74 冬 冬虫夏草 19
「これは……冬虫夏草?」
拓が呟くと、吹子は、木箱を両手の指をそっと木箱に当て、頷いた。
――そうです。……よく、ご存知ですね。……冬虫夏草もいろいろありますが、これは、チベットやヒマラヤなどでしか採れない、と言われているもので、コウモリガというガの幼虫に、生えます。……漢方薬として、高値で、取引されています。
「あのぅ、冬虫夏草って、なんですか?」
茜が、おずおずといった感じで会話に入ってきた。
――菌類です。
「菌、類?」
目の前のひょろ長い茶色いものを見ながら、茜は困ったような顔をした。
――簡単に言えば、キノコ。……正確には、バッカクキン科、冬虫夏草属の、菌類です。
「キノコ。ああ、それならわかるわ」
茜は身を乗り出して冬虫夏草を眺めながら、大きく頷いた。
――……まず胞子が、ガの幼虫に寄生して、その体内を菌核というものでいっぱいにします。……すると、子実体、……つまり、シイタケやマイタケの食べられるところみたいなものが、昆虫から生えてくるのです。……それが、これ。……古くから、滋養強壮などにいいと言われ、実際、抗菌|成分も含まれているようです。
話に沿って、ガの幼虫、そして茶色くてひょろっとした子実体を、ガラスの上から吹子は指でゆっくりとなぞった。
「生きてるんですか? これ」
――生きている、とまでは……。でも、漬けてある特殊な液体のせいで、死んでいるとも、言えないのです。
冬虫夏草の本体の両脇に自分の手のひらを仰向けにして、吹子は溜息をついた。
「でも、なんで冬虫夏草の精なのに、前はわたしにも錦城さんが見えてたんですか?」
それは……とうつむいたまま、吹子は唇を噛んだ。
――今より、人間に近かったからです。
拓と茜は顔を見合わせ、吹子の次の言葉を待った。
――わたしの夫、錦城夏彦は、水原さんと同じく、植物や菌類の精が、見える人間でした。……もうどのくらい前でしょうか、チベットの知人から直接、わたしの本体を譲り受けた夫は、わたしに、とてもよくしてくれました。わたしも、研究熱心で、優しい彼を、いつしか好きになりました。……しばらく一緒に暮らしたあと、結婚しよう、と彼は言ってくれました。……あ、長くなりますので、パイプ椅子を、ここに持ってきて座ってください。
うつむいたまま微かに微笑んだ吹子は、いつしか肩で息をしていた。
「錦城さんこそ、座ってください。とても疲れているように見えます」
拓は吹子の顔を見た。
彼女はけっして拓と目を合わさずに頷き、カウンター内の椅子に腰を下ろした。
拓たちもパイプ椅子を運んできて腰を下ろした。
――結婚しようと言われて、嬉しかったです。
これまでで最大の微笑みが吹子の口元に浮かび、頬も心なしか赤くなった。
――……でも、わたしは人間ではありません。……そうしたら、彼は、『人間になればいい』と言って。……そういう、思いがけない発想をするところも、好きなところです。……でも、その方法を聞いて、わたしは愕然としました。
錦城夏彦がした提案、それは、吹子が錦城夏彦の「気」、すなわち生体エネルギーを吸い、彼自身の気の濃度と同じくらいまで高める、ということだった。
「ちょっと待ってください。錦城さんは、光合成とかじゃなく、人間の気を吸って栄養を補給してるんですか!?」
急に茜の語気が荒くなったので、拓はその肩を押さえた。
拓自身、簡単に吹子の顔を見られなくなってしまった。
――本体の方が、もう何もできないので……。……でも、水原さんのは、吸っていません。 もちろん、土屋さんのも。……自分の意志でコントロールできるところは、ですが。……あとでお話ししますが、信じてください。
吹子は、カウンターの上で、左手を右手でぎゅっとくるみ込んだ。そして指輪の辺りをさすった。
「コントロールできないところもある、ってこと?」
悔しそうに呟き、茜は吹子が座っている椅子と、そして拓を睨みつけた。
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