05 春 パンジー・ビオラ 4
上下ジャージ姿でショートカットの小柄な少女が、不審そうな目で階段から拓たちを見下ろしている。
「あ……あなたが薫さんですか?」
茜がビブラートがかかった声で咄嗟に口の端を上げると、少女は、黙ったまま頷いた。
「さっそくなんだけど、水を撒くホースないか?」
「拓、言葉遣いに気をつけなさいよ! この方はお客さんよ」
茜は拓の前に回り込んで腰に両手を当て、顎を反らした。それから、薫に向かって、
「いきなりごめんなさい。口と目つきは悪いけど、腕と性格は悪いやつじゃないんで許してやってくれますか。あ、わたしは土屋茜っていいます。こいつは水原拓。よろしくお願いします」
と頭を下げた。
薫は微かに頭を下げ、への字の形のまま唇をぐっと押し上げた。
「いいんだよ。お客様は彼女のお母さん。そのお母さんが娘を好きに使ってくれって言ったんだからさ」
「あんたねえ、薫さんのお母さんの前でも、同じこと言えるの!?」
「言える」
拓は、茜が何でこんなことにむきになっているのかわからなかった。
「水を撒くための長いホースがあるか教えてほしいんだ。広いから、大型じょうろでもちょっと時間がかかる。たくさんの苗を植えなきゃいけないし、ホースがあると、大変ありがたい」
薫は、黙ったまま階段を下りてきた。中学三年生にしても幼い顔つきで、目と目が少し離れていて鼻や口、顎が小さい。背も低い。彼女は拓と茜の顔を、無表情のまま見比べ、一呼吸置いた。
「外の物置にある」
踵を返そうとする薫に向かって拓は、案内してくれないか、と頼んだ。
「初めて来た家の物置を、勝手にがさがさするのは気が進まないんでな。物置がどこにあるかもわからんし」
薫は自分をまっすぐに見据える拓の目をじっと見返した。心配そうに瞬きしながら自分を見つめる茜にも目をやった。そして黙って頷くと、シューズクローゼットからスニーカーを出し、ドアノブに手をかけた。
「うっ」
ドアを開けた瞬間、薫は腕を額にかざした。目をぎゅっとつぶり、鼻の頭に皺を寄せている。
「そんなに眩しい?」
茜が横からそっと声をかけると、薫は腕を額に押し当てて頷き、ゆっくりと目を開けた。腕を下ろしたあとも、目をしばたたかせている。
「ほんとにずっと家ん中にいて、全然外に出てないとか」
拓が何気なく言うと、薫はものすごい顔をして拓を睨みつけた。頬が赤くなっている。彼女は急に大股になり、玄関に向かって右の方向に歩き出した。拓と茜は顔を見合わせ、彼女についていった。スミレも、拓たちに並ぶかたちで同行する。
家の側面は、塀のせいで少し日陰になっている。そこを通り抜けた裏側に、人一人が生活できそうな小屋くらいの物置があった。
薫が引き戸を開けると、枠の中にぐるぐると巻きとられたシャワーヘッド付きホースが、奥の方に見えた。薫が顔を顰めて両手でそれを持ち上げ、引っ張り出す。スミレは肘を曲げて拳を握りしめ、何度も言う。
――薫ちゃん、ファイト! 頑張れー!
その声は薫に届くはずもないが、スミレは特に気にしていないようだった。
やがて薫はホースを拓と茜の前に置いた。
小柄な体からすると重かったようで、もう肩で息をしていた。スミレが薫のすぐ横で、目をタラしてパチパチと手を叩いていた。
「ありがとう。これでだいぶ作業が楽になる」
ホースを手にした拓が笑顔で言うと薫はうつむき、小さな声で、いえ、とかぶりを振った。
「あ、まだ頼みたいことあるから一緒に来てくれ」
断られるかと拓は思ったけれど、薫はついてきた。といっても、ジャージのポケットに手を突っ込み、下ばかり見ている。
スミレはといえば、手を縦や横に泳がせ、見ている側が脱力するような妙な踊りを踊りながら、くるくると薫や拓たちの周りを回っている。しばらく見ているうちに、風の流れに乗ったしなやかな動きだと拓は気づいた。
再び家の正面に来た。
拓は手早くホースの口を近くにある水道栓の蛇口につなぎ、枠の横についているハンドルを回してホースを伸ばした。それから、アプローチの左右に広がる植え替えスペースのうち、左側だけ先に水を撒いた。しぶきが太陽の光を反射して光る。
「これで水、撒いたことあっか?」
薫はまた無言で、首を横に振った。
「そうか。じゃ、実地訓練だ」
怪訝そうな顔をする薫に向かって、拓は続けた。
「お前、家で何か仕事してる?」
薫は目を見開き、それから、別に、と目を逸らした。
「ちょ、お客さんの娘さんに『お前』はないでしょ『お前』は!」
「いいんだ。言ったろ? 客が『娘を好きに使え』っつったって。それにこいつ年下だし」
「よくないって!」
肘を曲げて両の拳をブンブンさせている茜をよそに、拓は薫に向かって話し続けた。
「仕事してねーなら、するこった。学生の仕事っつったら、勉強したり運動したり友達と遊んだりすることだ。だけどそれをやってねーっつうんなら、代わりのなんかをやらねーと」
「ちょ、何、説教してんの!」
茜が慌てて拓に駆け寄り、ホースを引っ張った。拓は自分の手を重ねて茜の手をホースから外した。
「説教じゃない。諺の話をしてるんだ。……『働かざる者食うべからず』って諺のな」
拓は「働かざる者」の辺りから、薫に視線を移した。
「なんで?」
薫の目は挑発的だった。闘志にスイッチが入り、光となって急に輝き始めたようだった。
「なんでって、そりゃ、食い物には植物が入ってるからだよ。米とか小麦とか、ジャガイモ、ニンジン、タマネギ、キャベツ、トマト、ネギ、ホウレンソウ、ミカン、バナナ、リンゴ、アボカド、みんな植物が頑張って成長して、身を犠牲にして俺たちの食い物になってるんだ。こちらも相応のことをしなければ失礼だ! 植物に対して」
いつの間にか拳を握りしめている拓だった。
「植物もだろうけど、人も頑張ってるよね? 植物を育ててる農家の人とか、それを売る八百屋の人とか」
茜がこそっと付け加えた。
「じゃ、肉だけ食べる」
極めて冷静かつ吐き捨てるような、女子中学生の答え。
薫はぷいっと、という言葉がまさにふさわしい感じで横を向いた。
「ライオンやヒョウに生まれてこなかった時点で諦めろ。それに、肉は得てして高い! 価格的に親不孝だ。……まあ、金持ちそうだからあんまり心配しなくていいのかもしれないけど」
――あのう……拓さん、あんまり薫ちゃんを責めないでくださいね。 スミレが泣きそうな顔をしている。
――別に、責めてるわけじゃ。
薫がいる手前、拓は胸のうちで答えた。
「へぇ。じゃ、病気や怪我で働けない人は、食べないで死ぬべきなんだ」
不意に薫が言葉を発した。これまで一番長い言葉だった。
拓は唾を飲み込んだ。
「またそんな短絡的な。もちろん例外はある。病気で働けないとか、求めても仕事がないとか。でもお前はそういうんじゃ……ないんじゃねーの? ……もし具合わりいんなら謝るけどさ」
「別に、病気とかじゃない」
薫はうつむいたまま、スニーカーの踵で地面をこすった。
「でも、学校には行きたくない」
「学校に行けとは言ってない。俺に関係ねーし植物絡まねーし。じゃ、まあ、仕事するんだな」
「仕事って……援助交際とか?」
ずっこけそうになるのを、拓は必死で抑えた。
薫の目は真剣だった。
「俺は別に、金を稼げって言ってるわけじゃないんだ。……ただ、飯というのは、大人だろうがガキだろうが、やるべきことをやったもんが食うべきだと思ってる」
やるべきこと、と薫は反復した。
――わたし別に何もしてないですけど、光合成できてますよ?
手を後ろ手に組んで上半身を乗り出してくるスミレを、拓はあえて無視した。
「具合悪くなくて家にいるなら、何か仕事しろ。風呂掃除でも、夕飯の支度を手伝うでも何でもいい」
――「いただきます」の号令をかける係もありますよねー。
と、スミレが付け加える。
「じゃ、肉だけ食べる」自分も言ってみたいです。