07 春 パンジー・ビオラ 6
自分の手の下で薫の小さな手がもぞ、と動いた。
!
拓の目がそれに釘付けになった。
ひょっとしてこれか? 俺の手がこいつの手に触れてるから、俺の体を通してスミレの声がこいつの耳に届いたってことなのか……?
にわかには信じ難かった。けれども頭をフル回転させても、ほかに「これまでと違うこと」は思い浮かばないのだった。
俺の心の声も聞こえたんだろうか? いや、聞こえていたらそのことにも触れてくるだろう。 俺の声が聞こえないっていうのは……まあ、普通か。その辺りは、植物と人間の違いなんだろうか。いやいやいや、でももしかしたら俺の心の声もダダ漏れかもしれねー。
「あー、俺がホース持ってっから、お前は蛇口を止めてこい」
薫はすぐに蛇口の方へ走っていった。
――薫ちゃんに聞こえちゃったみたいですね。わたしの声。困ったことではあるけれど、ちょっと嬉しいかも。
スミレが顎に指を当てて首をかしげた。
――何すかこれ! 俺の声もあいつに聞こえてるんですか?
――拓さんの声は大丈夫、聞こえてません。……えーと、わたしと拓さんは意思の疎通ができますよね? で、拓さんが薫ちゃんに肉体的に触れていると、拓さんが媒介になって、わたしの声が薫ちゃんに聞こえるってわけなんです。
――そりゃいったい、どんな仕組みで?
――うーん、わたしも上手く説明できないんですけど、そうですね、磁石にくっついてる鉄も磁石の性質を帯びる、みたいな感じかしら。あ、拓さんが磁石で薫ちゃんが鉄ね。うん、鉄ってなんか薫ちゃんの思春期特有の硬さに合ってるかも。
走っていく薫を見つめながら満足げに笑うスミレに拓は、冷たい視線を投げかけた。
――自分で言って自分でウケないでください。
――ふふ、鉄はむしろ拓さんの方かしら。むきになるところ、かわいいですね。
か、かわいいだと!?
いかにも自分が坊やだと言われているようだ。 大人の余裕という感じの謎めいた微笑みを浮かべるスミレに対して、拓はむっとするのが精一杯だった。
水道栓の所に走っていった薫は、蛇口を固くしめた。
シャワーヘッドはようやく息絶え、動かなくなった。
右手で左手をぎゅっとくるむようにして薫を見つめていたスミレも、ほっとしたように肩を下ろした。
「……水圧の関係なんかで、さっきみたいに急に水がたくさん出ることがあるから、蛇口やシャワーヘッドの調節機能は、ほどほどにしといた方がいい。あと、シャワーヘッドは人のいない方向に向けること。そうすりゃ、万一のことがあっても、被害が抑えられる」
戻ってきた薫に言いながら、拓は思った。濡れた体で言ってもなんか説得力ねえ……。
茜は、タオル地のハンカチを持って薫に駆け寄った。
「大丈夫? 濡れたとこ、これで拭いてね」
「ありがと」
ハンカチを受け取った薫は、下を向いた。
「ごめんなさい……水がぶわって出て、びっくりして、怖くなって逃げ出して……」
ひどくしょんぼりしていた。
「いいのいいの。思ったほど濡れてなくて、よかったよ。早く拭いた方がいいよ」
自分も別のハンカチで顔や体を拭きながら、茜は屈託なく笑い、薫の肩に手を置いた。いつの間にか茜もタメ口になっている。
「俺も、最初に言っときゃよかったんだ。水のこと。……あーそうだ、長い辺じゃなくて短い辺に沿って水をやった方が、水もいっぺんにそれほど出さなくていいし、体も楽かもしれん」
薫はまだ、うつむいていた。全身が暗い影に包まれたように、どよんとしている。
とにかく、頭を後悔無限ループから切り替えさせなければ。
拓は彼女の前にホースを差し出し、握らせた。
「もういっぺん、蛇口をひねるところからやってみろ。こういうのは、体で覚えるのが一番だ」
薫はおそるおそるといった様子でホースを握り、シャワーヘッドのダイヤルを「切」にしてから、水道栓の所に走っていった。
ゆっくりと蛇口をひねり、またホースの所に戻ってくる。植え替えスペースの長辺側に立ち、短辺方向、つまり壁側にシャワーヘッドを向けて、調節つまみを中ほどまで回す。さっきより少し勢いが弱く、水が出た。
薫は横に体をずらしながら、まんべんなく水を撒いていった。なかなかいい調子だ。土が水を吸い、どんどん色を濃くしていく。
「よし。こんな感じでやれれば、充分だ」
拓が言うと、ほんの微かに、薫は笑った。
「さ、次は植え替えだ。薫、いい苗をこの中から選んでみてくれ」
拓はパンジー、ビオラの苗が入ったケースを一つ、薫の目の前に置いた。
「いい苗?」
「元気で、よく育ちそうなやつだ」
薫は茜の顔を見上げたが、茜は
「ごめんねー、不勉強で。わたしも実はよく知らないのよ」
と後ろ頭を掻いた。
薫はしゃがみ込み、目をパチパチさせながらたくさんの苗を見つめた。端から端まで、何度も視線を往復させている。汗ばんだ額に髪が貼りつき、こめかみからも汗が流れている。
やはりしゃがんだスミレがさっきから、これよこれ! と口パクしながら一つの苗を指差しているのだが、薫にはもちろん見えない。
リアル姉ちゃんだったら、こいつの勉強を見たり、おやつや夕飯を作ってやったり、面倒見のいい姉ちゃんになるんだろうな。
あり得ない現実を、拓は夢想した。
「全部からが難しかったら、半分からこっちの中で選べばいいぞ。あと、四月とはいえ熱中症にならないとは言い切れない。特にジャージには熱がこもる。暑くなったら、適宜脱ぐように」
拓は自分もしゃがみ込んだ。薫の目を見ながら、そしてせめて怖い声にならないようにしながら話しかけた。顔はどうにもならないが、声なら、多少は変えられる。
「ほんとだ。薫さんもけっこう汗かいてるね。脱いだ方がいいんじゃない?」
茜に言われた薫は、立ち上がってジャージの上着を脱いだ。視線は紫や白やオレンジの苗に落としたまま、さっき茜から渡されたハンカチで汗を拭き取る。
「ああ、いい風……。気持ちいい」
彼女の口からその言葉が出たとき、拓は茜と顔を見合わせ、ひそかに口角を上げた。
目を閉じて風に体を晒す薫の向こうでは、スミレが、握った指の上で親指を立てていた。
――薫ちゃんから今みたいな言葉が聞ける日が来るなんて! 拓さん、グッジョブです!
反対の手にはハンカチを持ち、そっと目頭を押さえている。
「いや、まあこんなのは『北風と太陽』みたいなもんだから、別に」
うっかり声に出してしまった拓であった。
えっ何? と薫が振り向いたので、独り言だ、と答えた。
時間をかけて薫が選んだのは、オレンジ色の花が咲いている、背がひょろっと高い苗だった。
「どうしてこれを選んだんだ?」
「背が高いから、よく成長してると思って」
ふむ、と拓は腕組みをした。薫が小柄であることとこの選択は、ひょっとしたら関係がある のかもしれないし、ないのかもしれない……。
拓は近くにあった背が低い苗を一つ掴むと、薫が選んだ苗と並べて地面に置いた。
「確かに背は高い。でも、こっちの背が低い苗に比べると、茎はひょろっとしてるし、葉の色も薄いし、この下葉なんか黄色くなってるだろ?」
薫は左右の苗を交互に見て、頷いた。
「つまり、あんまり元気がないってことなんだよ。背が低くても茎がしっかりして、葉の緑色が濃くて、下葉がたくさんついてる苗の方が、元気だしよく育つ」
そうなんだ! とか知らなかった! とかいった知る喜びや好奇心に満ちた反応を、拓は想像した。
けれども目の前の少女は、自分が選んだ苗を両手で持ち上げながら、むすっとしている。
「……元気がないと、捨てちゃうの?」
薫は唇をきつく結んだ。
「えっ?」
拓はすぐには言葉が返せない。
「元気がなかったらさ、植えてももらえないわけ?」
薫は眉をひそめ、ぎろっと拓を睨んだ。両手でくるむようにして、ひょろ長い苗のポットを大切そうに抱えている。
スミレが彼女に寄り添うようにしゃがみ込み、黙って拓を見上げている。青い目が、静かな湖のような光を湛えている。
「そ、そんなことないよね」
茫然としている拓に、茜が声をかけた。