09 春 パンジー・ビオラ 8
そうではなかったようだ。薫はスミレとは別の方向――拓たちの方を向き、明るい声を上げた。
「できた!」
けれども、自分の声の大きさにはっとしたように辺りを見回すと、すぐにむすっとした表情に戻ってうつむいてしまった。顔が赤くなっている。
「やったな!」
「よかったね! 薫さん」
「このくらいで、そんなに褒めないで。……すごく不器用みたいじゃない」
苗と空になったポットを持ったまま、薫はそっぽを向いた。
「そのとおりだけどな」
体温の低そうな話し方のまま平然と拓が言うと、薫は顔を上げて頬を膨らませ、拓を睨みつけた。
「何よ、馬鹿にしてるの!」
「苗を振り回すな!」
「あー……薫さん、拓はそういうつもりじゃないと思うんだけど。……拓ももっとちゃんと説明しなさいよ。誤解されてもしょうがない言い方よ!」
茜が、バシバシぶつかり合う二人の視線の間に割って入った。
「すごく、かどうかは微妙だが、不器用は不器用だ。だが不器用なことよりもっと悪いことがある」
「な、何よ」
薫が唾を飲み込む音が辺りに響いた。
「自分の不器用さを認めねえってことだ。そのくせ、ちょっとほかの人間が不器用だ、と指摘しただけで動揺する。自分で自分が不器用だって認めてりゃ、そういうことにはならない」
「……やっぱり、馬鹿にしてんじゃん。……クラスのやつらと一緒だよ」
「薫さん、最後まで聞いてみない? 拓の話」
茜が、苗を持っていない手を薫の肩のすぐそばまでやり、空中で止めた。手袋をはめていなかったら、即、肩に手を置いている、という感じだ。
「馬鹿になどしていない。あきれてはいる」
茜とスミレがほぼ同時に、眉根に皺を寄せ、目を閉じて額近くに手をやった。口は軽く開いている。
「あっちゃー」
声には出さないものの、彼女たちの言葉が聞こえてきそうな雰囲気だ。
「不器用だとわかってれば、少しはそれを克服することもできる。……自分で認めなければ、いつまで経っても不器用なままだ。人の言うことにもいちいち振り回される。それでいいのか?」
言い終わったあとも何秒か拓は薫の目を見つめた。
薫は石のように固まった。何か言いたげに唇が蠢いたけれど、言葉にはならなかった。
拓は腕を伸ばしてバッグを引き寄せ、中身を片手で探り始めた。
拓の、汗がシャツに染みた背中に向かって薫は、ぼそっと呟いた。
「不器用の、何が悪いのよ」
「やっと認めたな」
拓はニヤッと笑った。
「効率が悪いし、周りの人間に思わぬ危害を与えることもある。……でも、注意深くやったり、何度もやって慣れたりすることで、変わっていける部分もあるんだ。本人に変わる気があれば、だけどな」
薫の目が大きく見開かれ、何度か瞬きが見られた。小鼻が微かにひくついている。
「いつまでも苗持ってても仕方ない。植えるぞ」
拓は苗を脇に置くと顔色一つ変えずに、木の柄がついたまだ新しい、銀色のハンドスコップを薫に渡した。
薫は顎を上げ、ひったくるようにそれを受け取った。
「だいたい、苗の根鉢(ねばち――根がポットの形にぐるぐる回ってるところの二倍くらいの大きさの穴を掘る」
拓の手つきをちらちらと横目で見ながら、薫は自分も苗を脇に置き、穴を掘り始めた。
拓と目が合うと、別にあんたの猿真似をしてるわけじゃないんだから、とでも言いたげに唇をへの字にして顔を逸らす。その勢いとはうらはらに、彼女のハンドスコップはひどく遠慮がちに土をつついている。
「もっと思いっきり掘っちゃって大丈夫よ」
茜がやはりハンドスコップで土を掘り起こしながら声をかけると、薫は小さく頷いた。アリやミミズが出てきても特に気にならないようで、弾みがついたようにハンドスコップを大きく土に潜り込ませ、土をすくって掻き出していく。
「あれっ」
薫の言葉に茜が手を止めた。
薫は不思議そうな顔をし、腕で額の汗を拭った。目を凝らして地面を見つめている。
「なんか土が急にさらさらになった」
「表面は、さっき水を撒いたからしっとり粘っこくなってたのかしらね。固まって、泥玉を作れるくらいっていうか。中はまだそこまで濡れてないんでしょう」
茜も自分が掘った穴の土をつまんで、指の間からすうっとこぼした。
薫は穴の中心を見据え、何かに憑かれたように、ハンドスコップで土に切り込んでいった。口を引き結び、息をつく間もなくハンドスコップを次々に土に深く突き立てては、掘り起こした土をパッパッと穴の周りに放っていく。
「わっ、なんだよ!」
彼女が顔を上げると、土だらけになった拓の背中があった。
「すくった土を放るときは、周りに人がいないかくらいは確認しろ。……さっき言ってた『思わぬ危害』ってのは、まさにこういうのだ」
後ろ手で土を払いながら拓が溜息をついた。
「……ごめんなさい」
今回は薫も素直に謝った。それから手袋を外し、拓のシャツについた土をパンパンッとはたき落とした。
「いいよ。次から気をつけてくれりゃ」
「あ、まだついてる」
薫はもう一度拓の背をシャツ越しにはたいた。
――ああっ、ごめんなさいね、拓さん。わたしからも謝ります。
妹がやった不始末を詫びるみたいに、スミレも頭を下げ、拓の背中についた土を払い落としている。
――や、スミレさんまでそんな。いいっすよ。どっちみち現実には影響ねーんだし。
――そういう問題じゃないんです!
凛とした表情で、スミレは背筋を伸ばした。
「あのさ……体にラジオとかすっごい小さい携帯端末とかつけてる? またさっきの女の人の声がしたんだけど。土をはたいたとき。ごめんなさいとかなんとか」
拓から離れた薫が不審そうな顔で、拓の背中や腹、脇の下などを見つめた。
拓の背を冷たい汗が伝った。唾を飲み込みながらスミレと目を合わせる。
――いっそゲロってもいいんじゃないでしょうか?
スミレは清楚な佇まいから想像しにくい言葉を吐いて、おっとりと笑っている。
――厭です。面倒。
胸のうちでぼそっと呟くと、拓は今度は薫を見下ろし、声に出した。
「いや。気のせいだろ。なんならもういっぺん触ってみるか」
「いい」
何この人気持ちわる! みたいな目で薫は拓を睨んだ。
拓は脱力しそうになるのを必死で抑えた。……なんとか仕切り直さないと。
「……ところで、手袋外しちまったんなら、素手で土を触ってみないか? 傷があるときは、破傷風になる恐れがあるからだめだが」
薫は頷き、おっかなびっくりといったふうに両手をそっと、自分が掘った穴の底近くに置いた。そして目を丸くした。
「……やわらかい。ふかふかしてる! 土ってこんなにやわらかいんだ!」
薫は場所を少しずつずらして何度も両手で軽く土を押えたり、手のひらと指を深く沈みこませたり、両の手のひらですくって匂いを嗅いだりした。
傷があるときや許可を得ていない場所はだめですけど、たまには土を触ってみるのもよいかもです。