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75 冬  冬虫夏草 20

 ごめんなさい、と口にしたあと、吹子は話を続けた。


 ――わたしは、泣いて拒否きょひしました。このままで、十分、幸せだと。……でも、夏彦は、どうしても、吸ってほしい、と言うのです。……自分の命は短くなってもいいから、どうしても、 両親や兄妹に、わたしを会わせたい、自分が選んだ人だ、と報告したい、と。……好きな人の願いをかなえたい気持ちと、好きな人に長く元気でいてほしい気持ちとの間で、長いこと、わたしは、揺れ動きました。


 そして結局、夏彦の気を吸うことにしたのだという。


「ほかの人の気を吸おうとは、思わなかったんですか?」

 拓は、素朴な疑問を投げかけた。


 ――夏彦が、いやだと言ったので。

 即答だった。


 ――彼は、自分以外の人間の気、すなわち生体エネルギーを、絶対に吸ってほしくない、と 言いました。……そして、自分がもし死んでも、それを守ってほしい、と……。わたしは、守る、と約束しました。


 そうして、吹子は「人間」に――少なくとも、周りの人間から人間と認識される程度に――なった。


 ――本当に、楽しい日々でした。……一緒に家や外でご飯を食べるのも、薬局の仕事も、お客さんとのやり取りも、全部。薬や接客の、ちょっとしたことを夏彦に相談できるのも、思った以上に、大きな喜びでした。……結婚し、入籍して初めて、両親や兄妹というものができたし、チベットへの旅行などで、夏彦と一緒に写真に写ることができたのにも、感激しました。……自分が死んでも薬局を続けられるように、と、彼は学問もおさめさせてくれました。


 吹子のかそけき声から、心が震えるような喜びが、拓にも伝わってきた。


 けれども、夏彦は、少しずつ衰弱すいじゃくしていった。

 吹子は、何度も気を吸うのをやめようと思ったけれど、夏彦にも叱られるし、動けないと仕事もできない。最後の方は、泣きながら吸い続けた。


「ほかの人間がだめなら、動物の気は? 牛とか豚とか、人間だって食べるでしょ?」

 茜が腕組みして尋ねる。


 ――生きているものについては、動物園や牧場に遊びに行ったときに、試してみました。でも、どうしても、だめでした。……死んでいるものについても、何度も、挑戦しました。……ステーキ、すき焼き、ショウガ焼き、角煮、バンバンジー。……でも、形や匂いが苦手で、どうしても、口に入れることが、できませんでした。

 吹子は肩を落とした。


「何よそれ! 単なる食わず嫌いじゃない!」

 茜は眉をひくつかせながら体をねじった。拓の肩に手を当て、もう一方の手で、ぎゅうっと 自分の服を掴んでいる。


 ――おっしゃるとおり、です。

 吹子はうなだれるばかりだった。



 とうとう、夏彦は死んだ。

 彼が死んだ当初は、それまでに吸い取った彼の気を使い、吹子はなんとか「人間」として生活することができた。

 けれどもそれは貯金を切り崩して生活するようなもので、やがて立ちゆかなくなる。

 吹子は、必死で夏彦との約束を守った。


 ――どんなに生きのいい、活力かつりょくに満ちた気でも、見て見ぬふりをしてやり過ごしました。……ふと、もうすぐ死ぬと決まっている人のなら……と近所の高齢者の方について思ったこともありますが、夏彦の顔が浮かんで、どうしても、吸うことができませんでした。

 

 そうして体力の限界が近づいた頃に、ポストに入っていたチラシで、拓たちのことを知ったのだという。


 吹子は、店をたたもうと決心した。

 最後に、雪を見たいと思った。もう、チベットなど、雪深い所まで旅行する力は残っていない。だったらせめて、裏庭を雪が降ったみたいにできないか。

 

いらしてくださり、ありがとうございます。

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