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72 冬  冬虫夏草 17

 吹子は黙って、今度は茜を見た。やはりまなざしに曇りはない。


「今日、錦城さんが見えないとか言うんですよ。いや、俺は前と変わらず見えてるし、声も聞こえますけど。やっぱり、こいつどっか具合悪いんですかね。アハ、アハハハハ」


 無理やり笑い声を交えてみたものの、我ながら寒々しい、と拓は思った。

 きっとそうですよ、早く病院に連れてってください、でも、何か精神的なものですかね、心配だわ、でもいい、なんでもいいから、肯定してほしかった。


 けれども吹子は、

「そうですか」

 と言ったきり、視線を落として黙ってしまった。

 長い沈黙が訪れ、薬局の外を走り去るバイクや車の音、散歩する犬の鳴き声などがカーテンとガラス戸越しに拓の耳に響いた。



 ――……あなた、誰なんですか?



 再び視線を上げた吹子の言葉に、拓は目を見開いた。

 背筋がぞくっとした。


 ――ほかの人もたぶん、土屋さんと同じ。……今のわたしは見えないと思います。……昨日、 買い物に出ましたが、お店の人に、認識してもらえませんでした。


 声は、あいかわらず淡々としている。


 吹子は黒曜石のような目で拓を見据みすえている。悪意も、怒りも、悲しみも、その他の感情も、拓は読み取ることができない。


「俺は……俺は、ただの人間です。けど、……花の精が見えます」

 短い言葉を言い切るのに、ずいぶん時間がかかった。


「錦城さん、あなたは……あなたは、もしかして……花の精なんですか?」

 情けなくなるほど、声が震えた。

 また、沈黙が流れる。


 ――……花、ではありません。……でも、…………人間でもないです。


 今度は、吹子はうつむいていなかった。ただひたすら、拓を見つめている。


 カウンターの上で、右手の上に重ねられた左手の薬指には、銀色の指輪が光っている。摩耗まもうによると思われるにぶい光沢が、それをめ続けた歳月さいげつを物語っている。


「花じゃない、けど、人間でもないって……」

 拓の頭は混乱した。


 ――幽霊でも、ありません。

 にこりともせず、吹子は付け加えた。

 吹子の目はこの世のどんな黒よりも黒く光り、いくら覗き込んでも、心情が見えない。


 もっと奥まで覗き込めば、錦城さんが何を思い、何を考えているかわかるんだろうか。……いや、まだ見えない。もっともっと奥まで、焼けつくほど凝視ぎょうししたら、少しは何かつかめるんだろうか。

 彼女の心がわかるのならば、目の中に吸い込まれてしまいたいとさえ拓は思った。


 そのときだった。


「だめよ! その人をあんまり見つめちゃ!」

 茜が叫びながら片手を伸ばし、手のひらで拓の両目を覆った。


「うわ、何すんだよ! 離せ!」

 振りほどこうとしたが、茜は、子ザルが母ザルにしがみつくようにもう一方の手で拓の胴体と右腕に巻きつき、彼の目に当てた手のふちを彼の肌にぴたっと密着させていた。


「離さないわよ! 拓、この人に生気せいきを吸われてるかもしれないんだよ」

馬鹿ばか! 何を証拠しょうこにそんなこと言ってんだよ。錦城さんに失礼だろ。謝れ!」


 闇に閉ざされた視界の中で拓は叫んだ。左手で茜の手を払いのけようとしたが、どういうわけか力が入らない。


「ほら、拓より力がないわたしの手さえ、一人で払えなくなってるんだよ? わかってよ」

 茜の腕がよりきつく巻きつく。吹子ほどではないがやはり大きな胸が、拓の腹に密着する。



「錦城さん! ほんとすみません! こいつ思い込みが激しいところがあって、失礼なことばっか言って! ……でも悪気はないと思うんで、さしつかえなければ許してやってください」



 声はまだ出る。身動きできないまま、拓は叫んだ。「近所迷惑」という言葉が一瞬、頭をよぎり、途中から声をトーンダウンさせたけれど。


 錦城さんは、今、どんな目をしているのだろう……。

 眉尻と口角が下がった状態で伏せられた悲しげな目か。驚きと怒りに通常の三倍ほど見開かれた目か。まさかの、「フフフ、ばれちゃしょうがないわね、死んでおしまい! こわっぱども!」というすれっからしで淫靡いんびな流し目か。

 拓のまぶたの内側的スクリーンに、次々に吹子の映像が浮かび上がった。


「こわっぱ」と言われたことのないまま、大人になりました。


ここまでお読みいただきまして、どうもありがとうございました。

ご来訪に心から感謝いたします。


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