を持っていた。これだけの体格を持ち、これだけの威圧感を持つ者はそういない。この男は、葵が先週ゲームセンターでぶつかった者で間違いない。
――だが桐矢にとって、その男はそれだけではなかった。
「な、んで……」
桐矢は、思わずそう呟いていた。
覚えている。
忘れるわけがない。
その粘つくような、吐き気すらする笑みを、桐矢は一度だって忘れたことはない。
彼に逃げ癖が付いたのは、この男に負けたくなかったからなのだから。
「何で、あんたがここにいるんだよ……っ!? 藤堂先輩!」
桐矢は叫ぶ。
その男の名は、藤堂剛貴は。
中学時代、桐矢から居場所を奪った張本人なのだから。
「――何だ? 俺を知ってんのか。……見たことある顔だな」
だがしかし、藤堂は桐矢の顔をまじまじと見つめているが、誰だかは分かっていない様子だった。
ただ目ざわりだったから、羽虫のように潰された。
そう見せつけられたような気がした。
「あぁ! 思い出した、思い出した。中学時代に一週間でバスケ部辞めた奴か。あのあと部員の間でも笑いの種になってたからな、結構覚えてんだよ」
安い地上げ屋のような、下卑た笑いだった。
分かっている。
この男の笑みは、相手の神経を逆撫でし逆上したところを叩き伏せて、精神的に完膚なきまでに潰す為のものだ。事実、そうやって中学時代、潰されそうになったのだから。
分かっている、のに。
握り締めた拳は、行き場のない怒りで震えている。
「部外者の立ち入りを禁止していないとでも思っているんですか? 常識的に考えてください」
葵は冷静な声で、その男と対応を図ろうとしていた。
もしかしたら桐矢の怒りを察して、穏便にことを済ませる為に、勇気を振り絞って前に出てくれたのかもしれない。
「堅いこと言うなよ、同じ高校生じゃねぇか」
だが葵の言葉など軽く無視して、慣れ慣れしく汚い靴でその男は上がり込んできた。
ここはただの部室でしかない。それでも、桐矢にとってここは大切な場所だ。誰にも渡せないし、誰にも汚されたくない大事な場所なのだ。
それを目の前で踏みにじられて、平静を保っていろという方が無理だ。
それでも、拳を振り上げられない。
理性が働いているのではない。――負けることが、分かっているからだ。
「だいたい、学校の施設にこんな筺体を持ち込むお前らの方が、常識知らずだろ?」
藤堂は葵が丹精込めて修理した筺体を、武骨な指でコツコツと叩いていた。
不躾なその態度に、部室の中の空気が一瞬張り詰めたような気がした。
「――それで、その藤堂さんはここに何の用事ですか?」
相馬はにっこりと、完全に作り上げた感情のない笑みで問いかけていた。そのコントロールの上手さに桐矢は驚くと同時に、鷲の目のように鋭い瞳に、仲間でありながら気圧されそうになった。
「いや、部活動でこのASVをやってる連中がいるって聞いてな。〈reword〉プレイヤーだろうと思って挨拶に来たんだ」
どこまで本当かは分からない。だが、挨拶に来たと言うのは嘘だろう。
このゲームは総残機ポイントが尽きれば二度と〈reword〉には戻れないし、何より望みを叶えられるのは最初にクリアした者だけ。
つまり自分以外のプレイヤーは邪魔で、対戦を無理やりとりつけて総残機ゲージを尽きさせれば、強制退場させられるわけだ。
リアルで顔を合わせるなど同じチームメンバー以外ではデメリットしかない。
しかし本来の目的は何かとか、そんなことは分からないし興味もない。
ただこの男は危険だ。
目的なんかいらないのだ。
目障りだから潰す、そういうことが、平気で出来てしまうのだから。
「――と思ったんだが、こんな有名人に会えるなんてな」
粘ついた笑みで、藤堂は葵へ視線を向けた。
下衆な目つきで、舐めまわすように彼女を見る。
「NICの社長の妹さまだろ、テメェ」
ビクッと、葵の身体が硬直するのが桐矢には分かった。
「……だとしたら、何なんです?」
「知ってるぜ? あんまりにも兄貴にベタベタくっついて邪魔ばっかりするから、愛想尽かされて逃げられたんだろ。結構面白い話じゃねぇの」
にやにやと笑いながら、藤堂はその最低な言葉を葵へぶつけていた。
その人が一番踏み込んでほしくない場所だと知った上で、この男はそこを踏み躙っている。その底意地の悪さが垣間見える、いやらしいダミ声が耳に障った。
「テメェも懲りねぇな。同じことを後輩にやろうってか? それとも今度は先輩の威厳振りかざして、兄貴の七光っていう餌でも吊ったか?」
藤堂の言葉に、葵は震えるだけだった。
それは彼女自身にも、きっと自覚があったのかもしれない。「そんなはずない」と自分に言い聞かせていたけれど、その可能性を彼女は否定し切れていないのかもしれないのだ。
だから、葵は何も言わない。ただ震えて、こぼれそうになる涙を必死に堪えている。
「――何にも知らねぇあんたが、先輩を語ってんじゃねぇぞ」
だから、桐矢の怒りは簡単に沸点を超えた。
許せるわけがない。
いきなりやって来て、ただ自分に喧嘩を売りに来ただけならまだ構わない。何を言われたって、自分だけなら耐えられるし、目を伏せて逃げられる。
だがそれでも葵を傷つけられることだけは、看過できない。
「何しに来たかは知らねぇし興味もねぇよ、あんたなんか。さっさと謝って出てってくれ」
「あ? テメェ誰に口利いてやがる」
肉体的に、桐矢と藤堂では勝負にならないだろう。拳一発で桐矢は簡単に吹き飛ばされるだろうし、藤堂の身体なら桐矢が殴ったってびくともしないはずだ。
だがそれでも、桐矢はこの場で引くわけにはいかなかった。――あるいは、引くと言う思考さえなかったかもしれない。
だがしかし、そんな桐矢の怒りなど蹴散らせるだけの圧が、藤堂にはある。
「ASVは玩具じゃねぇ。たった四人だけが望みを叶えるバトルロワイヤルだ。そこに兄貴の威厳を持ちこんでやがるガキがいて、誰の怒りも買わねぇとでも思ってんのか」
「先輩は兄の威厳なんか持っちゃいない。ここにある全てのコクーンは、サンプルリワードで手に入れたものだ」
桐矢の怒りを知っていながら、それでも藤堂は笑い飛ばす。
「誰がそんな話信じるってんだよ」
「だったら言いたいことは済んだんだろ。もう出てけよ。これ以上あんたみたいなやつの言葉を聞く気は――」
「グズが、下手に出てりゃ調子に乗りやがって」
何かが割れる音がした。
藤堂がその拳を筺体に叩きつける音だ。
「俺は事実を言っただけだろうが。――それとも、図星だから腹立ったふりでもしてんのか」
「んだと……ッ」
視界が赤く染まったような気がした。
理性なんか、とっくに弾け飛んでいた。
だが思わず掴みかかろうとした桐矢の手を、引き留める力があった。
クン、とそれは少しくらい力を入れただけじゃ、振りほどけない。
ゆっくりと、桐矢は視線を向ける。
――葵の手が、桐矢の袖を握り締めている。
「やめて、桐矢君」
「無理に決まってんでしょ。だってこいつは先輩を――……っ」
桐矢はそこで言葉を失った。
透明な滴が、床へ落ちる。
溢れ出るその真珠のような滴は、とめどなく頬を伝っていく。
だと、言うのに。
彼女の口元は、震えながら、それでも笑顔を作ろうとしていた。
「わたしなら、大丈夫だから……。だから、桐矢君が、人を殴ったり、殴られたりするのは、ダメだよ」
必死に笑顔を作って、少しでも桐矢をなだめようとするその賢明な姿は、きっと誰よりも美しく、誰よりも痛ましいものだ。
「わたしはもう、いいから。――だから謝って、それで終わりにしよ? ね?」
あぁ、と桐矢は嘆く。
湧き上がる怒りは、消えていった。
その彼女の涙を見て、それでも笑おうとする姿を見て、燃え盛る怒りの業火は跡形もなく消え去り。
――そして、もっと冷たい感情が押し寄せる。
「……すいません、藤堂先輩。言葉が過ぎました」
「あぁ、分かれば――」
「でも俺たちは、〈reword〉プレイヤーですよね」
葵の手を振り払い、藤堂との距離を詰めて睨みつける。もう一度伸ばそうとした葵の手は、桐矢に届かない。
もう桐矢は止まらない。これ以上、止まってやるわけにはいかない。
「このゲームで気に食わないことがあるなら、それでケリつけましょうよ」
何か夢があるわけじゃないし、努力なんてしたこともない。怠惰で、ただ平和に毎日を遅れればそれでいいと思っていた。
――それでも。
――桐矢にだって、譲れないものがある。
――ここで退くことは、負けるよりもよっぽど惨めだ。
「あんたに対戦で勝ったら、葵先輩に頭下げてもらえませんか」
葵の為なんて、そんな優しい気持ちじゃない。
これはただの自己満足。
だからこそ、桐矢の瞳に在るのは何よりも冷たく鋭い刃だ。
「……それを俺が受ける道理があるか? ――と言いたいところだが、条件次第で受けてやらんこともねぇぞ」
「条件……?」
「テメェらのこの筺体を賭けろ。それなら、このクソつまんねぇ勝負を受けてやるよ」
その藤堂の高慢な言葉に応えたのは、桐矢ではなかった。
「……そうやって煽って対戦に持ち込み、このコクーンを賭けに引っ張り出そうって腹だったんだろう? NICの社長のご令妹を脅したりしたんじゃ社会的に分が悪いから、正式なトレードとして。じゃないとここに来た意味が分からない」
冷ややかな、氷のような相馬の声だった。
いつものふざけた調子の声でも、まして美少年らしい着飾った声でもない。雄々しく猛る、まるで獣のような声だ。
「……だとしたら、何だってんだ?」
「あぁ、別に対戦は構わないさ。あなたの思惑が何であろうと、僕は対戦に賛成だ。部長が反対したって多数決で対戦は決定事項だね」
「はっ。なら決まりだ。勝負は今日の四時でいいか」
くるりと背を向けた藤堂。彼の用はもう済んだのだろう。
「――テメェ。名前、何だったか?」
背中越しに、藤堂は桐矢へ声をかける。
「桐矢一城だ、後輩の名前くらい覚えとけよ」
「ハ。尻尾ォ巻いて逃げ出したくせに、偉そうに説教かよ」
その背中に、桐矢は吠える。
「葵先輩を泣かせやがったんだ。――お前にだけは、死んだって負けらんねぇよ」
「言ってろガキが。テメェらのお遊び、まとめて終わりにしてやるよ」




