06 春 パンジー・ビオラ 5
「そいつはお母さんとでも相談して決めてくれりゃいいんだ。でもま、今日は仮に、ということで水やりと花の植え替えをやらないか?」
「む、無理しなくていいんですよ? 厭なら厭って言ってくれてかまわないんですからね」
そりゃ助け舟じゃなくて追い討ちじゃねーか……? お前は要らない、みてーな……。
鼻の穴を広げて思いきり薫に顔を近づけている茜を見ながら思ったけれど、拓は黙っていた。
「……やる」
拓にではなく茜に向かって、薫は答えた。
「……で、シャワーヘッドのダイヤルを回すと、水の勢いが調節できる。今回は、スペース全体に少しずつ水を含ませればいいから、まあ普通にシャワーって感じでやればいい」
薫は蛇口を大きく開くと、長方形の長辺に沿って水をやり始めた。長い距離に水をやるので、ホースのシャワーヘッドの水勢も最大にしていた。
口を固く引き結び、緊張した面持ちだ。
「なかなかいい調子じゃないか。うん、そんな感じだ」
拓が言った直後、グォボゴボッと大きな音がし、急に水がものすごく勢いよく出始めた。
ホースが蛇のようにのたくり、制御しきれなくなった薫が手を放す。シャワーヘッドの向きが変わる。
「おわっ!」
「きゃーっ!」
薫を見守っていた拓と茜に、生き物のようにうねるシャワーヘッドから容赦なく水がかかる。
顔や腕ばかりでなく、制服のシャツも、二人ともたちまち濡れてしまった。拓はTシャツが、茜はブラジャーが透けている。
スミレが両手でシャワーヘッド近くを掴み、押さえ込んでいるのだけれど、当然、何の効果もない。
逃げまどいながらもホースを掴もうとした茜に向かって、拓は叫んだ。
「だめだ!」
茫然とした茜はなおも何秒か水を浴び続け、ようやく反対方向に飛びすさった。
「おい薫! 一人でやっててこうなったら、どうするんだ!? 次からは、お前一人しかいないんだぞ!」
水が出るのと反対方向に遠く逃げて突っ立っていた薫は、はっとして戻ってきた。
そしてホースの中ほどを両手で握りしめた。ホースはまだ左に、右に、蛇が頭を振るように暴れている。シャワーヘッドが鎌首をもたげるように跳ね上がり、その角度によって、薫の顔やTシャツも水がかかって濡れる。
拓は黙ったまま無表情でその様子を見ていた。
茜は、両手の指を固く組んで拓と薫を見守っていた。
薫は時々ぎゅっと目をつぶり、顔を背けながらも手をホースから放さない。飛沫が顔やシャツにどんどん飛び散っていく。
「ねえ、もういいんじゃない?」
茜が心配そうな顔で拓を見上げる。
「だめだ。自分で気づくことが大事なんだ」
しばらく経っても薫の行動は変わらなかった。
「……このまま続けても、たぶん気づかないよ。風邪でも引かせたら、部として活動を続けられるかって問題にもなるよ? わたしそんなの絶対厭だからね、部長!」
茜は頬を紅潮させ奥歯まで見せながら、拓の体を激しく揺さぶった。部長、という声は大きく、拓の体がびくっとなった。
そうだ。俺は園芸部の部長だ。もし部が活動できなくなったら、学校や地域の植物にも支障が出てしまう……。
拓は舌打ちをし、大きく息を吐き出した。
「あーもう!」
それから薫に走り寄り、彼女の手に自分の手を重ねた。
「いいか! ホースを制御するには、もっとシャワーヘッドの近を握らなきゃだめだ!」
そのまま薫の手ごと、自分の手をシャワーヘッドにより近い所にずらした。
「ほら、こうすればさっきよりは動きが小さくなったろ?」
水はまだ断続的に爆発的に噴き出てくるけれど、ホースとシャワーヘッドの動きは、怒って鎌首をもたげた凶暴な蛇から人畜無害のおとなしい蛇くらいになった。
「この状態で、シャワーヘッドのダイヤルを『切』にするんだ」
薫は唇を固く結んだままぎこちなく頷き、シャワーヘッドのダイヤルを『切』にした。
――拓さん、ナイスです!
拓たちと一緒にホースを押さえていたスミレが、朝日を浴びて輝くビオラみたいな微笑みを浮かべた。
――いや、まだこれからです。
声に出さずに答えた拓は、薫がきょとんとした顔で自分を見つめているのに気づいた。
「どした?」
「今、女の人の声がしたんだけど。聞こえなかった?」
「……いや、別に」
「そう」
薫は辺りを何度も見まわした。それから、口を尖らせて首をひねった。
「ちなみに、なんて言ってたんだ?」
「拓さん、ナイスです、みたいな」
えっ!? どういうことだ。
努めて冷静な顔でホースを制御しながら、ごく短い時間で拓は考えた。
……薫にも花の精の言葉が聞こえるのか? いや、それならとっくの昔に聞こえてるはずだ。スミレの言動からすると、今日以前に、声に出して薫の応援をまったくしたことがないというのは考えづらいからな……。
こんなにびっくりしてるってことは、今、初めて聞こえたってことだ。嘘だろ!? 聞こえるはずが……茜にだって花の声は聞こえたことがないのに。いや、万一ほんとに聞こえたんなら、いったいどういう条件が……何がこれまでと違うんだ。