66 冬 冬虫夏草 11
「一週間くらいは、油断しないでください。……痛むようでしたら、薬をお渡しします」
「お辞儀でうっかり頭突きしてしまう人」というよりは、すっかり、「薬局の人」の顔である。緑の眼鏡も、やけにクールに見えた。
「わかりました。じゃ、天地返しの作業を始めますんで」
「よろしくお願いします」
吹子は頭を下げた。また深々と頭を下げたため、カットソーから胸の谷間が見えてしまった。
白くなめらかで、大きく盛り上がった二つの乳房。その間の影はスッとシャープで、黒く、奥深い。
拓はそれらをさっと目に焼きつけると、顔を逸らした。
「今日は、土屋さんは」
吹子の声に、背中がびくっとなった。
「あいつはか……ほかに用事があって」
「そうですか」
吹子は、残念そうな顔をした。
裏庭に出て、拓は大きく息を吐き出した。
ビニール手袋をはめ、さっそく剣スコップで土を掘り返し始める。
「天地返し」の名のとおり、表層と深層、つまり上の方と中の方の土をひっくり返して寒気や日光に晒すつもりで掘らねばならない。よって、かなり深く掘る必要がある。
正直しんどい。
ゴム長靴を持ってくればよかった、と後悔してもどうにもならず、靴はたちまち土だらけになった。
でもそれで土が殺菌・消毒され、通気性や排水性もよくなれば、植えられる花その他の植物が、よりよい形で成長できるのだ。
ふだんよく使っているハンドスコップに比べて、スコップは一度にたくさんの土を掘ることができるのが魅力だ。
柄が長いこともあり、先をぐっと土の中に突き刺してからすくうと、残っていた木の根や石ごと大量の土が持ち上がる。
木の根や石は、取り除いてごみ袋に入れる。
Cの字に丸まったガの幼虫、カタツムリ、ナメクジも、植物の葉や根を食べるので取り除いてコンビニの袋に放り込む。逃げないように最終的には口を縛る。その上で、あとでまとめてごみ袋に入れるのだ。
鬱蒼とした森を思い出させる土の匂いを肺の奥まで吸い込み、拓は作業を進めた。
掘っているうちに、どこまでも深く掘りたくなってくる。
いったん崩せばさらさらとおとなしく持ち上がる黒っぽい土の奥深くに、スコップがガッ、と当たってなかなか先に進めなくなるところが出てきた。
オレンジ色に近い、硬い土だ。
スコップのブレード部分の肩に足をかけ、ぐっと踏み込む。何度か踏み込み、こじ開けるようにしてスコップを突き立てる。
いったん姿勢を戻し、左脚を少し前に出して両脚を広げ、膝を曲げる。
てこの原理を頭に置き、柄とブレードの境目を支点と考え、力点である柄の先端をぐっと押し下げて土をすくう。
かなり粘りけが強く、みっしりと硬い。
けれどもそれとて、時に角度を変えスコップで何度も突き刺し、掘り返していれば、少しずつ崩れてくる。
いつしか溝と、その両脇の、もこもこと畝のように盛り上がった土の塊とができあがっていた。片側が表層の土、もう片側が深層の土である。
拓は、自分がモグラになったみたいな気分になった。
額や背中を、汗が流れる。
腕を伸ばし、背筋や腰を使い、脚を踏ん張る。
全身をくまなく使う作業のため、ハンドスコップでの作業と違って腰が痛くなりやすいのが難点と言えば難点だった。
くぅ……いてててて。
拓は何度か、直立の姿勢になり、腰を軽く拳で叩いた。
これも「花その他の植物がより生きやすくするため」だと思えば、疲れも吹き飛ぶ。
だが、今回は、天地返しをしたあとに植える花のことよりも、しきりと錦城吹子の姿が脳裏に浮かぶのだった。
こんなことは、初めてだった。
出会いがしら、立ちくらみで拓の腕に支えられたときの体の、細さと、低反発枕よりもずっとやわらかい感触。
「雪が降ったようになれば」と言ったときの、あるかなきかの微笑み。
眼鏡の奥で黒曜石みたいに艶めく目と、かそけき声。
お辞儀で相手の頭を頭突きしてしまううっかり加減。
彼女も頭が痛いだろうに、一生懸命、自分のことを心配してくれた姿。
胸が大きく開いたカットソーを着て深々と頭を下げてしまう無防備さ……と露わになった胸の谷間。
似合っている白衣。
亡くなった夫と過ごした日々の思い出や、彼を失った悲しみが奥に秘められているような、無表情のときの顔。
それらが、振り払っても振り払っても、スコップで何かするたびに次の映像に切り替わり、無限ループするのだった。
……錦城吹子が天地返しをしたら、あの大きな胸もたゆんたゆん、と揺れるに違いない。
白衣を脱ぎ、襟ぐりが大きな黒いカットソー姿でスコップを大地に突き立て、大量の土を掘り返す吹子という、新たな妄想映像まで加わる。
しかもスローモーション。
そしてリピート。リピート。リピ(以下略)。
再び、拓の腕に倒れ込んできた姿へと映像は戻る……。
拓が剣スコップごと異世界に転生したら、必殺技は「奥義 天地返し」とかになるんですかね。
「俺たちの煩悩はこれからだ!」的な区切りになってしまいましたが、ここまでお読みいただきまして、どうもありがとうございました。




