68 冬 冬虫夏草 13
最初は快調にスコップを使っていた吹子も、だんだん、それを土に突き刺したり土をすくったりするスピードが落ちてきた。
「ほんとに、無理しないでください」
拓が前に回って吹子の顔を覗き込むと、彼女ははい、と顔を上げて小さく笑った。
「大丈夫です」
目は楽しげな光を含んでいる。けれども額に髪の毛が貼りつき、肩で息をしている。こめかみや首筋を汗が流れてもいる。
少ししてまた、彼女は作業に戻った。
そのうち、土に突き立てたスコップの取っ手を両手で押さえている時間が長くなった。
「あとは俺一人でやります。また倒れられてもなんですし、余力がある今、やめてもらった方がいいと思います。顔色もちょっとよくないし」
拓は相手の目をまっすぐ見ながら訴えた。
「ありがとうございます。……自分から手伝うと言っておきながら、すみません。……でも、ご忠告に、従うことにします」
吹子は体の前でスコップを地面に突き立てたまま、肩を大きく上下に動かした。
それから、拓に会釈して建物の方へと戻っていった。
「あ、汗をちゃんと拭いてください! 風邪ひきますから!」
拓が叫ぶと吹子は振り向き、唇を閉じて微笑んだまま、頷いた。
間もなく、拓もその日の作業を終えた。
このまま数日置き、腐葉土や堆肥を混ぜ合わせた上で深層の土と表層の土をひっくり返して埋め戻せば、天地返しは終了である。
吹子は、前の日と同じ畳の部屋でまた、拓にキーマン紅茶を差し出した。
……しまった。建物に入る前に、汗を拭いておくんだった。
と思ったけれど顔には出さず、拓は「ありがとうございます」と紅茶を飲んだ。
吹子は吹子で、汗は拭きとったようだけれどカットソーの胸の辺りに大きな汗染みができ、まるで胸の谷間から大量に汗が湧き出たみたいになっていた。
紅茶はやはり美味かった。激しい運動並みの作業後だけに、五臓六腑にしみわたる。
けれども、汗をかいているときに熱いものを飲めば、よけい汗が出る。
こめかみから首筋を通り胸へ、そして背中の上から下へ、と汗のしずくが流れ落ちていく。
最初は我慢していた。が、拓はとうとう、「すみません」ともうすっかり水分を含みきったハンカチで汗を押さえ始めた。
それを見た吹子は、「ちょっと席を外します」と立ち上がり、襖の向こうに消えた。
階段を上っていく軋んだ音がした。
しばらくして戻ってきた彼女の手には、洗ってあるふかふかの白いタオルがあった。
「どうぞ」
「いいです。悪いですし」
差し出されたそれを、拓は手で押し返すようにした。
「いえ、汗はちゃんと拭かないと、いけないのでしょう? ……頭部打撲と風邪、もし二つ同時に症状が出たら、つらいですよ」
彼女は両手でタオルを差し出したまま、人形のように動かない。
「でも、汚してしまうし」
拓は再び断った。
次の瞬間。
こめかみにやわらかいものが当たった。
何が起こったのか、とっさにはわからなかった。
吹子の顔が自分の顔のすぐそばにある。
ベビーパウダーのようないい匂いがする。
吹子は、ベージュピンクの唇を閉じたまま、黒曜石みたいな目で眼鏡越しに自分を見上げている。
……そして細い腕を伸ばし、タオルで、俺の汗を!!
拓はしばし声が出なかった。
タオルがすうっとこめかみから頬に、そして首筋へと動いて初めて、
「な、何してるんですか」
と拓は後ろに飛びすさった。
急に速く打ち始めた心臓の音が、体中に反響している。
「何って……汗を拭いているのです」
吹子は不思議そうに首を傾けた。
「何もしなかったら、どんどん冷えて、……本当に、風邪をひいてしまいます」
「だ、だからっつって、昨日知り合ったばかりの男の汗を、い、いきなり拭いちゃいけませんっ!!」
「……なんでですか?」
「な、なんでって……なんでもです! 貸してください!」
拓は吹子の手からタオルを奪い取ると、乾布摩擦のようにゴシゴシと首や胸、背中の汗を拭きまくった。
頭がくらくらした。
心臓の鼓動もますます速くなり、口から飛び出こそしないけれどもう外してしまいたいくらい打ち続けている。
「ごめんなさい。……いけないこと、なのですね……」
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