81 冬 冬虫夏草 26
「どうもありがとうございます。じゃ、そのためにも、体力つけていただかないと! 目を閉じて、鼻をつまんでくださぁい! そうすれば、姿もにおいも気にせず食べられますよ。わたしの邪気を吸うのと、どっちがいいですか?」
吹子はぎゅっと目をつぶり、指で鼻をつまんで口を閉じた。
けれども、呼吸まで止めていたのか、しばらくすると水面近くに来た金魚みたいに、ぱっと大きく口を開けた。
ひょい。 すかさず茜は、その口にハンバーグを放り込んだ。
「……!」
目を瞠り口を開けようとする吹子の口と顎を、茜はがっちりと押さえた。
「手荒なことをしてすみませんが、はい、吐き出さずに噛んでくださぁい。噛めば噛むほど、味がしみでてきますよ」
吹子は、微かな表情を拡大解釈すれば「泣きそうな顔」で拓を見た。
けれども、拓も心を鬼にして、「すみません。噛んでみてください」と頭を下げた。
吹子はすっかり目から光を失い、もぐもぐやっていた。が、すぐにあれっという顔になった。
目に黒曜石の光や艶が戻り、しきりに瞬きしながら茜や拓を見る。
「どうです? 意外とおいしいんじゃないですか?」
こくこく、と吹子は茜に向かって頷いた。
そしてとうとう、ハンバーグを飲み下したのだった。
「お、おいしいです……!!」
吹子は体を起こした。
そして内側からぼうっと輝くような顔で、拓たちと、ちゃぶ台に載っている残りのハンバーグを見つめた。ハンバーグセットの黒いトレイには、ハンバーグのほかに鶏のから揚げとオレンジ色のスパゲッティ、ミックスベジタブルが入っている。
茜から割り箸を借りた吹子はもうひと口、今度は目を開け、鼻もつままずにハンバーグを食べた。
「こんなおいしいものを、今まで、食わず嫌いしてたんですね……わたし」
しみじみと呟く。
拓と茜はぷっと吹き出した。
「味がわかったら、においも大丈夫だったみたいですね」
「さ、これで拓の身も安心、と。ほかのもおいしいですよぉ、錦城さん。牛丼、豚の角煮、いろいろ食べてるうちに、好みがわかってくると思います。脂が多いのがいいとかよくないとか」
拓たちも牛丼を食べ始めた。
畳の部屋に、暖かい空気が満ち溢れる。
電灯がつくる茜の影に、彼女と微妙に異なる動きをする黒いものが混じっていることに、気づく者はなかった。
それからまた少しして、錦城薬局の裏庭に、プリムラ・ジュリアンを初めとする様々なプリムラ、ガーデンシクラメン、クリスマスローズ、スイートアリッサム、パンジー、ビオラの、いずれも白い花が植えられた。
そのそばには、葉が一面に白っぽいシロタエギクや、白い斑入りの葉がところどころあるハツユキカズラも植えられ、何もなかった裏庭は、ほぼ植物で埋め尽くされた。
「雪が、降ったみたい……」
作業を終えた拓や茜とともに外に出た吹子は、唇の端を上げ、何度も、何度も、裏庭を見渡した。花の精たちも皆、吹子の視界を妨げぬ場所で微笑んでいた。
「……チベットも、楽しかったわね。……見てると、いろいろ、思い出せる」
両手に抱えた錦城夏彦の遺影に向かって吹子は話しかけ、そっと目頭を押さえた。
了
春、夏、秋、冬と1年の季節がめぐり、この小説も終わりです。
続編を書きたいと考えていますが、更新はゆっくりになると思います。
ここまでお読みいただきまして、本当にありがとうございました。
ご来訪に心から感謝申し上げます。




