第2章 聖戦の始まり -10-
どうにかこうにか誤解を解き、相馬に制裁(来週末から全機回し宣告)が下された夜のこと。
宿泊可能ということもあって寝袋ではなく布団があり、しかも畳の部屋もあった。その男子用の就寝場所で、桐矢は布団に入ってスマホをいじっていた。
「ねぇ、桐矢君」
「何だ?」
「これを解いてはくれないか?」
桐矢はしぶしぶ相馬の方を向いた。相馬は巻きずしのようにぐるぐると布団に巻かれ、上からビニール紐で縛られた、いわゆる簀巻き状態だった。
「無理だよ。だって不可抗力で見た分をチャラにするから、っていう交換条件で葵先輩にお前の拘束を要求されたんだし」
「それでも布団の中の素の僕まで、わざわざコンビニで買ったなわとびで縛る必要があったのかい? 言っておくけれど、僕はMじゃないんだよ?」
「お前は簀巻きだけじゃ抜け出せるだろ?」
「なぜ知っているんだい……?」
本当に抜け出せるのかよ、まさか今まで小学校とかの修学旅行でもやらかしたんじゃないだろうな……と心の底から桐矢は呆れ果てる。
「明日の朝になったら解いてやるよ」
「それじゃ意味がな――じゃない。こんな格好で寝れるわけがないだろう?」
「本音漏れてんじゃねぇかよ」
桐矢は相馬を無視して、部屋の明かりを消す。普段の桐矢は深夜まで起きるのが当たり前なのだが、合宿ということもあって二十二時という早さで就寝を決意していた。
「ほら、寝るぞ」
「だから寝れないと……」
文句を垂れそうになった相馬だったが、言葉尻は彼の寝息に消えていた。
「……のび太か、お前は」
あまりの早さに桐矢も呆れながら、天井を見上げる。
いつもより早い時間、というのもある。あるいは合宿という高揚感がそうさせるのかもしれない。肉体的な疲労はあれども、とても眠れる気がしない。
「羊を数えるのは逆効果だって聞いたことあるな」
明日もハードスケジュールのプレイなのだから、当然ここで寝なければいけないのは分かっている。
だが寝付きは自分でコントロールできないものだ。コチコチと秒針が動く音を聞きながら、じっと時が過ぎるのを待つ。
それは一時間だったかもしれないし、たった五分かもしれない。
眠れないとき特有の狂った時間感覚に陥っていくらか経った頃、ヴーヴー、と桐矢のスマホが小刻みに揺れ始めた。
「電話……?」
こんな時間に電話を受け取るような相手に、桐矢は覚えがなった。幼なじみの綾野世梨那は見た目通りのお子様なので就寝時間だけは異様に早いし、それ以外に電話番号を知っている友人もあまりいない。
誰だろう、と単純に疑問に思いながら通知画面を見ると、相手は葵立夏であった。
「先輩……? ――もしもし」
いったい何の用だろうかと思いながら通話に出る。
『あ、桐矢君。まだ起きてた?』
「まぁ寝付けなかったんで」
『駄目だよ、ちゃんと寝ないと。明日も合宿なんだから』
何故か説教口調になった葵に、桐矢は「いやそれ先輩もでしょ」とツッコみたくなったのを我慢してただ苦笑いで返した。
「先輩は、何の用です?」
『いや、実を言うとわたしも寝付けなくって。何となく話し相手が欲しいかなぁと……』
「いいですよ。――ここって屋上ありましたよね。せっかくなんでそこでどうです?」
『お、いい提案だね。じゃあ先に行って待ってるね』
さりげなく葵との二人きりの時間を手に入れた桐矢は、小さくガッツポーズをして和室を後にし、スニーカーを履いてぺたぺたとリノリウムの床の上を歩いていく。
夏場ということもあって、夜でも肌寒いということもなく適温くらいだった。少し冷たい空気を吸って、桐矢は屋上へと続く階段を上り、最後の扉を開ける。
――そこは、えも言われぬほど美しい星空だった。
黒よりももっと純粋な闇をたたえた、夜の帳。そこで真っ白に輝く星々が光りを散らし、赤や青の輝きを放つ星がまばらにあった。
きっと山奥に行けば降るような星は眺められるだろう。だがそれなりの街だからこその闇色と控えめな宝石たちは、また違った美しさがある。一つ一つが必死に輝こうとしているような、そんな力みたいなものを感じた。
「綺麗だよね」
そして、その深海のような青みがかった黒髪を風になびかせて、葵はいた。
ただただ、可憐だと思った。
言葉は要らない。写真に納めることさえ惜しいこの瞬間の自分だけの視界に、桐矢は感動すら覚えた。
「そうですね。来月くらいならペルセウス座流星群とかあって、もっと綺麗かもしれません」
そして葵の横に立って、共に星空を眺める。
「そうだね、そのときもまた合宿しよっか」
ふふ、と笑って葵は屋上のフェンスにもたれかかった。
「流れ星で思ったんだけどね。桐矢君は、このアサルトセイヴ・ヴァーサスで叶えたい願いはあるの?」
「……ありますよ。自分じゃまだそれが何なのか、はっきりと分かってないんですけど」
桐矢の素直な返事を、葵はただ頷いていた。
「そう。わたしもね、願いがあるんだよ。わたしの場合は、言葉にすればたった一言だけなんだけど」
儚げな、まるで硝子の用に透き通った笑みだった。
「……わたしってね、人との距離感がよく分からないんだ。親しい人とはずっと喋っていたいと思っちゃうし、それが相手にどう思われてるのかとかそういうのも分かんない」
葵の独白を、桐矢はただ黙って聞いていた。
言葉を挟んではいけないような気がした。
「でも、それってやっぱり鬱陶しいのかなって思って。あんまり友だちも多くなくて、気が付いたら、お兄ちゃんばっかりと遊んでた」
葵の兄――つまりこのアサルトセイヴ。ヴァーサスを開発し、それ以前に通信産業に革命をもたらしたNICの社長だ。
「でもある日、お兄ちゃんはいなくなった」
いつもの明るい声ではなかった。悲しみ、とも少し違う。それは感情が深い海の底に沈んでしまったかのような、そんな鎖された声だ。
「お兄ちゃんにとってわたしは邪魔だったのかな、とか色々考えちゃって。でも結局人の気持ちが分からないわたしは、お兄ちゃんが何を思って家を出たのか理解できなかった。わたしはきっと、一緒にいるだけで相手を嫌な思いにさせちゃうのかもしれない」
だからね、と葵は言う。
「わたしはもう一回お兄ちゃんに会って話がしたいの。わたしが駄目だったんならちゃんと謝るし、いくらでも反省もする。――このまま別れるのだけは、辛いから」
相馬から聞いていた話――からかわれていたからとか、そういうものとは少し違った。もちろん相馬の言っていたことも間違いではないだろう。確かにそういう面もあるはずだ。
だけれど、根本はそこじゃない。
怯えている、そう感じた桐矢の勘は正しかった。
葵はただ、誰かと接することにさえも怯えている。また自分が距離感を測り損ねて、相手が離れていってしまうんじゃないのか。そんな恐怖と戦っているのだ。
「だから、わたしのことを桐矢君たちがどう思ってるかは分からないけど、嫌わないで、もう少しだけそばにいてくれたらなって……」
葵は消え入りそうな声だった。恥ずかしがっているのとは違う。純粋に、孤独になるのが怖いのだ。
――また誰かが自分から離れていくことが、怖くて怖くて仕方ないのだ。
「……少しだけ、昔話をしてもいいですか?」
気が付けば、桐矢はそんなことを口にしていた。
「いいよ」
だが葵は嫌な顔もせず、優しく桐矢の言葉を待ってくれた。
「大したことじゃないんですけどね。――中学の頃、俺は一週間でバスケ部を辞めたって言いましたよね?」
「うん」
「あれ、ちょっとだけ複雑な事情があったんですよ。――膝を、少し怪我したんです」
火花でも散ったみたいに、膝の方から微かな痛みを感じた。とっくに、怪我は治っているはずなのに。
「新入部員と上級生のミニゲームの最中、ビギナーズラックでたまたま調子に乗ってた俺と先輩の一人がぶつかって、俺の方は靭帯を少し痛めちゃったんですよ。まぁ怪我自体は軽かったんですけど」
どうにか空気が重くならないようにと、桐矢は軽く薄っぺらな笑みを浮かべていた。
「で、膝を抱えてうずくまっている俺に、その先輩は小さい声で言ったんです。『俺の邪魔をするからだ』って」
あのときの粘ついたようなその男の笑みは、今でも網膜に焼き付いている。
吐き気すらするような、歪んだ笑みだ。
必死に軽い思い出にすり替えようとするのに、そんなちっぽけな努力を踏み躙るような、重く、そしてどす黒い記憶だった。
「それで、桐矢君は部活を辞めざるをえなくなった……?」
「あぁ、違いますよ。そうじゃないんです」
桐矢は慌てて手を横に振った。強がりとか気遣いとかではなく、桐矢が部活を辞めた理由はそこではないのだ。
「たぶん俺があそこにいるには、あの先輩と戦っていかなきゃいけないんだろうな、って思ったんです。で、怪我したまま三日かそこら頑張ったんですけどね。どうしたって勝てる気がしなかった。だから完全に負けてしまう前に、俺は逃げ出したんですよ」
負けるくらいなら、負けて惨めな思いをするくらいなら。
桐矢は、大切なものも簡単に諦めてしまえるから。
諦めた方が痛くないと、本気で、そう思っているから。
「それ以来もう部活動はいいかな、って思ってました。――でも、今はそうじゃない」
桐矢は自分の想いを、言葉にする。
言葉にしなくても伝わることはあるだろう。
でもきっと、言葉じゃないと伝わらないことだってあるはずだ。
「俺は先輩と一緒にいられて、楽しいと思ってますよ。すごく、かけがえのないものだって思えたんです。――先輩と一緒にいることが嫌だなんて、一度だって思ったことはないです」
その桐矢の言葉に、葵は目を丸くしていた。
「……先輩だからって気を使わなくてもいいよ?」
「俺はちゃんと俺の意志でここにいるんです。俺がここにいたいから、イクスクレイヴに乗ってるんですよ。だから先輩は、そんなに不安そうな顔しないでください」
優しい笑みになったかは分からない。随分と格好を付けたセリフなのは分かっているから、きっと照れなどで複雑な笑みになっていただろう。
それでも、桐矢はそう伝えたかった。キザなセリフに聞こえようが何だろうが、思ったことをそのまま葵の心へ届けたかった。
「……そっか」
「そうですよ」
桐矢の微笑みから葵は目を逸らし、そそくさと背を向けてしまう。――でもそれは、きっと照れ隠しなのだろう。
「ゆ、湯冷めしちゃうし、もう戻ろっか」
「そうですね、明日もハードですし」
桐矢は葵と共に並んで帰る。
その彼女の頬が少し赤かったのは、そっと胸の奥にしまっておくことにした。




