40 秋 コスモス・ローズマリー 7
仕事をする拓の近くで繰り広げられていた、エスペランサ、ローザ、男性の修羅場(?)は……。
――寝ましたか?
――ええ。泣き疲れたみたいですわ。かわいい寝顔。
――本当に。
エスペランサと男性は、夫婦が我が子の寝顔を覗き込むようにしてどちらともなく笑顔になった。しばらくして男性が、言い出しにくそうに口を開いた。無声音に近い小さな声だ。
――それにしても、こう反対されたのではかなわないな。デートどころか、話もゆっくりできやしない。ローザは確かにかわいいですが、ぼくはあなたと一緒にいたいんです。
エスペランサの顔がますます赤くなった。彼女はリンゴみたいに光沢を帯びた頬に手をやり、睫毛を震わせながら男性を見た。それから、目を逸らしたりまた見たりを繰り返した。
――べべべべべ、べつにわたくしは、あなたとそんなに一緒にいなくてもかまわないですわ! でも、わたくしのせいで、あなたにもずいぶん迷惑をかけてしまっていることは、す、す、すまなく思っています。ローザにもわかってもらえるよう、ちゃんと話さなきゃ、っていつも自分に言い聞かせているし。けれども、顔を見ると……そして今日みたいに泣かれてしまうと、どうしても決心がにぶってしまって。
しばし沈黙が二人の間に流れた。
男性は穏やかに微笑みながら、エスペランサの空いている手に自分のごつい手を重ねた。
エスペランサはびくっと小さく飛び上がったが、手をはねのけることはなかった。
男性の手だけでなく、エスペランサの手も意外と大きいことに拓は気づいた。
――気持ちはわからなくもないです。あなたが妹みたいに彼女をかわいがってきたのも知っている。でも、引き延ばしてもやがて別れの日は来るんですよ。真実を話した方が、いきなりいなくなるよりはいいと、ぼくも思います。
――ええ。わかっていますわ。
エスペランサは息をつきながら目を伏せた。すごく真剣かつ悩ましい場面だ。
けれども、自分に対するのとこの男性に対するのと、エスペランサの態度の変わりっぷりがすごすぎることのインパクトが強すぎて、拓はぼんやりと考えていた。
……この男もいつか、俺みたいに「この下僕が!」とか言われるんだろうか、エスペランサに……。いや、そもそも、彼女がそんなことを言うと知っているだろうか。
――盗み聞きですか? 行儀の悪いこと!
急に冷ややかな声がした。いちおう小声ではある。
いつのまにかエスペランサが、ローザを本体、つまりローズマリーの茂みにそっと寝かせて、男性とともにこちらにやってきていた。
――そっちこそ人聞きの悪いこと言うなよ! あんな大声でローザが「だめぇ―――!!」なんて言ってりゃ、何かと思うぞ! 耳は塞げねーんだし。
語気は激しく、けれども相手と同じくらいの声で、拓は胸のうちで答えた。
――塞げないのであれば、道具を使って塞ぐ工夫をすべきですわ。植物よりもよほどあとから生まれてきた下僕たる人間が、植物の言葉を聞くなどおこがましい! わたくしたちは下僕に聞かせる言葉など持ち合わせておりません。この下僕が!
フンッとエスペランサはそっぽを向いた。
あ、やっぱり「この下僕が!」って言った。
拓は男性を見たが、彼は特に驚いたふうもなかった。
――人間を下僕などと呼んではいけません、エスペランサ。先に生まれてきたものの下僕になるのであれば、ぼくらは水中に住むプランクトンの下僕にならねばなりませんよ。例えばスピルリナみたいに、三十億年前に初めて光合成により酸素を作った藍藻とかの。そしてそちらの方、申し訳ありません。失礼をお許しください。
男性は、知性にあふれた目でエスペランサを諭し、静かに拓に頭を下げた。
声を荒げることも、筋肉の盛り上がった腕を振り上げることもまったくなかった。
――いや、別にあんたに言われたわけじゃないし。頭、上げてください。
この男は、エスペランサが「この下僕が!」と言うことも、彼女の人間に対する考え方も全部知ってて、彼女のことを好きなんだな……。
苦労しているに違いない。
そう思うと、また、好きな女性の考えに影響されずに自分というか人間を尊重する姿勢を見ると、拓はぐっと胸にこみ上げてくるものがあった。
――またそんなのんびりしたことを言って! ゆったりかまえすぎていると、わたくしたちの故郷がスペインに征服されたみたいに、きっとこのげ……人間にひどい目に遭いますわよ。
エスペランサは、体の脇で両手をぐぬっと握りしめた。眉が上下し、ロングサイドテールが別の生き物のように激しくうねった。
――心外だなあ。目つきはともかく、彼の過去を見れば、危険性がない人物であることは明らか。昔のメキシコに攻めいったスペインに例えるのはかわいそうです! むしろエスペランサ、あなたこそ、名前が意味する「希望」より「悪夢」に近いですよ!
男性も容赦ない。
そういえば、コスモスの原産地はメキシコだったな。
拓は思い出した。とすると彼らが着ている服は、メキシコの民族衣装なのだろうか。




